3/31 「開かれた墓石」 説教者/川内活也 牧師

ルカによる福音書24章1節~12節

婦人たちの願い

兵士らの暴行や鞭打ち刑後に十字架にかけられ死なれたイエス様の遺体は、傷と流血だらけの状態のままアリマタヤのヨセフという裕福な弟子に引き渡され、安息日が始まる前に急いで墓へ葬られました。イエス様を慕う婦人たちはそのことにひどく悼み哀しみ、何とか御遺体の身を清めて差し上げたいと願いつつ過ごし、ようやく迎えた三日目の日曜日、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に」向かいました。

開くことの出来ない墓石

当時のお墓は洞穴式で、開口部は盗掘や動物の侵入を防ぐために大きな扉石で塞がれたものです。そればかりか、イエス様が納められたお墓には祭司長らの手引きによって番兵が遣わされ、ローマ帝国の名による封印が施されていました。物理的にも常識的にも「開く事が不可能な墓石」で塞がれているお墓に行ったとしても、「イエス様の遺体を綺麗に整えて差し上げたい」という彼女たちの願い・希望が叶えられる可能性はゼロでした。

開かれた墓石

しかしそれでも立ち、歩み続けた彼女たちの目の前に、想像もしていなかった光景が飛び込んで来ます。見ると、石が墓のわきに転がしてあったのです。当時の常識では絶対に解いてはならないとされていたローマ帝国の封印は引きちぎられ、自分たちの力では到底動かす事が不可能と思われていた大きな扉石は、わきに転がされていました。

取り除かれた隔ての壁

この墓石は知識や経験・常識や人の力では動かす事の出来ない「いのちと死を隔てる妨げの壁」として立ちはだかっていたものです。しかし十字架の死から三日目の朝、この墓石は取り除けられました。人間の知恵や知識や経験、力では開くことの出来ない妨げの大岩はわきに転がされ、いのちであり光であり創り主である主なる神さまとの交わりを妨げる断絶の壁が取り除かれたのです。

復活の希望

死と滅びに捕らわれている世界の中に在って、人知を超える神の救いの御業がこの復活の朝に与えられました。イエス様の復活を通して証しされている神様の恵みは「いつか迎え入れられる天の御国における復活のいのち」だけでなく、この地上で与えられている日々の歩みにおいても新しいいのちの朝へ私たちを導いて下さいます。肉の力においては到底及びもしない大きな壁、常識や経験では「無理だ」と諦めるしかないような人知の限界という封印。しかし復活のキリストは今すでにその墓石を開かれ、脇へ転がされているのです。

神の平安の内に歩む

死からいのちへ、闇から光へ、断絶から交わりへの道を開かれた復活のキリストの下に歩み出す時、人知では到底はかり知ることの出来なかった神の平安・新たないのちと希望に生かされる朝を迎えるのです。2024年のイースターの朝、与えられたこの御約束の内に信仰をもって主の御前に歩み出ましょう。隔ての墓石を取り去った復活の主の御手の中で、新たなる一週へと共に歩み出しましょう。

 

今、わたしは知った。主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。詩編20編7節

 

3/24 「情熱と受難」 説教者/川内活也 牧師

エレミヤ書 3章19節~22節

パッション

受難節最後の1週間となる今週は、特別にイエス様の十字架と死を覚えて歩む「受難週」と呼ばれています。約2000年前から多くのクリスチャンがこの受難節・受難週を覚えて歩む中で、様々な信仰の告白を残して来ました。有名な作曲家、ヨハン・セバスティアン・バッハは「マタイ受難曲」という作品を通してこの受難週に思いを向け、アメリカの映画俳優であるメル・ギブソンは自ら監督を務めた「パッション」という映画を通してイエス様の受難を世に証ししました。「受難」は英語でパッション(Passion)と訳されますが、このパッションは同時に「情熱」とも訳されます。バッハもメル・ギブソンも、キリストの受難を世に告げ知らせたいという信仰のパッション(情熱)を込め、それぞれの賜物を用いてこのような作品を作り上げました。

十字架は愛のしるし

イエス様の「受難」の出来事は客観的に見るならば「むごい・酷い・可哀想・痛々しい」ものです。「受難」という意味だけでのパッションしか見なければ、それはまるで他人事、自分には関係の無い誰かが、むごたらしい死を迎えたという話で終わってしまうでしょう。しかし、キリストの十字架の受難というパッションは「神の情熱というパッション」によって世に現された「恵みのしるし・愛のしるし」であることを、私たちは聖書を通して知らされています。

神と人との関係性

聖書を開く時、神様と人間との関係性について大きく3つの姿が示されています。1つは「主従関係」です。「王と臣下・主人としもべ」という関係を例に、権威者である神に対し従順に従う存在としての人間の姿が示されます。また「1組の男女・夫婦の関係」を例に、神さまと人間の関係が語られている箇所もあります。これは互いに敬う尊敬の関係・人格的な関係に神と人は在る例えです。そして3つ目。これが「神さまと人間の関係」としてもっとも多く取り上げられている例えですが、神様と人間の関係は「親子の関係」として聖書の中で度々語られています。

福音の凝縮箇所

今日、お読みいただいたエレミヤ書でも「親子/父と子」という関係と「夫婦」という2つの関係性で神さまと人間の姿が語られています。この箇所は聖書の福音・真理が凝縮されている箇所でもあります。主なる神さまは御自身の愛を注ぎ、交わりを結ぶ愛する我が子として人を生み出されました。「わたしから離れることはあるまい」と、固く結ばれていた交わり、我が子への愛を注ぐ神さまの姿をここに見ます。創世記において初めの人アダムとエバを祝福した神さまの愛の姿がここにあります。しかし人は、その主なる神さまとの交わりを断ち、自分勝手な道に歩み出し、その罪によって死と滅びに向かう存在となってしまったのです。それは誓約による交わりに結ばれていた男女が伴侶を裏切るかのように、喜びの関係・愛の交わりを断ち切る罪です。しかし、神様は人が死と滅びに向かうだけの存在となることを良しとされなかったのです。「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす」(22)と招かれます。この招きを実現するために、主なる神様は情熱()を注いで贖いの代価となる受難をその身に負われたのです。

神の情熱に応えて

どれほどの恥と苦しみ・痛みと涙を負っても惜しくないほど、愛する我が子である私たちにまことの命を得させるためにその御手は差し伸ばされました。私たちも信仰の応答の手を伸ばし、主との交わりに結ばれましょう。私たちが神を信じる前に、主なる神さまが私たちとの交わりの回復を信じ、情熱をもって十字架への道を歩んで下さったことを覚えつつ、この受難週を感謝と悔い改めの祈りの内に共に歩み出しましょう。

 

 

彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。イザヤ53章11節

 

3/17 「再起」 説教者/川内活也 牧師

ルカによる福音書 22章54節~62節

ペテロ

今日は信仰者の大先輩であるペテロに目を向けましょう。もともとガリラヤ湖の漁師だったペテロは、イエス様からの招きを受けてすぐに弟子となりました。特に何か優れた能力を持っていたわけではありません。ただ、純朴で素直な人物だった姿を聖書の記録から読み取ることが出来ます。イエス様はこの純朴で真っ直ぐな漁師ペテロを愛され、やがて初代教会の基礎を築く一人にまで導かれます。ペテロの本名はシモンですが、イエス様からペテロ、つまり「岩」という名前を与えられました。もろく崩れる砂を土台とするような信仰ではなく、揺るぐことの無い堅い岩を土台に据えた信仰者として歩むようにとの思いがあったのでしょう。そのようにイエス様から招かれ、愛され、ある意味で「特別に信頼されていた一番弟子」のペテロでしたが、今日の箇所にはこともあろうか、そのイエス様を裏切る場面が記録されています。

裏切りの予告

この出来事の直前、最後の晩餐の席でイエス様が十字架への歩みを予告された時、ペテロは「イエス様と御一緒になら、牢に入っても死んでもよい」と言い切りました。ところが、ペテロのその言葉に対しイエス様は「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と裏切りを予告します。そして、残念なことに今日の箇所に記されている通り、その予告は実現してしまいました。誰もが陥ってしまう肉の弱さゆえの失敗。この記録は「裏切り者のペテロはけしからん!」という話では無いことを踏まえつつ、ペテロの「裏切りの言葉」に目を向けてみましょう。

3つの否定

ペテロが発した裏切りの言葉は「①イエス様を捨てる宣言」「②主に結ばれた交わりを捨てる宣言」「③自分自身のアイデンティティを捨てる宣言」となっています。メシア・救い主・主なる神さまとの交わりを断ち、仲間・隣人との関係を断ち切り、ついにペテロは自らが何者であるかというアイデンティティさえも断ち切ってしまったのです。

岩は崩れ

先週も目を向けましたが、イエス様は聖書の最も大切な教えとして「あなたの神である主を愛しなさい」「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と語られています。人間は神さま御自身との交わりに結ばれた「喜びの存在」として創造された者なのです。その交わりに結ばれた時に、人は初めて自分自身という存在が空しい存在では無く、神の愛の器・創造といのちに結ばれた豊かな喜びの存在であることを知り、その自分自身と同じように隣人との交わりを喜びとする存在として歩む者とされるのです。ペテロはその「最も重要な教え・真理」に出会い、固い岩の上に立つ「神認識・自己認識・隣人認識」を歩んで来たはずなのです。しかし、今日の3つの宣言で、救い主メシア・キリストによって与えられた「喜び」を自ら断ち切ってしまいます。「岩」と名付けられたペテロは、主から離れた瞬間に「砂」のように崩れ落ちました。

先立つ再起への招き

しかし、彼がこうなってしまうことをイエス様はあらかじめご存じでした(ルカ22:31~34)この事実に私たちは大きな慰めと励ましを受けます。イエス様と共に歩む告白をもって生きる者には「復活の希望」が与えられているのです。赦されるはずの無い、取り返しのつかない大きな過ち・罪の中に再び落ちてしまうようなことがあっても、イエス様御自身が「あなたの信仰が無くならないように祈った」と語られているのです。そして今もなお、御霊御自身が深いうめきをもって執り成し祈り続けて下さっているのです(ローマ8:26)。私たちの信仰が岩のように固く・揺ぎ無く・立派なものだから崩れることが無いのではないのです。何か特別な能力を持つ優れた人物・一流の存在だから、神は愛し・喜び・招かれているのではないのです。一度ならず、二度も三度も崩れ落ちてしまおうとも、復活のキリストのいのちの御言葉はペテロを日々新たに立たせるいのちを与えられます。ペテロだけでなく、主に従い歩む全ての者に、この復活のキリストのいのちの約束、再起への招きは与えられているのです。

 自分自身が「岩」となることが求められているのではないのです。揺るぐことの無い救いの「岩」である主に信頼し、崩れ落ちてしまった時にも再起の招き・復活の希望を与えて下さる主に結ばれて歩み続けましょう。

 

  わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。詩編62編2節,3節

 

3/10 「新しいアダム」 説教者/川内活也 牧師

マタイによる福音書 4章1節~11節

新しい変化

イエスさまは公生涯・福音宣教の始めに「荒野」へ出られました。「断食をするため」では無く、主なる神さまとの交わりに結ばれる時を過ごすためにです。結果として40日40夜の断食を過ごされた後、空腹を覚えられた所に「誘惑者」が現れました。さて、聖書に記されている「数字」には象徴的な意味が込められています。今日の箇所に出て来る「40」という数字も聖書の中でよく用いられている数字の1つです。この「40日間」は「新しい変化・新しいサイクル」の始まりを象徴しています。主なる神さまとの交わりに結ばれて歩む「本来在るべき人間(アダム)の姿」への回復・変化を示されたのです。

