4/28 「その日に向かい」 説教者/川内活也 牧師

使徒言行録 1章6節~11節

弟子から使徒へ

「使徒言行録」との書名が付けられているこの書ですが、6節では早速「弟子(マシティス)」では無く「使徒(アポストロス)」という呼び方が使われています。弟子は「学ぶ者・従う者」、使徒は「遣わされた者・使節」という別々の意味を持つ単語です。この書が「弟子という訓練期間を終え、神の同労者である使徒となった人々」の記録の書であることをルカは冒頭から示しているのでしょう。

ユダヤ人のメシア思想

イエス様は、当時のユダヤ人達が思い描いているメシア像と神の御旨である救い主メシアの姿は全く違うことを何度も語って来ました。しかし復活されたイエス様を前にしても、使徒達はまだ「ユダヤ的思考・選民意識」が残っていた姿を6節に見ます。そこでイエス様は改めて神の御旨である「救い」とはイスラエル・ユダヤ人という一部の人々を対象に与えられた福音なのではない事を伝えます。むしろ「地の果て・全ての人々に」この神の救いの御業・福音は広げられるものであり、そのために使徒達を遣わすのだと教えられました。

昇天

使徒たちは「ゴール意識」を持ってこの場に居ました。しかし、むしろこの場は神の国の福音が広げられる「スタート」だったのです。この昇天の現場に立ち会った使徒達の目から、イエス様は見えなくなりました。そのことによって「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます」というインマヌエルの約束が成就した喜びに満たされたのです。制限のある肉の目で見える範囲での働きではなく、制限無き霊の目が開かれた働きへと使徒達は遣わされたのです。

天を見上げ

昇天されるイエス様の姿を見つめたままの彼らを、現実へ引き戻す声が白い衣を着た二人の御使いからかけられます(11)。その言葉で我に返った使徒達は、大喜びでエルサレムへ戻りました(ルカ24:52)。ここから彼らはアポストロス・使徒・主に遣わされた者として、大喜びで宣教の働きに歩み出して行くのです。

希望は天に、使命は地に

聖書は既に来たり給うた神の国と、やがて来たり給う神の国を証ししています。「やがて来たり給う神の国」の希望により、帰るべき家が備えられているという平安が在るのです。しかし同時に「すでに来たり給う神の国」の使節としての働きが委ねられていることを憶えなければなりません。希望(のぞみ)は天に在り、使命(はたらき)は地に在る。すでに内在のキリストはインマヌエルの約束通り共におられるのですから、私達は天を見上げて立っているだけの者であってはならないのです。

その日に向かって

生活のよりどころである十字架と復活により結ばれた神との交わり、心躍るインマヌエルの喜びの内に、私達は世の業へと主により遣わされています。御国に引き上げられる「その日」へ向かい、福音の証し人として生きる日々が与えられているのです。やがて来たり給う「その日」に向かい、主の愛を証しする教会・福音の証し人としてそれぞれ遣わされている日々の働きへ共に歩みだしましょう。

 

 

涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。詩編126:5,6

4/21 「胸躍る交わり」 説教者/川内活也 牧師

ルカによる福音書 24章28節~32節

エマオの途上

イエス様が復活された日曜日の午後、エルサレムの西にあるエマオという村に向かって歩む二人の弟子の姿がありました。一人の名はクレオパ、もう一人の名は聖書には記録されていません。慕い従っていたイエス様が十字架で「罪人」として殺され、その遺体を収めた墓はローマの封印を破って開かれていました。恐れを抱いた2人は、時を置かずにエルサレムを離れる決断をしたのでしょう。道中、彼らは「この出来事」について話し合い・論じあっていました。その時、復活されたイエス様が二人に並んで歩み、声をかけられたのです。

「ダメ出し」からの

クレオパ達は暗い顔で事のイエス様に次第を語ります。しかし彼らの目は閉ざされていて、それがイエス様であると認識出来ていませんでした。自分達の持つ知恵や知識や経験だけを基に聖書とイエス様の福音を理解しようとしていたクレオパ達です。そのために聖書とイエス様の福音の真理を受け入れられず、十字架と復活に困惑し、目的無き道へ彷徨い出てしまいました。そんな彼らにイエス様は突然の「ダメ出し」を告げ、呆気に取られる二人に聖書全体にわたり神の救いの御業・御自身について説明されながら共に歩まれました。