喜びの存在

第一コリント15章22節では「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」と記されています。神さまが初めに生み出された人間アダムとエバは、本来、主なる神さまとの交わりに結ばれて生きる「喜びの存在」でした。しかし「蛇の誘惑」により神さまとの交わりを断ち切り、死と滅びに捕らわれた存在となってしまったのです。「喜びの存在」である本来の人間の姿を示されるために、イエスさまは「新しいアダム」として歩まれました。

新たな誘惑

エデンの園でアダムとエバを誘惑した時と同じように、誘惑者はイエスさまを試みます。「知恵と知識の実」への欲に駆られたエバに対するように「目先の欲望」を満たさせる誘惑として「石をパンに変えよ」と誘惑します。「食べたら必ず死ぬ」と言われていた神の言葉を疑わせる不信へ誘ったように、神殿の高い屋根から飛び降りて神を試みるように誘惑します。そして、欲望を満たさせることでアダムとエバを神の言葉に聞き従うよりも自分の言葉に聞き従わせたように、誘惑者は「全てのものを与える代わりに私を拝め」とイエスさまを誘惑したのです。

模範解答

しかし「新たなるアダム=神と人との本来在るべき交わりの姿」をイエスさまは高らかに宣言されます。「人はパンのみで生きるにあらず。神の御言葉によって生きるのだ」「あなたの神である主を試みてはならない」「主を礼拝し、主にのみ仕えよ」と。最初の人アダムとエバが陥った誘惑を跳ね返し、イエスさまは新たなるアダムとして正しい命の道を歩む姿を示されました。

一人の人によって

ローマ5章12節以下、特に19節で「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」と宣言されています。アダムによって神さまとの交わりから断たれ「死と滅びの存在」となった人類に、イエスさまの従順によって正しい者とされる救いの道が与えられたのです。

新たな喜びの存在へ

イエスさまは最も重要な教えについて「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マタイ12:28以下)と語られました。主なる神さまとの交わりの回復、まことのいのちである神を畏れ従う正しい交わりこそが、神を喜び、神に喜ばれている自分自身を喜び、その自分と同じく隣人を喜ぶ「本来在るべき喜びの存在」へ至る福音の奥義の道なのです。アダムから始まった死と滅び・断絶のサイクルが、新しいアダムとしてイエスさまが歩まれた受難と死・復活を通して新しいいのちのサイクルに変えられたことを覚えつつ、受難節を共に歩みましょう。

 

主を畏れる人に、主は契約の奥義を悟らせてくださる。詩編2514

 

2/25 「開かれている」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 13章42~52節

<嬉しい知らせ>

ピシディアのアンティオキアの会堂で、パウロはイスラエルの民が長い間待ち望みんでいた救い主がイエスであったということを証しします。律法を守ることによってではなく、このことを信じることで人々は義しくされるという、この救いのメッセージは、ピシディアのアンティオキアに住む多くの人々の心を動かしました。

会堂には、ユダヤ人と共に、主なる神を信じたいと考える異邦人たちがいました。異邦人たちにとっては、イエスが救い主であるというメッセージは、とても嬉しいメッセージです。律法によって排除されていた人々が、イエスにより罪の赦しが告げられ、そのことを信じることによって、神の元にある者、救われた者とされる、という福音なのです。

人々は来週も、もう一度同じことを聞きたいとリクエストし、集会が終わった後もさらに聞きたいと集まります。ああ、私は赦されていたんだ、救われていたんだ、という嬉しい知らせを、何度でも、何度でも繰り返し聞きたい、という喜びが伝わってきます。

 

<締め出そうとする力>

しかし、その喜びに、水を差すことが起こります。町中に広がろうとしていた喜びの福音を締め出そうとする力が起こります。ユダヤ人がこの群衆をみて妬み、パウロの話を邪魔するのです。ここでいうユダヤ人は、会堂を運営し、これまで宗教的権威をもっていた指導的な立場にある人々だと考えられます。彼らにしてみると、パウロたちの語る、イエスの福音は、自分たちに反対するものでした。

彼らは汚い言葉や乱暴な野次を用いてパウロたちを威嚇し、黙らせようとします。ローマ帝国はローマ皇帝は帝国の父であり、神であるとトップを据え、組織的な支配力で周辺の民族を飲み込んでいきました。力で相手を支配し、押さえつけようとするやり方は昔も今も変わりません。現在でも、ウクライナやマヤンマー、パレスチナ地方…と力による攻撃が止むことはありません。相手より自分の方が力がある、その力で相手を支配し、押しつぶしてゆくやり方は国単位であれ、個人単位であれ、私たちの間にあるのです。

 しかし、小さな穴を探してその支配を逃れる道を、今日私たちは聖書から探しましょう。4849節、52節には、迫害に中にあっても、語られた福音の喜びに満たされた人々の様子が描かれます。福音を喜び、信仰に入った人々のあふれる高揚感が伝わってきます。

貴婦人たちや町の主だった人々を扇動しての迫害の記事には、自分の持つ力よりも更に強い権力を使って、押さえつけ、迫害し、黙らせようとする力が働いていることがわかります。

けれども、福音の喜びはそれにまさって広がってゆくのです。

 

<開かれている>

エルサレムに入城するイエスを、弟子たちが賛美したとき、ファリサイ派の人々が黙らせようとします。それに対してイエスは「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」(ルカ1940)と答えます。あふれる声を、とどめることはできないないのです。どんな権力も福音の喜びを消すことはできないのです。

もうこの先はない、死だ、と深く葬られたイエスを、神は引き起こし、よみがえらせてくださいました。その復活に与る時、私たちは死んでいても生きています。どんな力によっても、希望の福音を葬り去ることはできません。パウロたちが去った後も、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていたように、あなたにも希望が開かれています。決して力に負けることはないという福音に生かされて行きましょう。

 

 

2/18 「もう一度」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 13章26~32節

<ピシディアのアンティオキアにて>

シリアのアンティオキアの教会から派遣されたバルナバとパウロは、キプロス島に渡って伝道した後、ピシディアのアンティオキアに向かいます。そこはペルゲから北の内陸に向かう、現在のトルコ領の地です。彼らは安息日に会堂に向かい、会堂長にメッセージを依頼されてパウロがメッセージを語った、その一部を今日は読んでいます。

パウロは、メッセージの前半(1725節)で、神がイスラエルの民をエジプトから導き出し、カナンの地に入れてくださったこと、民を導く士師たちを立てたこと、そののちサウル王をたて、続いてダビデを王としたことの導きを振り返ります。

そして、ダビデの子孫から救い主を起こされるという約束を下さり、その方こそがイエスだったと語るのです。

 

<救い主の到来を待つ>

イスラエルの人々は、救い主の到来を長い間待っていました。それはパウロがメッセージで語ったように、聖書に預言された、神さまからの約束でした。しかしそれが実現したのは、大変皮肉な状況でした。イエスの語る言葉を、宗教的指導者たちは受け入れませんでした。自分たちの権威が失墜し、形ばかりになった信仰の現れを認めることが出来ませんでした。そして、多くの民衆が、イエスの言葉により回復と慰めを与えられ息を吹き返してゆくことを、自分たちの立場を脅かす者として恐れ、ねたみました。自らを変える、悔い改めの機会は目の前にあったにも関わらず、自分を変え、神の前に悔い改めて生き直すことを拒み、脅威の存在であるイエスを罪に定め、死刑にするようにと働いたのです。

自分の価値観、判断は正しく誤りがない、と私たちは考えがちです。自分の立ち位置を揺るがす存在には、危機感を覚えます。他者を入れる余地のない狭く偏った考えに陥ってゆくと、私が正しいので、あなたは間違っていると他者を切り捨ててゆく関係になってゆきます。

世界中の、また私たちの身近な生活の中においても、対話が断絶し、歩み寄る余地なく争いや嫌悪、人権侵害が起こります。国と国との争いの解決も、一人ひとりの生き方の変化と地続きだと思います。ひとりひとりのイエスへの敵意が、イエスを十字架へと向かわせたからです。イエスが人々と共に歩み、語り、尋ね、つなぎ、回復させたことに私たちは心を向けたいと思います。

 

<もう一度>

「神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(30節)というパウロの言葉は、イエスを救い主と信仰する教会の始まりの信仰告白だと言われています。この言葉に出会う時、わたしは起き上がりこぼしを思い起こします。指で押さえて転ばしても、その力に抗ってコロンと起き上がる、あの起き上がりこぼしです。私たちはイエスを無理矢理押さえつけて倒し、十字架につけましたしかし私たちの力によらず、神ご自身がイエスを復活させ、ころんともう一度イエスは起き上がるのです

 

世の闇は深く、もうだめだ、できないと私たちは何度もイエスを押さえつけます。しかし、もう一度、もう一度と神はイエスと共に歩む道を立ち上がらせるのです。暗闇の中にある時こそ、起き上がってくださる主イエスと共に歩めますように。

2/11 「信じる自由」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 13章4~12節

<アンティオキアから派遣されてキプロス島へ>

アンティオキア教会からの派遣を受けて、バルナバとパウロ、マルコ・ヨハネはキプロス島へと出発します。キプロス島は、バルナバの出身地で、自分とゆかりのある土地、土地勘もある、知人もいる、という点で、バルナバにとって伝道のとっかかりをつかむ土地だったかもしれません。キプロス島にはユダヤ人があちこちに住んでおり、パウロたちはユダヤ人の会堂で福音を告げます。島の東、サラミスから、西のパフォスまで、島全体を巡りながら福音を告げ知らせました。

地方総督セルギウス・パウルスが彼らの話を聞きたがったという記事から、彼らの語るイエスの福音は、ユダヤ人だけでなくユダヤ人にとっては異邦人と呼ばれる人々にも伝えられていたことがわかります。総督は「賢明な人物」と紹介されます。知識、知恵を求める人物で、「神の言葉を聞こうとした」のです。

 

<妨げ>

パウロたちが総督に会うことを、ユダヤ人のバルイエスが妨げようとします。彼は偽預言者、魔術師、エリマ、などの表現で呼ばれています。イエスの福音に反対する人物であったことがわかります。パウロがにらみつけて主の言葉を取り次ぐことで、バルイエスの目が見えなくなっていく記事にはインパクトがあります。ここで言われているのは、福音をゆがめようとする人には、イエス・キリストの福音が見えない、ということであるように思えます。

そして、パウロが問題としたのは、「二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」(8節)と書かれているように、バルイエスが、総督がイエスの信仰の道に近づくことからそらせようとしたことでした。

 

<信じる自由>

今日211日は、日本では「建国記念の日」と言われます。最初の天皇神武天皇が即位にちなんでいるとされています。キリスト教会では、この日を「信教の自由を守る日」と言いかえることがあり、私もそうしています。宗教と、政治権力は分離されるべきと考え、天皇を中心に据え、その即位を祝う、という考えにはくみしません。

私たちの信仰は、誰にも左右されず、妨げられることはない、強制もされない、ということを、今日あらためて確認したいと思います。

バプテスマを受けたい、イエスを自分の救い主として受け入れたい、という決心は、誰からも強いられることではなく、自身の決断によって導かれます。イエス・キリストの福音は、いつでも、誰にでも開かれています。それは、私たちを生かす福音です。1人の命が大切にされ、神はあなたを愛していると、イエスを通して神が示された愛です。今週からレント(受難週)に入ります。主イエスは、私たちと共に歩んで下さり、苦しみも一緒に歩んでくださる救い主です。

 

イエス・キリストの福音に招かれている私たちには、信じる自由も、信じない自由もあるのです。私たちは、主なる神を信じる道に招かれ、このことを決断しました。互いの命を生かし、愛する道を、自由の中から選び取っていきたいと思います。

2/4 「信仰とは」 説教者/川内活也 牧師

ヘブライ人への手紙11章1~6節

キリストの御肢体である教会は「信仰」を土台とし、御言葉の約束によって結ばれる共同体です。では、そもそも「信仰」とは何でしょうか?今日の箇所はその真理を非常に端的に知らせています。1節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」と述べ、6節では「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」とまとめています。つまり信仰とは「主なる神の存在」を知り・認め、この方との交わりに結ばれて存在している自分であることを認めることなのです。

 

「親」という存在を私たちは自然に理解します。様々な証言やDNA鑑定などの証拠を元にし、確証を得た後に初めて「親」を理解し受け入れることは通常ありません。知的理解で納得し「なるほど、あなたは確かに存在していて私の親です。認めましょう」とはなりません。親は子どもの知的理解や子どもの承認によってその存在が左右されることなく存在しているからです。主なる神さまは人間が認めようが認めまいが、全てに先立ち存在されています。

 

主なる神さまは愛の交わりを結ぶ存在として人を生み出されました。本来なら「信じる」必要も無くその交わりに結ばれていたはずなのです。しかし私たちはこの方との交わりから断たれた存在として歩んでいました。「罪」という断絶の中、死と滅びの中にさらわれていた状態です。その「罪の支配」から連れ戻すため、神さまは御子キリストを通し現わされた愛をもって御手を差し伸べられました。生まれながらに共に生きていれば「信じるか否か」など不要のままに子は親を認識出来るでしょう。しかし「罪の支配の中」で歩んで来たがゆえに、創り主であるまことの神さまとの出会いと交わりに結ばれても、私たちは「神の存在とその交わりを<信じる>という信仰」が必要とされるのです。

 

イエスさまは「人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」(ヨハネ3:3)と語られました。これは罪の支配により神との交わりから連れ去られていた状態から、神の子として新しく生まれる霊的な誕生を指します。すなわち「主なる神の存在」を認め、この方との交わりに結ばれている自分であることを認める人生に歩みだす事により、信仰による新生の人生が始まるのです。それはまさしく「子の認識によって親の存在が左右されることは無い」という真理以上に、主なる神さまは「おられる」という信仰です。

 

その「おられる神さま」がどのような方であるのかを知るために、私たちは聖書の御言葉を受け取っています。「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」という信仰は、子どもが親に抱く信頼と類似しています。「いるかいないか分からない存在」に対して求めることはしないでしょう。「おられる」という信仰が「求める」という祈りへ向かわせるのです。文句を言ったり、不平・不満を述べたり、または「どうしてですか!」と嘆き叫ぶことが不信仰なのではありません。そこに「おられる」からこそ泣きじゃくりもすれば、癇癪を起したりもするのです。それはまさに「神が存在していることを信じる信仰」が無ければ表されない「祈り」です。

 

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ、わたしは手の平にあなたを刻んだ。」イザヤ49:15~16

 

私が主を忘れても、主は私を忘れない。神を知らず、神から離れ、神を忘れていたにもかかわらず、神は覚え、共におられ、忘れることなく私の名を御手に刻んで下さっているのです。この信仰を土台とし、御言葉の約束によって結ばれる共同体として、主に祈り求めつつ共に教会を建て上げ、委ねられている日々を歩み建て上げましょう。

 

 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。詩編116:12

 

1/28 「人知を超えて」 説教者/川内活也 牧師

ローマの信徒への手紙15章22~29節

迫害時代の手紙

新約聖書27巻の内、約半数がパウロの名による手紙です。初代教会時代、教会・クリスチャンはユダヤ教からは異端・ローマ社会からは邪教と敵視され、迫害を受ける存在でした。そのような迫害の時代において、パウロが書き送った手紙は各地の教会・クリスチャンを力づける霊的な励ましのメッセージとして用いられました。

委ねられた働き

「全世界に福音を宣べ伝えよ」とイエスさまから委ねられた使命に、使徒たちもパウロも他のクリスチャンも忠実に従って歩みました。また、パウロには「貧しい人々に心をとめる働き」も特に委ねられていました(ガラテヤ2:10)。迫害下に在るエルサレムの教会・クリスチャンらへの支援献金を各地で募り、それを携えてエルサレムへ向かう途上でこの手紙は書き記されました。

希望に胸を膨らませ

パウロは宣教のビジョンに胸を躍らせながらこの手紙を書いています。困窮するエルサレム教会とクリスチャンに支援献金を渡し、その後、世界の中心であるローマに渡って同地の同労者らと共に福音の宣教に励み、そこから送り出されて当時の文明社会の果てであるイスパニア(スペイン)に福音を宣べ伝えるという計画です。委ねられた使命に励み、さらにその先に思い描く「神の国の到来」を確信し、期待に胸を膨らませる活き活きとした手紙をパウロはローマの教会に書き送ったのです。

夢破れ……

しかし現実のパウロの旅は思い描いた姿とはかけ離れて終わりました。パウロ自身も、また、多くの教会・クリスチャンもパウロが解放され自由に宣教に立てるようにと必死に祈ったでしょう。しかしパウロ自身の夢も、信仰者たちの祈りも、その願いは叶わなかったのです。

神の力に支えられ

「願いを聞いてくれない神」を信じる信仰は愚かでしょうか?いいえ。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)と高らかに宣言し、走るべき道のりを走り抜いたのです。信仰はガンバリズムや妄信、思い込みや自己啓発とは違います。御言葉を通して与えられた神の約束を信じる確信、主なる神さまへの信頼・固く結ばれた交わりのしるしです。

人知を超える平安

先週分かち合った預言者エリヤの姿からも分かるように、私たちは肉においては弱く、目の前の苦しみや絶望的状況を前に簡単に心が騒ぎ、折れ、倒れてしまうものです。しかし、主との交わりに結ばれた信仰は弱さの内に力強く働き、共におられる主なる神に目を向けさせます。その時「キリストの愛の内で、人知では到底はかり知ることの出来ない神の平安」(エフェソ3:19・フィリピ4:6,7)に満ち、不確かな罪の世の絶望に飲まれず、確かな神の国の希望へ引き上げられるのです。

広げられる夢

委ねられた将来と希望への福音の種は一代で終わるモノでは無く、芽生え育ち全世界に広がり行くものです。「こんなに祈ったのに自分の願うように叶わなかった」と失望することなく、最善を成したもう主の導きに希望を抱き歩む先に、人知を超える祝福を見出す信仰をもって歩み出しましょう。

 

あなたの御計らいは。わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。詩編139:17,18

 

1/21 「孤立無援?」 説教者/川内活也 牧師

列王記上19章11~18節

引き籠った「神の人」エリヤ

アハブ王の治世、イスラエルは主なる神さまへの背信の罪を続けていました。「まことの神さま」を示すために遣わされた預言者エリヤは、カルメル山で主の大いなる御業を現わします。しかしそのことに王妃イゼベルは怒り心頭で「エリヤ殺害」を指示しました。恐れたエリヤは大慌てで逃亡します。圧倒的な神の御業である「勝利」の喜びも束の間、エリヤは遠くベエルシェバまで逃亡し「自分の命が絶えるのを願う」ほど心は折れていました(列王上19:4)。孤立無援な状況の中、疲れ果て、将来と希望も見失い、生きる気力も無くし、ホレブ山の洞窟にエリヤは引き籠りました。

主の前に立て

カルメル山での「勝利」によってアハブ王や民が悔い改め、イスラエルがすぐにでも立ち直るものとエリヤは考えていたのかも知れません。しかし大勝利の後に起きたのは王や民の悔い改めでは無く、エリヤに対する抹殺命令でした。思い描いていた状況との大きな違いに困惑し、心騒ぎ、敗走者となり引き籠っていたエリヤ。「主の前に立つ」ことを忘れ、背後から押し迫る苦難にだけ目を向けていたエリヤに、神さまは「そこを出て主の前に立て」と語りかけられます。主に目を向けよとの招きです。

しずかにささやく声

洞窟から出たエリヤは、山を裂き、岩を砕く非常に激しい風を目にします。次に地を揺るがす地震と大きな炎を目にしました。この大いなる風や地震や炎は、当時のイスラエル人達が考える「主なる神さまの偉大な力」を象徴するものです。しかし、この3つの象徴現象の中に「主はおられなかった」と記されています。人が思い描く「偉大な神の姿」では無く、神さまは「しずかにささやく声(別訳:かすかな沈黙の声)」でエリヤに語りかけられたのです。

孤立無援ではない

エリヤは「生き残りは私一人だけ。そして私の命も狙われている」(14節)という孤立無援の窮状を訴えます。そんな絶望的な嘆きを訴えるエリヤに、神さまはエリヤが孤立無援では無いことを教えられました(18)

備えられる協力者

人の目には孤立無援の絶望的な状況の中に在るように思えても、主なる神さまは必要な助けを備えて下さっているのです。試練と共に脱出の道は備えられています(1コリント10:13)。神さまから委ねられている正しい業に励み歩み、全力で取り組んだ挙句に疲れ果て、心折れ倒れてしまったエリヤに語りかけられたように、主なる神さまは御心に適う正しい業に励み歩む者を決して見捨てられません。「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」(18)。信仰者の歩みは孤立無援・独りぼっちの戦い・孤独な旅路では無いのです。今は未だ目の前に現れていないかも知れませんし、居るのに気付いていないだけかも知れませんが、神さまは正しく歩む者には必ず「相応しい助け手・協力者」を備えて下さっているのです。

主、共にいませり

たとえ今、目の前に相応しい助け人を見出せなくても、私たちは孤立無援ではありません。ローマ8:26「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。どう祈るべきかも分からず、洞窟の中で死を願い引き籠っていたエリヤが、主の前に立とうと歩み出した時に聞いた「しずかにささやく声」は、まさしく聖霊自らが沈黙の中にも執り成し祈って下さっている言葉に表せない呻きの声です。共におられるからこそ、私たち以上に私たちの苦しみ・悩み・嘆きを知って執り成し祈る神さまの愛の呻きを聞くなら、どうして「私は孤立無援だ」などと言えるでしょうか。

主の前に立ち歩み出す

新しく歩み出したこの年、私たちは「孤立無援の戦い・独りぼっちの旅路」には在りません。主が共におられるのです。その主が、相応しい助け手を備えて下さるのです。たとえ絶望の洞窟のような状況に引き籠りたくなるような問題に襲われたとしても、そこを出て主の前に立ち、新たな助けを与えられつつ歩み続けましょう。

 

主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦。わたしは誰の前におののくことがあろう。詩編27編1節

 

1/14 「新たに踏み出す」 説教者/川内活也 牧師

ヨシュア記1章5~6節

出エジプトからカナンの地へ

エジプトの地における苦役と束縛からの解放が主に導かれ、イスラエルの民は父祖アブラハムに約束されていた「乳と蜜の流れる地カナン」を目指し、モーセを指導者として旅立ちました。しかしカナンを目前に偵察へ出た12人の内10人がカナンに定住していた人々を恐れ、その報告を受けたイスラエルの民も前進をためらいました。その「ためらい」によって、本来なら数日で入る事が出来たカナンの地にイスラエルの民は入る事が出来なくなり、シナイ半島の荒野を40年間放浪することになってしまったのです。

カレブとヨシュア

カナンに偵察に入った12人は各氏族の「族長」と呼ばれていますので(民数記13)、当時40歳前後の壮年だったと思われます。主の導きを信じ、カナンに定住していた人々を恐れなかったカレブとヨシュア以外、出エジプト当時に成人であったイスラエル人はカナンの地に入る事が許されませんでした。ただ、主の約束を信じ抜いたカレブとヨシュアは、約束の地へ入る事が許されていました。120歳で死んだモーセの後継者として民の指導者に選ばれたヌンの子ヨシュアはこの時、恐らく70~80歳になっていたと考えられます。