心は燃えていた

エマオに着いたクレオパ達は、離れて行こうとするイエス様を宿に招き入れます。その夕食の席でイエス様はパンを割かれました。食事の席で賛美を導きパンを割くのは、その席に居る主の役割です。クレオパ達は認識こそ出来ていませんでしたが、共に歩み、聖書を説明してくれた復活のイエス様を「自分たちの主」として迎えたのです。そのようにして割かれたパンを受け取った瞬間、イエス様の姿は彼らの目の前から見えなくなりました。しかしそれはイエス様がおられなくなったのではありません。割かれたパンを手にした時、むしろ二人の霊の目は開かれたのです。自分達の知恵や知識や経験という基準で「外から」イエス様を見ていた彼らが、ついにキリストを「内に」迎え入れた瞬間だったのです。その時二人は「わたしたちの心は燃えていた」と告白するに至りました

心の王座に招き入れる

聖書の言葉に感動しつつも「死んだ過去の偉人の一人」としてしかイエス様を知ろうとしない人がいます。聖書を自分の知恵・知識・経験の基準でしか知ろうとせず、そこから「良い知識」を得るためにだけ探求したとしても、そこに真理を見る霊の目は開かれません。心が燃えるような、胸躍る喜びに満ちた交わりに結ばれる道は、自らが座す心の王座を降り、イエス様を主として迎え入れる信仰が必要なのです。

共に在る喜び

信仰者が生活のよりどころとして最も大切にすべき福音は「十字架に現わされた神の愛」と「復活の希望」の約束です。この復活された「目に見えないイエス」は「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます」(マタイ28:20)と宣言されています。絶望的な悩みの中で「ああでもない、こうでもない」と論じながらエマエへの道を歩んでいたクレオパ達と共に歩まれたように、私達がイエス様に気付かず歩む世の旅路にも共に歩んで下さっています。心の王座に自分自身が座したまま外から眺めて福音を評価する者としてでは無く、心の王座に主を迎え入れる時、聖書を通して約束されている主なる神様との胸躍る喜びの交わりの道を歩む者とされるのです。

 

主はわたしの力、わたしの盾。わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。詩編287

 

4/14 「最も大切なこと」 説教者/川内活也 牧師

コリントの信徒への手紙1 15章1節~8節

最も大切な福音

今日の箇所でパウロは「最も大切な福音」について語ります。それは信仰者が受け入れた福音・人生の拠り所・土台として与えられている神様からの救いの御業についてのメッセージです。「信仰者・教会において最も大切なこと」とは、3節以下にあるように「キリストが私たちの罪のために死んで下さったこと」と「復活されたこと」に他なりません。この「十字架」と「復活」が、キリスト教信仰の大原則であり、「生活の拠り所・自己存在の土台」であり、これを見失えば全ての福音・全ての御言葉が無駄になるというくらい「最も大切なこと」なのです。

信仰により救いに与る

聖書の中には未信者の方にも響く言葉が数多くあります。クリスチャンで無くても聖書を研究している方々も居ます。しかし「善い教え」や「研究材料」として「人間の知性・知識欲」だけで聖書を学んでも「最も大切なこと」に心が向けられていない限り、その学びは無意味なもので終わってしまいます。愛も赦しもきよめも、いのちに至る真理の道は「十字架に現わされた神の愛」を土台として与えられる神様からの恵みの賜物そのものです。だからこそパウロは「この世の習慣に倣わず」(ローマ12:2)に、信仰をもって「最も大切なこと」を「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と切に勧めているのです。「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」こそが、生活のよりどころ・人生の土台・信仰の中心なのです。

喜びの存在として

十字架を通して示された真理、これほどまでに愛された者・赦された者・交わりに結ばれた者という自覚的な信仰によって「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」を尋ね求める信仰の目が開かれるのです。それによって信仰者の歩みは「神を喜び、神に喜ばれる者として、自分自身も隣人も喜びとする交わり」へ導かれていきます。

復活の希望

このようにして「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」を信じ受け入れた者であるがゆえに、その主との交わりに生きる信仰者の生活のよりどころとして「復活の希望」が与えられています。この復活の福音が信仰の中心にあるからこそ、死と滅びに飲み込まれる墓の闇のような中に置かれることが有ってもなお、将来と希望の朝へと歩み出すことが出来るのです。