恐れてはならない

預言者エレミヤが主の働きに召された時、弱気になる彼に「まだ若い、と言うな」と神さまは語られました。同じ論理で「もう歳だ、と言うな」と神さまはヨシュアを立てられたのでしょう。年齢から来る心身の衰えを人は感じかも知れません。しかし主の目には、人の齢も「不可能の理由」とはならないのです。若さも老いも「恐れる理由」にはならないのです。また、出エジプトの出来事の中でモーセは確かに「偉大な指導者」でした。従者として間近に見ていたヨシュアにとってモーセの働きは「モーセだからこそ出来る偉大な業」と映っていたでしょう。そのような指導者の後釜に就くことなど、到底自分には無理だという「恐れ」は当然ヨシュアの内にも生じたでしょう。しかし主御自身が召し・立てる器なのだから、個々人の才能や技量・経験もまた「恐れる理由」にはならないのです。これまで従者という立場で歩んで来たある意味「安全な旅」が終わり、これからどうなるのか分からない「新しい地への歩み」が始まろうとする不安や恐れがヨシュアの内には湧き起こったでしょう。そのヨシュアの「恐れ」に対し、主は新たな歩み出しに先立ち「恐れてはならない」と語りかけたのです。

主が共に

「従者」から「指導者」へ、荒野からカナンの地へと環境も状況も新しく変わる歩み出しに際し、ヨシュアが抱く「不安・恐れ」は大きなものです。主なる神さまはそんなヨシュアに対し無責任に「頑張れ・恐れるな」と命じられたのではありません。「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいる」(5)・「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる(9)と約束されました。助けの無いままに全責任を負って歩み出せとの命令ではなく、主が御手をのばし支え・助け、成すべき業を導くと約束して下さったのです。

新たに踏み出す

2024年という新しき地に私たちは踏み出しました。これまでの歩みと状況や環境が変わった新しい地への歩みかも知れません。この先に何が起きるのか、どのような変化が有るのかは分かりません。しかし、主が備えられている約束の地は「将来と希望」であることに変わりはありません(エレミヤ29:11)。この年も主の御言葉に信頼し、聞き従い、嗣業の地として委ねられている地上での日々を、主と共に在る平安の内に歩み続けましょう。

 

あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。詩編37編5~6節

 

1/7 「新しく生きる」 説教者/川内活也 牧師

コリントの信徒への手紙2 5章15~21節

「ジャネの法則」

歳を重ねるにつれて1年という時の流れを「あっという間」に感じるようになりました。この「主観的・体感的に記憶される年月の長さというものは、年少者にはより長く、年長者にはより短く感じられる」という感覚には、心理学用語で「ジャネの法則」という名前があるそうです。例えば、50歳の人にとって1年の長さは人生の50分の1ほどに感じ、5歳児にとっては人生の5分の1ほどの長さ、つまり、同じ1年間でも5歳児にとっては50歳の人より10倍の体感時間を過ごしているという感覚だそうです。「興味・関心・好奇心・探求心」をもって世界を見つめる幼子の目はキラキラと輝き、日々新しい命の喜びに満ち溢れていますが、歳を重ねて「大人」になるにつれ「興味・関心・好奇心・探求心」が薄れ、日常がマンネリ化し、感動の波を失った平坦な坂を転がるように「あっという間に時間が過ぎて行く」というジャネの法則。この法則にとらわれずに価値のある豊かな時間・人生を歩む方法は、どれだけの歳を重ねても「興味・関心・好奇心・探求心」を失わないことです。

信仰歴と霊性は比例しない

さて、同じことが信仰生活においても言えます。パウロはヘブル人への手紙の中で(5:12)信仰生活の長さと霊的成長とは比例しないことを指摘しています。また、黙示録の冒頭では、エフェソにある教会に対し「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だからどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」と勧められています。クリスチャンとしての新しいいのちの日々に歩み出した「初めのころ」は、この喜びと感動に「興味・関心・好奇心・探求心」の霊的な目がキラキラと開かれています。しかし「生まれたての子ども」として福音の喜びに輝き歩み出した信仰生活も、「ジャネの法則」のように主観的な日々の価値が減少に転じてしまう危険性をもっているのです。

新しく生きる

パウロは今日の箇所16節で「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」と語りました。キリスト者としての新しい人生を歩み出しても、「初めの愛」「救いの喜び」を忘れ、福音の恵みへの「興味・関心・好奇心・探求心」の目が閉ざされ、いつの間にか「古い肉の基準」の目で生きていれば「何の喜びも楽しみも無い・あっという間に虚しく日々が過ぎて行く」という、望みの無い闇に襲われてしまうでしょう。古い肉の自分を基準として、いつの間にか霊的視力が澱んでしまっているのであれば、再び、キリストに結ばれる新たな創造により、幼子のように輝く信仰の目が開かれることを主に求めましょう。十字架において現わされた神の愛から目を離して歩めば、信仰生活も「ジャネの法則」のように、ただ漫然と過ぎ行く日々になってしまいます。しかし、受けた恵み・救いの御業・御言葉の約束に「興味・関心・好奇心・探求心」の目を向け続けるなら、日々新たな感動に満たされる新しい命の道を歩み続けるのです。

キリストの使者として

「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること」によって、新たないのちの喜びに人生は満ち溢れます。キリストの使者としての務めに活き活きと輝く日々へ導かれることを期待し求めつつ、新しい一年を共に歩み出しましょう。

 

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。詩編103:2

 

12/31 「若枝は育つ」 説教者/川内裕子 牧師

マタイによる福音書 2章16~23節

12月は、マルコによる福音書より、イエスの誕生の出来事を読んできています。ヘロデ王は東方の占星術の学者たちをスパイに使い、ユダヤ人の王を確認して殺そうとしますが、学者たちはヘロデの意のままにはならず、王に会わずに帰っていきます。そこでヘロデは大変怒り、疑わしい人々を殺すという暴挙に出ます。ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺すジェノサイドです。18節に引用されたエレミヤ書は、捕囚となった民のことを嘆いている様子ですが、その言葉は、そのままここでは嘆きの言葉です。むごく殺されていったわが子が、もう自分の腕の中には戻ってこないことを悲嘆にくれ、慰められることも拒む深い痛みの中にいる様子、そのまま。

現代もなお、生活の場が戦場になり、たくさんの子どもたちが殺されています。日々私たちの世界で起こっている情景は、テレビのチャンネルを変えると見えなくなってしまいますが、そうしてもなお見えないところで私たちの生活と地続きです。ガザで働いていた日本人の医療スタッフが、先日日本に帰国し取材を受けていました。「日本に帰ってきたからと言って、全然自分は安全だ、という気持ちがしない」というその方の言葉は、正直な気持ちだと思います。

2000年前、エジプトに逃げたイエスたち親子にとっても、それは同じことです。天使の言葉を聞いて、その夜、とるものとりあえず逃げていく恐怖。どのように追手がかかるかわからない中で恐れながら逃げ続ける旅路。たどり着いたエジプトで聞く恐ろしいニュース。これは自分たちの身に降りかかっていたことなのだという思いを抱えていたことでしょう。

ヘロデ王の死によって、危険は去ったという知らせがきても、ヘロデ王の子アルケラオが治めているユダヤ地方に行くことを恐れて、ガリラヤ地方のナザレに行ったことに、ヨセフたちの中には、まだヘロデ王のジェノサイドは続いていることが示されます。暴力と死の影の中からイエスたちは生き残ってきたのです。殺された子どもたちの死を受け継ぐ、サバイバーとしてイエスは生きてきています。

イエスがナザレに住んだことを、「彼はナザレの人と呼ばれる」との預言の成就だとマタイは記します。ここはイザヤ11:1~2「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と関連していると考えられます。

エッサイはダビデ王の父、救い主はダビデの家系から生まれると預言されていたメシア預言の箇所です。

「若枝」と訳された語と「ナザレの人」の音が似ていて、掛詞をしたとも考えられらます。ナザレに住んで育ったその若枝であるイエスは、救い主なのですよ、ということを示しています。「若枝」の語は、本来、「見張る、観察する」の意を語源にもち、隠れている物を見張るイメージが重なります。イエスは、隠されていることを明らかにする方、それを体現される方です。イエスがベツレヘムでのヘロデの殺戮を通り抜けてきたことを思い起こします。イエスの生きる道は、隠され、見えなくされ、忘れられようとしているものを明らかにし、私たちの前に差しだしてきました。長じて支配者たちに押しつぶされ、うめく声を上げる民衆たちと共に生き、神の国がこれらの人々と共に歩むことに拓かれていることを示されました。隠れたものを明らかにするそのイエスの生き方は、支配する者たちには憎まれます。

18節の激しい嘆きの預言のエレミヤ書の引用には続きがあります。エレミヤ31:16~17は回復の預言です。隠されたもの、隠ぺいしようとする力、なかったことにしようとすること、その大きな力に抗って、イエスと共に生きる時、私たちはこの回復の預言に連なるのではないでしょうか。

日々の歩みにあっても、世界の中にあっても痛みを多く思い出す年であったかもしれません。けれど、小さな芽が出て、若枝が育つように、私たちは自分自身に示された神の真実を明らかにし、イエスと共に新たな年へ歩んでいきましょう。

 

 

12/24 「喜びの応答」 説教者/川内裕子 牧師

マタイによる福音書 2章9~12節

東の国から占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」を探してやってきます。今日は彼らが目印にして進んでいた星が、ついにイエスのいるところで止まったという箇所。学者たちは、ここに自分たちの探していたお方がいる、という「しるし」をみて、大いに喜びます。時間も、労力も、財力も注ぎ込んで、探し求めていた王にやっとお会いできる、学者たちがそんな喜びいっぱいに満たされた様子が伝わってきます。

学者たちはイエスの前に身をかがめ、心を注ぎだして礼拝し、献身するのです。学者たちは、自分たちの喜びの応答として、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を捧げました。黄金は王に対する捧げもの、乳香は神に対する供物をささげる時に一緒にたく香料でイエスを神として認めるもの、没薬は薬や香料として用いるもので、人が亡くなった時の香料としても用いることから、イエスの十字架の受難と葬りを表わす、という説もあります

この贈り物は、学者たちにとっての、最大の信仰告白とみなすことができます。自分たちの王であり、神であり、自分たちと共に苦しみを共に歩んでくださる方としてイエスを礼拝するのです。マタイ1:23にあるように、神が人としてこられたということは「神は我々と共におられる」ということを体現してくださったということなのです。このことこそが、クリスマスの喜びです。

 

先日、ユースクリスマス会を行って、ディケンズのクリスマスキャロルの映画を見ました。人々と喜びを分かち合う人生へと変えられたスクールジーの話です。お楽しみは、好きなようにデコレーションをするケーキ作りでした。それぞれ思い思いに楽しんで、その場で食べる用、お持ち帰り用を作り、家族へのプレゼントに…など、口々に言いながら持ち帰りました。次の日に何人かの保護者から、持って帰ったケーキのプレゼントを食べて「嬉しかった」という感想を頂きました。子どもたちが自分たちも楽しみ満たされ、そしてそれを一緒に家族と分かち合ってくれたことが嬉しい、という報告でした。私たちは、満たされ、喜び、満足したときに、その喜びはあふれ出て、惜しみなく人々と分かち合うことができます。

 

学者たちの探求はゴールを迎えました。星の示したユダヤ人の王は確かにおられ、彼らはこれまでの労苦がすべて喜びに代わって満たされ、あふれる思いを幼子イエスの前に注ぎだします。そしてまた自分たちの国へと帰ってゆきました。

自分以外の王が生まれた、というニュースに心騒ぐヘロデ王は、その子どもを殺すたくらみをもって学者たちを送り出しますが、そのたくらみは神によって折られます。学者たちは夢でお告げを受け、別の道を通って自分たちの国に帰ります。命を奪おうとする道に、学者たちは加担しません。自分たちが出会った王であり、神であり、共におられる方と一緒に生かされ、喜びを伝える道へと派遣されていきます。彼らは、はるばる旅をしてユダヤ人の王を礼拝した、という出来事をけっして忘れないでしょう。それどころか、この体験は、彼らのこの先尽きることのない喜びをあふれ流れさせる泉となったでしょう。この喜びの泉は、彼らの言葉を聞く一人ひとり、出会う一人ひとりを満たしていったのではないでしょうか。

 

 

4週間、アドベントクランツのろうそくの灯りを一つずつ増やしてともしながら、救い主のおいでを待ってきました。わたしたちは「神は私たちと『共に』おられる」ことを喜びましょう。学者たちが喜びの応答として自らの最善を捧げたように、私たちも神に最善を捧げ、喜びを出会う方々と分かち合って新たな一週間遣わされていきましょう。奪い、傷つける道に加担せず、分かち合い、喜び、生かし合う道を歩んでゆくことができますように。

12/17 「近づきたい」 説教者/川内裕子 牧師

マタイによる福音書 2章1~8節

<二つの接近>

第3アドベントとなりました。ラテン語の「到来・接近」を意味する語から来ているアドベント。イエスさまが私たちに近づいてくれたことを待つのです。が、今日は、イエスに近づき、接近しようとする、二つの立場の人々について、聖書は語っています。

 

一つの立場は、東方からやってきた学者たちです。星の動きを見て、文書に照らし合わせて、何が示されているのかを研究しようとする人々です。祭司のような役割も果たしていたと考えられます。東方からやってきた彼らは、イスラエルにとって異邦人です。その異邦人である彼らがエルサレムにやってきて、ユダヤ人の王が生まれたので礼拝しに来た、というのです。自分たちにとっても、礼拝するに値する、王の誕生を期待し、はるばる旅をしてきたのです。

 

もう一方の人々はヘロデ王やエルサレムの人々です。彼らは学者たちの話を聞いて不安になります。ヘロデ王はイスラエルの南方、イドマヤの出身で、ユダヤ人ではありません。「ユダヤ人の王」が生まれたというニュースは、ヘロデ王の正当性について疑念をさしはさむことで、王は不安を感じます。新たな王が起こり、政権交代が穏便ではない方法で行われるならば、エルサレムの町も争いや混乱に巻き込まれてしまします。自分たちは無事に過ごせるだろうか、とエルサレムの人々も不穏な空気を感じて不安になります。

 

東方の学者たちが喜びの基を求めて熱心に探究することに対し、ヘロデ王の対応はひそひそと重たい空気を感じます。彼は祭司長たちや律法学者たちを集めてメシアはどこで生まれることになっているかと問いただし、ひそかに学者たちを呼んで送り出します。ひっそりと事が行われることで、ヘロデ王の、人には言えない後ろ暗い考えが透けて見えます。

 

<近づきたい>

学者たちもヘロデ王も、「拝む」と言います。「近づきたい」という両者の思いがありますが、実のところその中身は違います。ヘロデ王の本音は2歳以下のベツレヘムと周辺一帯の男の子を殺したという記事に現れています。ヘロデは自分の不安材料を取り除き、自らの安泰を保証することに手を尽くします。異邦人にとっても喜びであった、ユダヤ人の王の誕生の知らせは、ヘロデにとっては脅威だったのです。ヘロデは怪しいところは皆殺し、という恐るべき方法をとって、自分の安心を手に入れようとします。都合の悪いことは徹底的にたたいて、なかったことにしようとする私たち人間のありようがここに現れています。生かされていく方法はないのか、と流された血が叫びます。

 

救い主の誕生に、私たちも近づきます。私たちはなぜ近づきたいのしょうか。生かし、共に生きるため?それとも命を奪い、なかったことにするため?星を頼りに遠く探求の旅をして、王として生まれた幼子の前に頭をたれようとした学者たちのように、共に生きる者として近づくことができますように。

12/10 「『共に』はあなたの隣に」 説教者/川内裕子 牧師

マタイによる福音書 1章22~25節

<いのちの預言>

主の到来の近づきを待つ、アドベントの2週目を迎えました。今年はマタイによる福音書をご一緒に読んでいます。先週は、婚約者マリアが、自分に由来しない妊娠をしたことを知るヨセフについて読んできました。自分が考える最善を行おうとするヨセフですが、夢で現れた天使は、彼が全く考えなかった、マリアを離縁するのではなく、そのまま結婚するようにという選択肢を示します。困難で、面倒で、リスクのある方法を選びなさい。恐れずに。そして「主は救い」の名の通り、民を救うことになる男の子が生まれる、と主の使いが告げるのです。

天使の言葉は、イザヤ書に記される預言に基づいていると聖書は語ります(イザヤ書7章)。これは、イスラエルが南北に分かれていた時代、南ユダの王アハズの時です。アラムと北イスラエルが同盟を組み、南ユダを攻め取ろうとして、動揺するアハズに語られた主の預言です。「落ち着いて、静かにしていなさい」(イザヤ7:4)、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)と語る預言の続きには、生まれた子が成長することが語られます。

戦の中、混乱の中で、命が生まれます。その保護を必要とする命は守られ、育つ、と預言は語ります。ガザで、イスラエルで、ミャンマーで、ウクライナで、ここ日本で、世界中でたくさんの子どもたちの命が奪われる現在です。その子どもたちが守られ、庇護を受け、成長するためには、争いや戦いがなく、略奪や人権蹂躙がない、平和な世でないと、彼らの命は守られないのです。

子どもは生きる、と語ることで、そんな平和が来る、恐れるなとイザヤはアハズ王に告げるのです。それはインマヌエル、神が私たちと共におられるからです。

 

<『共に』はあなたの隣に>

国が亡ぶ危機の中で語られる預言が、今日ヨセフに繰り返されています。ヨセフにもアハズ王のように恐れがありました。しかし恐れるな、と天使は語ります。断ち切る関係ではなく、結び続ける関係を持て、と天使は語ります。ヨセフはその通りにマリアと結婚し、マリアは男のを産むのです。

神の示す道、開く道は生み出してゆく道です。その子が生まれるには困難があると考える中でも、神は私が共にいる、その道を歩もうと示してくださいます。その名はインマヌエル、神は我々と共におられる、という意味です。

ここで語られるのは、出産のことだけを意味するのではありません。主は、私たちと一緒にいて下さり、私たちが難しいと尻込みする関係へと切り込んでくださいます。そして共に行こう、と手を伸ばして下さいます。

あなたが直面している事柄はなんでしょうか。これから乗り越えていく課題はどんなことですか。その名はインマヌエル、神は我々と共におられる。

 

「共に」はあなたの隣にあります。

12/3 「救いを手探る」 説教者/川内裕子 牧師

マタイによる福音書 1章18~21節

<アドベント 到来>

アドベントはラテン語の「近づく」の意味から、主イエスの到来、それを待つ時のことを表わします。マタイによる福音書には、イエスの訪れによって、面倒で、危機的な状況になったヨセフとマリアのことが書かれています。婚約中であった二人が、まだ結婚をしないときに、マリアが身ごもったことがわかります。マリアの妊娠は聖霊の働きによるものでしたが、ヨセフは、自分自身に由来しないマリアの妊娠という事態をどう取り扱えばよいのか、悩みます。

ヨセフは神に忠実であろうとする生き方と、婚約中の妻の受けるダメージをできるだけ晴らすことへの対処を、どうにか自分の考えでバランスをとり、抜け道を探り、細い糸をくねくねとたどっているように思えます。これらのことを、ヨセフは、マリアからの伝聞で妊娠を知るという事態の中で行わなければなりませんでした。

 

<神の介入 主は救い>

そんな中、ヨセフの夢の中で天使が語ります。「恐れず」という言葉に、ヨセフはこの事態の中、恐れを感じていたことがわかります。天使が示したのは、婚約をそのまま、この結婚を継続しなさいというヨセフが考え付かなかった選択肢でした。そして天使の伝えた「イエス」という名には、「主は救い」という意味があります。語呂合わせのようですが、その子は民を救うのだから、というのです。

今日私は、悩みに悩んだヨセフの中に、天使が「主は救い」というイエスの名をポトンと落したことにとても心を向けられました。いろんなことを悩み、考え、恐れにとらわれたヨセフです。自分の知恵で、これが最善、神にも従うし、自分もマリアもダメージを最小限にすることができるし、こうするしかないかな、と決心しつつも、天使の言葉が暴いているように、その決心には恐れがあったのです。ヨセフは、暗い闇の中に落ち込んでいるような思いだったかもしれません。

その中で、その子の名はイエス、主は救い、と告げられます。考えてみれば、その子のことで、ヨセフが悩みに悩む事態になっているのです。だのに、その子の名は「主は救い」とはなんということだろうと思います。

このことは示唆的です。混沌と、混乱の元凶と私たちが感じるところに、主の救いはある、ということではないでしょうか。そして、危機の中にあっても、神は私たちを決して忘れず、見放さないということではないでしょうか。

 

<救いを手探る>

こんなこと、自分の身に降りかからなければよかったのに、と思うことは、私たちの人生の中で多く起こります。先週のミャンマーを覚える祈り会で分かち合われたのは、国軍からの空爆が終わることなく続く中で、祈りのリクエストの電話があったということでした。いつ終わるかわからない空爆の中、牧師たちが皆が身を隠すために庭に穴を掘っている、「とにかく、なんでもよいから命が助かるように祈ってほしい」というリクエストでした。祈り会の参加者で胸がつぶれそうな思いを抱えて祈りました。

どうしようもない状況の中に「主は救い」と、神の光が差し込むように、私たちはここに神の救いがあると祈ってゆくのです。それは救いの細い糸を手繰るような出来事です。私たちは、主の救いの約束があるからこそ、失望せずに歩むことができるのです。

救いの約束を覚えつつ、新たな一週を歩んでいけますように。

 

 

11/26 「福音の証し人」 説教者/川内活也 牧師

使徒言行録 1章6~11節

信仰の確認

帯広教会の宣教開始60年を覚え、今年度は教会の信仰告白を再確認しつつ御言葉の分かち合いを続けて来ました。信仰告白とは文字通り「自分は何を信じているのか」を自ら確認し、公に言い表す言葉です。それはすなわち、イエスさまから与えられている教会・クリスチャンの使命である「伝えて行く福音」が何であるのかを確認する言葉でもあります。自分自身に与えられた福音とは何なのかという「信仰の確信」は、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる盾となります(エペソ6:16)。受けた恵み、与えられた救い、委ねられた福音を忘れてしまえば、当然、その「福音」を宣べ伝えることも出来なくなってしまうでしょう。だからこそ、私たちは日々「信仰の確認」として自分自身に与えられている信仰を告白することが大切なのです。

使命の確認

「何を信じているのか」という信仰の確認は「何を伝えて行くのか」という使命の確認です。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。この十字架の言葉、つまり、イエスさまを通して与えられた福音こそが神の救いの力であることを知るからこそ、私たちは信仰を土台として生かされ、また、その福音を宣べ伝える使命に生かされるのです。

主の日に備えて

さて先週は「終末」についての信仰告白を確認しました。歴史的な「終わりの時」だけでなく、私たちそれぞれも地上の歩みを終える日が訪れます。しかし、「その日」は絶望的な死と滅びの日では無く、主なる神の御支配の中に在る永遠の命が始まる希望の日であることを確認しました。私たちは「死なない道」や「終末が来ない方法」を宣べ伝えるのではなく、必ず訪れる「主の日」に向かい歩んでいる事を自覚し、また宣べ伝えるのです。「その日」が絶望では無く希望とされた福音を宣べ伝えるのです。地上に楽園を築くための宣教では無く、何が主に喜ばれるかを伝えることで、その「喜びの日」に備えて行くのです。

愛の証し

「福音の証し人」として私たちの成すべき「伝道」は、自分が受けた恵みを隣人に分かち合う信仰の告白なのです。何よりも優れた賜物は「愛」であるとパウロは告白しています(1コリ12:2913:2)。イエスさま御自身も、私たちが成すべき働きは「互いに愛し合うこと」だと語られました。「世界宣教」や「伝道」というと、何か特別な使命と働きであるかのように身構えるかも知れません。しかし、私たちに与えられている使命は単純です。「神を愛し、隣人を愛する」「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)という招きの御言葉に聞き従うことです。