キリストの勝利

キリストのいのちを持つ者は、もはや死と滅びに飲まれることはありません。たとえ地上での命の器である肉体が活動を終えた後も、いのちであり光であり創り主である主なる神さまとの交わりに結ばれた「生ける者」として歩み続ける者とされるのです(ローマ6:69)死は、もはやキリストを支配しません。だからこそ、復活のキリストのいのちを受け入れた者をも、死と滅びはもはや飲み込むことは出来ず、吐き出すしか無いのです。

十字架と復活を土台とし

聖書を読み・祈る時だけでなく、日々の生活の全領域の中で「十字架に現わされた神の愛」と「復活にしめされた新しいいのちの希望」に常に立ち返る時に信仰の目は開かれ、死からいのちへ、闇から光へ、断絶から交わりへ、絶望から希望へと主の御手に抱かれ歩むのです。「主の愛を証しする教会」というテーマを掲げ、この2024年度を歩み始めた私たちは、「最も大切なこと」として与えられているこの「十字架」と「復活」の福音を「しっかりと覚え」受け入れ、生活のよりどころ・日々の信仰の土台として証ししつつ、歩んで行きましょう。

 

 

どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。1コリント15:2

 

4/7 「主の愛を証しする教会」 説教者/川内活也 牧師

ヨハネによる福音書15章9節~17節

今日は今年度の帯広教会主題聖句に掲げたヨハネ15章9節と、年間テーマ「主の愛を証しする教会~バプテストの群れとして~」から御言葉を分かち合いましょう。

愛は完全なる交わり

「父がわたしを愛されたように」とイエス様は語られます。神の愛とはすなわち「完全なる交わり」の姿です。父・御子・御霊で在られる神は、三位一体という、まさに「完全なる交わりの存在」であり、そこには一切の断絶はありません。

神を知らない者となり

この「完全なる交わりの存在者」に似せて創造された人間は、この方との完全なる交わりに結ばれる存在として生み出されたにもかかわらず、創世記を読む時、その交わりを断ち切った断絶という罪の存在になってしまったことが知らされています。「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」(第一ヨハネ4:8)。神との断絶により隣人との断絶が生まれ、また、自分自身という存在をも喜べない断絶が生じてしまったのです。愛のない者、すなわち交わりを断ち切った断絶の存在に神を知ることは出来ません。それゆえに人はおのおの自分勝手な道へと歩み出し、死と滅びに向かう存在となってしまいました。

神を知る者とされ

しかし神様はその「断絶された存在」を再び「交わりの存在」として結び合わされるために「救いの道」を備えて下さいました。それが御子キリストによる十字架の死という贖いの犠牲であり、復活により表された「新しいいのち」への約束です。神様との断絶によって死と滅びに向かう存在であった者のために、主なる神様御自身がいのちの代価を払って買い戻して下さったという「愛」を知る者とされたのです。神を知らなかった者が神を知る者とされたのです。

交わりに結ばれた者として

「わたしの愛にとどまりなさい」とイエス様は招かれます。主の愛にとどまる・神との交わりの中に歩む時、私たちは常に感謝と悔い改めに導かれます。そのことによってますます神の愛の深さ・広さ・高さを知り、受け入れられている交わりの喜びに満たされるのです。この愛の交わりに結ばれた者として「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34,35)とイエス様は招かれています。

神を知り、自分を知り、隣人を知る

キリストの愛にとどまる時、私たちは神との交わり、自分自身との交わりが喜びの内に回復されるだけでは無く、隣人との交わりの回復へと導かれるのです。「主の愛を証しする教会」とは、まさに神の愛に結ばれ、キリストにとどまり、神の愛の内に生かされる者として互いに愛し合う群れで在り続けることです。神に認められながら他者を認めない、神に赦された者でありながら隣人を赦さない、神に受入れられた者でありながら兄弟姉妹を受け入れない、もしもそのような姿を表わすなら、どうしてそこにキリストの香り・神の愛を証しすることが出来るでしょうか?

主の愛を証しする教会

主の愛を証しする教会とは、主との交わりに結ばれた喜びを互いに喜びとし、信仰による励ましに結ばれる共同体です。主の愛に結ばれた愛の交わりを通して、教会は世の光・地の塩としての働きに歩むのです。2024年度という新しい主の年を、私たち帯広バプテスト・キリスト教会は「主の愛に結ばれた自分」と「主の愛によって結ばれた隣人」との交わりを喜びとして証ししつつ、共に歩んでまいりましょう。

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。ヨハネ15:17