福音の証し人

神の愛の内に生まれ、神に愛されている存在。それゆえに死と滅びから贖われたいのち。私たち一人一人は神御自身の目に「高価で尊い」と聖書は(イザヤ43:4)告白しています。神に愛されている者であるという信仰の自覚を告白し、ゆえに神の愛は隣人にも与えられていることを証しする生活。それが福音の証し人として地上での日々を歩む私たちに与えられている使命なのです。家庭において、職場や学校・地域や地の果てにまで、告白する信仰を携え、この福音の証し人として歩み出して行きましょう。

主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。詩編96:2

 

11/19 「その日に向かい」 説教者/川内活也 牧師

マタイによる福音書 24章3~14節

終末

聖書に「終末」という単語自体は書かれていません。イザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどの旧約預言書や、新約聖書の預言箇所では特定の日を示す「その日」とか「主の日」という言葉が使われています。預言書で語られている「主の日」は、この世界が終わりの時を迎える「特別なその日」を指す言葉です。弟子たちは「特別なその日」がいつ来るのか、どんな予兆があるのかひそかにイエスさまに尋ねました。旧約の時代から預言者たちを通して示され続けて来た「この世界は永続する存在では無い。終わりの時が在る」ことに弟子たちも関心をもっていたのでしょう。そんな彼らの問いに、イエスさまは24章から25章まで多くの言葉をもって答えられました。

必ず来る日

イエスさまは「いつですか?」という弟子たちの問いに対し「ただ父だけが知っている」と応じられています。「その日は必ず来るよ。しかし、その日がいつであるかをあなた方は知る必要は無いよ」と語られているのです。25章までを使い、いくつかのたとえも交え、イエスさまは終末への備えを弟子たちに語られていますが、そのどこにも「いつ」ということは語られていません。これは神の創造された世界の歴史における終末だけではなく、私たち一人一人の歴史、それぞれの人生、地上での命の日々にも同じように語られている福音なのです。全てに「初めがあり、終わりがある」のです。私たちもまた、地上の命を受けた初めが有る者として、必ず「終わり」の日を迎えます。その日が「必ず来る」ことをイエスさまは弟子たちに、そして、主の福音を知る者全てに覚えさせて下さっているのです。

「その日」は「希望の日」

その「終わりの日」「終末の時」を、多くの人は「悲惨な苦しみの時」と考えます。しかし、「産みの苦しみ」を経て「命の誕生」は起きるのです。十字架無くして復活はありません。全ての被造物が神との断絶により死と滅びに定められたこの世界が、終末という産みの苦しみを経て再び創世記冒頭に在る「極めて良い世界」に整えられる姿が黙示録20章で語られています。歴史の始まりに「極めて良い形」で創造された世界が、歴史の終わりに再び「極めて良い姿」に整えられた後、一冊の本が閉じられるように神の御手の中にこの歴史・この世界は納められるのです。それを御手の中に収められた主なる神の御前に、私たちはまるで、読み聞かせを終えた親の前に座る幼子のように迎え入れられるのです。死も終末も必ず来ます。しかし「その日」は陰惨たる絶望の日では無く、主なる神さまの完全な御支配の中にある交わりに目覚める新しい命の朝なのです。死と滅びに飲み込む罪の支配の世界が終わり、真実と正しい裁きをもって治められる主の主・王の王であるまことの神との交わりが始まる希望の日なのです。その日に向かい、目を覚まし、日々備え、成すべき務めに励むようにと、イエスさまは今日の箇所から25章までを通して弟子たちに教えられました。その御言葉は、今日の私たちにも語られている福音のメッセージなのです。

その日に向かい

その日がいつであるかは分かりません。しかし、たとえ明日「その日」が来るとしても、私たちは今日、委ねられている日々の務めに励みましょう。約束の希望の朝へと招き入れられる「その日」に向かい、新しい一週へと共に歩み出して行きましょう。

 

主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き真実をもって諸国の民を裁かれる。詩編96:13

 

11/12 「従う者」 説教者/川内活也 牧師

ローマの信徒への手紙 13章1~10節

世のただ中で

今日は帯広教会の信仰告白第9項「教会と国家」から御言葉に目を向けましょう。信仰者は「神との交わり」に在ると同時に「世の旅路」を歩み続けています。信仰者もその協同体である群れ(教会)も「社会から隔離された存在」ではありません。むしろ福音の証し人として神さまから世のただ中に遣わされています。今日の箇所は「世のただ中に遣わされている信仰者」として「世の権威者(国家)」との関係について勧められている箇所です。

世の権威に従うべきか?

この箇所はまるで「何があっても国家の権威には盲従・絶対服従しなさい」と勧められているように読めますが、そうではありません。使徒5章においてペテロたちは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」とハッキリ宣言しています。またダニエル3章ではシャデラクたち3人がネブカデネザル王の命令に背いた姿も記されています。世の権威に対して盲従・絶対服従はしていないのです。しかし今日の箇所だけでなく他の箇所においても「世の権威(王・国家)に従え」とも勧められています(参照1ペテロ2:1314,テトス3:1)。世の権威には絶対に従うべきなのか、背くことも有りなのか。さて、どうでしょうか?

神に従うという基準

信仰者の判断基準は「何が主に喜ばれるのかを吟味」することの他には有りません(エペソ5:10,ローマ12:2)。イエスさまは主なる神さまが求めておられる基準・律法について「最も重要なのは主なる神さまを愛すること。また隣人を愛すること」であると教えて下さいました(マタイ22:35)。パウロもその事を受け、続く138節以下で愛は律法を全うすると宣言しています。「主なる神を愛すること。また隣人を愛すること」。この戒めを妨げられない限り私たちは世の権威に従順に従うべきです。

祝福を祈る者

たとえ国の高官が納税の義務に反する不正を行っていても、私たちは税が正しく用いられることを祈りつつ、定められた税を納めるように努めるべきです。政治に対する不満や不信感が有ったとしても、主なる神と隣人を愛することを禁じられない限り、私たちは世の権威者が定めた法に従うべきです。独裁者であろうが腐敗した政治家であろうが気に入らない王であろうが、世の権威に対し信仰者は悪戯に敵対心を向ける者であってはならないのです。むしろ「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」(1テモテ2:1)と勧められています。世の権威者のためにも祝福を祈るべきであり呪ってはならないのです。彼らが「悪」であったとしても、詩編72編にあるようにその彼らが「正しい権威者」としての務めに立てるようにと私たちは祝福を祈るように勧められているのです。

教会と国家

私たちは無抵抗な盲従者として「世の権威に絶対服従せよ」と導かれているのではありません。「私たちの究極の服従は唯一の主なるキリストに対してなされるべきであると信ずるがゆえに、国家に対してもそれが主なるキリストのみ旨に反しない限り良心的に従うべきであります」。世のただ中にあって「すでに来たりたもう神の国の福音」に生きる者として、主なる神さまの御心に従い「神を愛し、隣人を愛する者」として「すべての人々に対して自分の義務を果たし」、あらゆる権威の前にいつでも堂々と立つことの出来る福音の証し人として歩み続けましょう。

 

 

主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。詩編2512

 

11/5 「基点の日」 説教者/川内活也 牧師

ヨハネによる福音書 20章1~10節

覚えられる記念日

1500年以上覚えられている誕生記念日があります。それはクリスマスです。イエス・キリストの降誕を記念する日が12月25日と定められて以来、この記念日は福音が宣べ伝えられた世界中で祝われて来ました。そのクリスマス以上に長きに渡って教会が記念の日として覚えている日があります。それが「主の日(日曜日)」です。

生けるものゆえに

今日は帯広教会の信仰告白8項目目に掲げている「主の日」に目を向けたいと思います。記念日というのは、本人や近親者が存命中は覚えられていても、死後は忘れ去られてしまうものです。しかし、「主の日」を私たちは今日も覚え・守り・記念しています。それはまさしく「主は今、生きておられる」という復活の出来事に基づく記念日だからです。

日曜だからこそ

「なぜ教会では日曜日に礼拝をやっているのか?」と聞かれることがありますが、むしろ「日曜日だからこそ礼拝をささげるのだ」と私たちは告白します。前回、教会の信仰告白第7項「礼典」に目を向けましたが、イエスさまの「復活」の前に「十字架の死」があったからこそ、復活の記念の日である日曜日を「主の日」として礼拝をささげるのです。

神の愛が示され

イエスさまの「十字架の死」は、神さまの愛を示す御業です(ローマ5:8)。罪の中で死と滅びに定められていた全ての人類を、その「罪」から解放するため、神御自身がその身を裂いて「いのちの代価」となって下さいました。人が誰も支払う事の出来ない代価を神が支払われたのです。それは神御自身が人を「我が子」として愛おしまれていることを証明する姿です。

勝利の証し

もし「神の愛の証明」が十字架の死で終わっていたなら、おそらく今日という日に教会の礼拝は無かったでしょう。十字架の死後100年も経たずにイエス・キリストという存在さえ歴史から忘れ去られていたかもしれません。本人も近親者も死んでしまっているからです。しかし今日も世界中で礼拝は守られ、今年もクリスマスは祝われるでしょう。なぜか?今日の箇所や福音書全てで証しされているように「本人が存命中だから」です。復活の主は今も生きておられるからです。そして、主を愛する「近親者」も、いのちを受けた信仰者として存在しているからです。「復活」されることによって、罪からの報酬である「死と滅び」を打ち破られたことが証明されたのです。

喜びをもって記念し

誕生日も記念日も、義務や責任や誰かに強いられて祝うものではありません。私たちは信仰をもって、主の復活を記念する「主の日」を喜び迎え、証しするのです。「主は今、生きておられる」のだと。キリストにおいて現わされた福音は、今も生きて働く神の恵みとして私たちに与えられているのです。過ぎし1週を主の御手に返し、新たな1週への歩みを始める信仰の「基点」、復活の希望が始まった喜びの日として、私たちはこの記念の主の日を告白し、歩み出しましょう。

今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。詩編118:24

 

10/29 「祈りを託して」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 12:24~13:3

<つながっている世界>

202121日にミャンマー軍がクーデターを起こして、今日で1000日になります。国軍による人権侵害はますます過酷になっています。物価が上がり、人々の生活もますます困難になっています。各国からの経済制裁もあって金銭的に厳しいはずなのに、国軍の攻撃はやむことがありません。そのお金はどこから来ているのでしょう。軍に流れているお金があるのです。日本もまた、ODA(政府開発援助)として支援しているお金が、軍の軍資金となっている可能性があります。私たちは注意深く、自分自身と世界の関連を読み取る必要があります。私とは遠く離れた、無関係のどこか、で起こっていることではなく、わたしとつながっている世界の事柄として、この世界の出来事に出会っていきたいと思います。

ハマスとイスラエルの戦闘も激しさを増しています。このような戦争の犠牲になっている多くの人々の命が、もう流されませんように、もう殺さないで、と声を上げ続けたいと考えています。私ができることはなんだろうか、と考えながら、今日の聖書箇所を思いめぐらして過ごしていました。

 

<アンティオキア教会の人々>

今日の聖書の舞台は再びアンティオキア。迫害から逃げた人々から始まった教会が、エルサレム教会を祈り支える教会と成長し、飢饉が起きたため、エルサレム教会のために献金を集めてバルナバとサウロが届けて戻ってきたところから始まります。

 アンティオキア教会の預言者や教師などの主な働き人が記されています。バルナバはエルサレムから派遣されて、そのまま自分はアンティオキア教会で教会生活をしよう!と奉仕をしていました。サウロは、バルナバがアンティオキア教会で奉仕をするためにふさわしい人材、と考えて連れてきた人です。ニゲル(ラテン語で「黒」)と呼ばれるシメオンとキレネ人ルキオはアフリカ大陸出身のメンバーと考えられます。ヘロデ・アンティパスの乳兄弟マナエンもいます。アンティオキアの町を象徴するようなさまざまな出自、多様な人々が集う教会となっていることがわかります。

 

<祈りを託して>

そんな中で、聖霊により、バルナバとサウロを主の働きにあたらせ、送り出すようにと示されます。人々はその示しを深く受け取り、断食と祈り、按手をもって彼らを出発させます。迫害から逃げてきた人々から始まった教会が、成長して今度は世界に働き人を派遣する教会へとなっていきます。

神の計画は、世界へ、外へと向かっていきます。それは教会の祈りともなるのです。バルナバとサウロを神が召し出して派遣するにあたり、聖霊はこの二人だけに御心を示そうとはせず、教会に示しました。そのことにより、二人を送り出すことが、教会の祈りともなり、使命ともなりました。人々は二人に按手し、祈りを委ね、働きを委任して送り出したのです。

今年度の帯広教会の年間テーマは、「仕える喜び」です。わたしたちは具体的に、誰に、何に、どのように仕えているでしょうか。わたしたちはそれぞれ神からの計画を受けています。そのそれぞれの働きを教会がみな受け入れ、祈り、その働きを覚えて祈り委託し、派遣していくことが大切なのではないでしょうか。

 

 

 

10/22 「門のひらく先に」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 12:6~19

<ペトロの救出>

先週のヘロデをめぐる聖書箇所の間に挟まっているのが、今日の箇所です。自らの支配基盤を盤石にするためにキリスト者をとらえ、迫害していたヘロデ王は12弟子の1人であるヤコブを殺し、さらにペトロをとらえます。過越祭、除酵祭の後で処刑するために、ペトロを牢で監視します。4人1組の兵士4組の監視は、夜も交代で徹底的に監視する体制でした。2本の鎖でつながれ、2人の兵士の間に挟まれ、おそらく2人が戸口で見張りをしていたのでしょう。ペトロが自力で逃げ出すこともできないし、外から助けに行くこともできない状況でした。人間の考える方法では逃げることができない状況です。

そこに神の介入が起こります。天使はペトロをつついて起こし、服を着て身支度をさせます。鎖は外れ、監視所を通り抜け、町に通じる門が開きます。天使はペトロを安全なところまで導き、脱出させることに成功します。

 

<後でわかる神の救い>

 救いの出来事が起こったことは、その最中ではなく、後からそうだったのか!とわかるのです。

ペトロは天使に促され、導かれている間、夢の中にでもいるようでした。天使が消えてのち、彼は「我に返」り「今初めて本当のことがわかった」と、実は自分は神によって救われていたんだ、ということを理解します。

人々もまた、救いの出来事に後で気づきます。マルコと呼ばれていたヨハネの母、マリアの家の教会には、大勢の人が集まって祈っていました。5節にも、教会では彼のために熱心な祈りがささげられていた、と書かれています。ペトロが家の教会にたどり着き、門の戸をたたくと、取次にきたロデはペトロが戻ってきたとわかり、喜びのあまり門も開けないで家の中に駆け込んで人々にそのことを告げます。人々はそのこと信じません。ロデのことを気が変になっているとか、それはペトロの守護天使だろうなどというのです。イエスの復活を告げた女性たちの言葉を信じない弟子たちの姿を思い出します。ペトロが救われるようにと熱心に祈っていたのに、いざペトロが救出されて戻ってくると信じられない人々です。

 

<門のひらく先に>

実現を求めて祈っているのに、いざ祈りが実現しても信じられないような不信仰な私たちにも主は伴ってくださいます。

救いの知らせは、人々が熱心に祈っている間も、下働きとして働いている女性からもたらされました。こんなところから知らせがくるはずないよ、というところから救いの知らせはもたらされるのです。

わたしたちが、まだ実現がわからないときから、救いは始まっています。困難な課題の中に、主の伴いと導きがあることを信じ、かすかな声を見つけて歩んでいきましょう。

 

 

 

10/15 「耳を傾ける」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 12:1~5、20~23

<戦争や暴力のやまない世界>

先週、在日のミャンマーの知人から連絡をうけました。ミャンマーで、自分と同じカチン民族の国内避難民キャンプへの国軍の攻撃があり、子どもも含めて多くの方が亡くなったとのこと。どうぞ祈ってほしいとのリクエストでした。

また、ハマスがイスラエルに攻撃を行い、イスラエルがガザへ報復の攻撃を行い、双方とも千人単位で人々が亡くなっています。暴力に対して暴力で対抗することは、更に被害を大きくするだけだということは、すでに歴史が証明しているのに、世界中の経済や外交の思惑をも巻き込んで、暴力を止めることができない私たちです。もう誰も殺されないでほしいと祈り、願いながら、自分は安全はところにいるいたたまれなさを感じながら過ごしています。

このような大きな戦争や暴力の渦を、私たちは止めることはできないのでしょうか。

 

<ヘロデが聞いていた声>

 エルサレム教会は、大きな危機にさらされていました。ヘロデ王による迫害が起こっていたのです。このヘロデ王は、イエスが生まれた時「ユダヤ人の王」が生まれたことを恐れてベツレヘムとその近郊の2歳以下の男の子を殺したヘロデ大王の孫にあたります。当時、ヘロデ大王の時と同様、パレスチナ全土の王として君臨していました。自分の地位を盤石にし、王としての実績を上げるために、ユダヤ人に取り入ります。それは、イエスをキリストと主張するキリスト者たちを迫害し、主として当時大勢を占めていたファリサイ派に取り入ることでした。

彼は、イエスの12弟子の一人であるヤコブを殺します。それがユダヤ人たちに喜ばれたのを見て、更にペトロも捕えます。過ぎ越しの祭りの間の処刑は不適切だったので、祭りの後処刑をするつもりで牢に入れて監視をします。その監視は、四人一組の兵士四組というもので、これは夜間も交代しながら徹底監視する、厳重な体制を意味しました。ヘロデが聞いていたのは、自分が統治している土地の有力者たちの声でした。

 ティルスとシドンへの対応についても、同様に王は人々の声に耳を傾けます。フェニキア地方の港湾都市で、各地の取引の中継地点のその町と、ヘロデとの間で何らかのトラブルがあったことが考えら、ヘロデはティルスとシドンに食料制裁を行っていたようです。町の人々はヘロデの側近にわいろを渡して和解を願います。その場に現れ、語る王の声を人々は「神の声だ」と叫び、ヘロデもそれを利用し、良しとしたことによって王は打たれます。彼が聞き続けたのは、自分にとって都合の良い、人々の声でした。

 

<耳を傾ける>

エルサレム教会にとっては、中心として導く使徒が一人殺され、もう一人もとらえられ、使徒たちだけではなく、もちろん自分たちも迫害の対象となって、助けに行くこともできないという絶望的な状況でした。そのような状況の中で人々がしたことは、熱心に神にいのることでした。周りの絶望的な状況にひきずられることなく、困難な状況の中にあっても神の声を聞き、歩むことをエルサレム教会の人々は選び取りました。

この困難な状況の中にあって、何に耳を傾けるのか、私たちは岐路に立っています。神に祈り求め、その声に耳を傾けつつ、平和を結ぶ道を歩むことができますように。

 

 

10/8 「ほどけていく」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 11:19-30

<つながる>

過日、女性信徒の会道東ブロック集会が4年ぶりに対面で開催されました。会場教会の旭川東光教会で、とてもよく準備された集まりでした。集会はコロサイ123の聖書箇所に沿って、「イエスさまと一緒に歩こう、みんなで手をつないで」というテーマで行われ、事前に各教会に「各教会、どんな方と手をつないでいますか、つながっていますか?またこれからどんな人とつながりたいと願っていますか」とアンケートがあり、当日わかちあいをしました。

「あなたはだれとつながっているの?教会はだれと手をつないでいるの?」という問いは、私にとって、根源的な、深い問いでした。おいでになる方々を誰でもお迎えする、地域にも開放されている、そのような帯広教会の働きの中で、私は、教会は、誰とつながっているだろうか、本当の意味でつながっているのかな?と問われました。

 

<アンティオキアにて>

今日の聖書の箇所は、ステファノが石で打たれて殺され、殉教したことをきっかけにエルサレムで起こった大迫害のその後です。ギリシャ語を話すユダヤ人たちは、迫害の中で、あちこちに散らされていきます。そして行った先でイエスはキリスト、救い主であるという福音を語っていきました。

今日の舞台であるアンティオキアはシリア地方にあり、気候も過ごしやすく、陸路と海路の交通の要所で、ローマ帝国第3の大きな都市でした。様々な人々も入り混じる土地だったことが想像され、迫害により逃げていった人々もまぎれて住みやすい土地だったのかもしれません。

最初はユダヤ人だけに語っていた福音ですが、そのうちギリシア語を話す人々、つまりユダヤ人ではなく異邦人にも、イエスの福音を語るようになりました。そして多くの人々が信じるようになったのです。その噂は遠く、エルサレムにも届き、バルナバが派遣されます。そこでの人々の信仰を見てバルナバは喜び、サウロ(パウロ)をタルソスから探し出して一緒に一年間アンティオキアの教会で一緒に働くまでにもなります。

彼らは「キリスト者」という名前を、持つまでに、自分たちも、周りも認知する集まりになりました。逃げのびていった人々がほそぼそと語り始めた福音は、大きく広がりました。飢饉が起こった時には、アンティオキアの教会からエルサレムの教会の献金の支援を送るまでになりました。

 

<ほどけていく>

 名もないほそぼそとした働きが少しずつ口コミで広がり、周囲にも認知され、名前を持つまでになりました。「キリスト者」の名の通り、彼らの認知は「キリスト」にありました。このように、人から人へ、教会から世へとキリストの福音はつながっていきます。教会は誰とつながっていますか。あなたは誰とつながっていますか。それはわたしの隣のあなたとイエスさまの恵みを分かち合いたいと、ほどけていくことからはじまります。

 

 

10/1 「天よりのパン」 説教者/川内活也 牧師

ルカによる福音書 4:16-21

2つの礼典

教会が執り行う「礼典」は、バプテスマ(洗礼)と主の晩餐式(聖餐式)の2つであると、私たちの教会では告白しています。これは帯広教会だけでなく、ほとんどのプロテスタント教会が共有している信仰の告白です。「礼典」を言い換えるなら「目に見えない神の恵みを、見える形(象徴)のしるしとして現わす教会の儀式」とも言えるでしょう。このバプテスマと主の晩餐という2つ礼典は、イエスさま御自身が「これを行いなさい」と直接示されているしるしの業です(マタイ28:19、26:26~29、1コリ11:23)。

公に現わされる証し

ロマ書10章10節でパウロは「人は心に信じ義とされ、口で告白して救われる」と勧めています。「心に信じる」という目に見えない霊的な恵みを、「口で告白する」ことで公に現し、世の光・地の塩としてその救いの御業が証しされるのです。では目に見える形で公に現わされる「バプテスマ」と「主の晩餐」、それぞれをもって現わされる「神の恵み」を確認しましょう。

バプテスマ

元々、バプテスマとは「(液体に)浸す・沈める」という意味の単語です。おもに「布を染料液に浸して着色する」という場面で使われていたと言われます。そのことから「1つとなる・同意する」という意味が生まれました。日本語に翻訳する際、バプテスマを「洗礼」と訳されることがあります。つまり「バプテスマ」とは、心に信じ受け入れた神の恵みと「1つに結ばれた」という証しを公に現わす信仰の告白行為、契約行為なのです。

信じた「恵み」

帯広教会の信仰告白第4項目でも見たように、私たちは神の「救い」を信じ・受入れた者であることを告白します。つまり人は、神の愛の内に創造された存在でありながら、神との交わりを断ち切ったため、死と滅びに定められる「罪の存在」となってしまったこと。しかし、その罪の存在となった人を神はなおも見捨てず愛され抜き、死と滅びの鎖を断ち切り、本来在るべき愛といのちの交じりへ再び結ばれる「新しいいのちの道」を、御子キリストの十字架の贖いにより開かれ、復活の希望を現わされたこと。この救いの恵みを信じ受け入れた告白を、バプテスマを通し世に現すのです。

主の晩餐(聖餐式)

このように神の救いの恵みに与った者として「生けるいのちの御言葉」であるキリストと1つに結ばれ続ける必要があります。ヨハネ1章1節にあるように、御言葉そのものであるイエス・キリストによって現わされた神の愛を覚えるため、主の晩餐(聖餐式)を執り行う様に勧められているのです。

天よりのパンは飢え渇く者に

キリストが世に遣わされ、十字架の贖いと復活の証しを与えられたのは、罪の支配に在る不義の世界において義に飢え、愛を断たれ渇く魂に、天よりのパンといのちの水を得させ養われるため、まことのいのちと愛に結ばれた喜びの交わりに人を招き入れられるためです。バプテスマと主の晩餐というこの2つの礼典は、私たちの思いをキリストへ結ぶいのちの交わりのしるしとして定められているのです。

 

虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。詩編146:7~8前半

 

9/24 「一緒に読もう」 説教者/川内裕子 牧師

ヘブライ人への手紙4:12-13

9月は日本バプテスト連盟の教会学校月間です。1ヵ月、取り分けて教会学校をテーマとして覚え、教会学校への参加を促す時となっています。日本バプテスト連盟では、礼拝と教会学校は信仰生活の両輪として大切にしてきました。「聖書教育」という独自のカリキュラムを作成し、教案誌も作っています。編集委員の一人として携わり、編集会議で大切にされているのは「共同学習」。みんなで、一緒に聖書を読む、ということです。「聖書の学び」をその日の聖書箇所の学びとしてリードする人が書きますが、この原案がそのまま採用されて、他のワークシートとか、毎日のみことばのショートメッセージが書かれるのではなく、執筆者と編集委員全員で聖書を読み、それぞれの読みを語り、学び合います。ここですでに一つの教会学校のクラスのような学びが行われています。この学びの中で最初に提案された読み方は変わっていきます。

教会学校では、このような「共同学習」を大切にしています。様々な背景や考えを持った私たち一人一人が、自分に与えられた読み方で同じ聖書の言葉に向き合っていく。どれが正しい読み方、とか解釈ということではなく、聖書の言葉が実に豊かに私たちに働きかけてくださるのか、ということを体験する時です。

今日の聖書箇所では、「神の言葉は生きており」私たちに働きかける、とあります。聖書の言葉に吟味されて、私たち自身が曖昧にしていること、隠していることをあらわにして、私たちの考えは明らかにされるのです。

また、聖書の言葉に照らされることで、私たちは自分自身や教会の歩みを振り返り、立ち帰り、新たに主の伴いのうちに出発することを教えられます。教会学校は、参加者それぞれが聖書の言葉に問われる時を持ちます。そしてそのことを分かち合うことで、学びあいが行われます。

今日は教会学校月間の特別礼拝として、ユースバイブルクラスの参加メンバーで礼拝の奉仕を捧げ、現在開かれている成人青年科の二つのクラスの様子を話していただきました。ユースバイブルクラスでは、今日参加できないメンバーも一緒に教会学校の時間にアピール文について話し合い、意見を出し、先ほどの文章を作りました。礼拝のご奉仕については、どんな奉仕があるだろうとみんなで話し合い、それぞれが希望する奉仕を捧げています。このことを通して今年度のテーマ「仕える喜び」を体現してゆくときとなったことを喜んでいます。

このように私たちを押し出し、変えてくださるのは、「生きている」「神の言葉」によってこそです。共にささげる礼拝のとき、共に聖書を読む教会学校のとき、どちらも私たち一人ひとりにとって、また教会にとって、養われ生かされていく大切な時として私たち自身を捧げていきましょう。新たな一週、豊かな主の言葉と共に歩めますように。

 

 

9/17 「神に招かれた交わり」 説教者/川内活也 牧師

エフェソ4:1-6

教会・エクレシア

日本で「教会」と言えば一般的にキリスト教会を表わす言葉と認識されています。日本語の漢字表記では教会を「教える会」と書きますが、聖書の原語であるギリシャ語では「エクレシア」という単語が用いられています。元々は古代ギリシャで開催されていた各都市の市民総会を表わす単語です。これが「神の呼びかけに集められた人々」という意味で用いられるようになりました。つまり、漢字で表されるような「教える」という意味は、本来は含まれていない単語です。

教会のかしら

もっとも「教える」こと自体が否定されるのではありません。大事なのは「誰から教わるのか?」という点です。私たちは教会・エクレシアにおいて「人から学ぶ」のではなく「神から学ぶ」のです。『教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です』『また、御子はその体である教会の頭です』とあります。教会において「教える」ことが出来るのは満ち満ちた神御自身であり、その教会のかしらはキリストです(エフェソ01:23・コロサイ1:18)「人間」や「人の教え」がトップでは無いのです。

教会の在るべき姿

「神に召集された会衆」はどのような「集まり」として神に招かれているのでしょう?意味も無く「招集」されることはありません。その招きには神の御計画・意志・思いが込められています。今日の箇所に目を向けるなら「神に招かれたのですから」と勧められている姿こそが教会という会衆の在るべき姿なのです。

愛に結ばれた会衆

教会の在るべき姿とは、かしらであるキリストにより「一つに結ばれる交わり」です。創世記の初めに人が生み出された時、神と人・人と人とが「神の愛」によって一つに結ばれた「極めて良い」世界であった姿をみます。また、黙示録などで語られているやがて来たりたもう「神の国」も、全ての者が主なる神のもとで一つに結ばれる永遠の喜びの姿を示しています。創世記に記された「初めの姿」と「終末後の神の国の姿」は共に「愛に結ばれた交わりの姿」です。この「天地創造の初めの姿」と「やがて来たりたもう神の国の姿」をつなぐ「すでに来たりたもう神の国の姿」を世に現すため、神の愛に結ばれた会衆として教会は呼び集められているのです。

罪の刃

では主に招かれたこの交わりはどのような姿で在るべきでしょうか?ピリピ215節等にもその姿は知らされています。人は<神のようになる>という誘惑により傲慢の中へ引き込まれました。神に対し、また、隣人に対して思い高ぶる傲慢が、神との関係、隣人との関係を断ち切ってしまうのです。「傲慢・高ぶり」は愛の交わりを断ち切ってしまう罪の刃なのです。誰かより優れた者として教えるのではなく、主の恵みに与った者としてその恵みを隣人と分かち合うことが、神に招かれた者たちの交わりの姿なのです。

高ぶる者は退けられる

教会形成は「集まった人々が何をしたいのか?」ではなく、「人を招き集められた神が何を喜ばれるのか?」に思いを向けなければ正しく建て上げられることは出来ません。神が喜びとされるのは、神の愛に根差した交わりに他なりません。そこには<神のようになった>人間の傲慢・高ぶりの罪があってはならないのです。神は高ぶる者を敵として退け、へりくだる者に恵みを施されるのです(1ペテロ5:5)。

神に招かれた交わり

神に招かれた交わりであるエクレシア・教会において神が求めておられる姿は、イエスさまが与えられた戒め・掟にハッキリと宣言されています。『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である』(ヨハネ15:12)。『何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか』に日々思いを注ぐなら、神御自身がそれを私たちに教えて下さいます。そして、その招きに応答して歩む時、教会は教会として委ねられた世の光・地の塩としての証しを世のただ中に現す存在となるのです。愛の交わりを断ち切る高ぶりと傲慢から離れ、へりくだって神の御心に従い、主の愛を証しする群れとして用いられるよう、日々祈り求めつつ歩みましょう。

 

 

『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい』ローマ12:02

 

9/10 「悔い、信じ、改める」 説教者/川内活也 牧師

使徒言行録16:25-34

無条件の愛

今日、まず初めに覚えたい事は、聖書を通して私たちに知らされている「神の愛・アガペー」は「無条件の愛」だということです。先ほどお読みいただいた聖書箇所において、パウロとシラスが捕えられていた牢獄の監守は30節でこのように質問しました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と。これがもし「まことの神に愛されるために、私たちは何をすれば良いのか?」という質問であれば、答えは「神の愛を得るために人間が出来る行いは何も無い」ということになります。子どもからの見返りなど全く関係無しに「我が子」だから親は子を愛するものです。ましてや、完全なる愛の存在者である神さまから「愛されるため」に人が何かをする必要は無く、また、その愛を得るために人が出来るものなどは何もないのです。神さまに愛されるための条件は有りません。神さまは初めから永遠に変わることの無い愛をもって人を愛されているのですから。そのために、死と滅び・断絶から交わりの道へと結ばれる「永遠のいのちへの救いの業」を十字架の上で完成されたのですから、「愛されるための条件」などは無いのです。

救いの「条件」

しかし「救い」については、人が<無条件>に、あるいは<自動的>に与ることは出来ません。ではどうすればこの「救い」に与ることが出来るのでしょうか?先ほどの看守からの質問に対するパウロとシラスの返答に目を向けてみましょう。31節 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」。単純明快な答えです。既に完成された神の救いの業に与る方法は、ただ、その約束を「信じる」こと。主イエス・キリストを通して与えられている十字架の贖い・神の愛を「信じて受け取る」ということ。ただ、それだけなのです。

悔い~信じ~改める

神の完全なる愛と救いの選びはすでに無条件に完成され備えられていても、私たちが主イエスを信じて一歩歩み出さなければ、その救いに与る事は出来ないのだということを私たちは知らなければなりません。罪からの救い、キリストによる新しい復活のいのち、主なる神さまとの交わりに結ばれて歩む聖なる喜びは、福音を信じる信仰によって初めて確認することが出来るのです。今日の説教題は「悔い・信じ・改める」と掲げました。普通「悔い改め」とは1つの言葉で使われますが、「悔いる」ことと「改める」こととは別の事柄です。自らの罪、過ち、汚れ、恐れ、様々な「在るべきでない姿・在ってはならない状態」に直面した時、人は「悔いる」ものです。そして、その状態からの転換(改め)を願うのです。しかしその両者の間には溝があります。「悔い」から「改め」の溝を埋める架け橋、それは「信じる信仰」です。

主の愛を信じて歩み出す

神の愛、神の赦し、神の救いはすでにキリストの十字架によるいのちの代価をもって与えられています。後悔の人生で死と滅びに向かって終わるのではなく、聖なる新しい命へと改められて歩む日々へと向かうために、私たちは「在るべき祝福の存在」へと改められていくことを求めましょう。歩み出す者を受け入れ・抱きしめ・創り変えて下さる神の愛を信じる信仰をもって「悔い」と「改め」の溝にかけられた「救いの架け橋」となる主の招きを信じ、この一週も、神の御前に歩み出しましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。使徒言行録16:31

 

9/3 「救われた者」 説教者/川内活也 牧師

エフェソ 2:1-10

信仰の中心命題「救い」

教会の信仰告白、そして、クリスチャン一人一人にとっての信仰の中心命題は何よりも「救い」にあります。それはすなわち、教会、そして信仰者一人一人が宣べ伝えるべき「聖書の福音」の中心命題です。教会に委ねられている働きとは「教会にしか出来ない働き」です。福祉や慈善活動、社会貢献や平和活動など、様々な働きに教会・クリスチャンも参与しますが、そうした働きは「教会に『も』出来る働き」であり「教会に『しか』出来ない働き」ではありません。聖書を通して神様が与えて下さった福音の中心命題は「救い」にあり、教会もクリスチャンも、この「救いの恵み」に与った者としての証しにおいて、委ねられている地上での働きに歩む者なのです。

罪の中に死んでいる存在

さて、今日開かれましたエフェソの手紙2章においても、この福音の中心命題である「救い」について書き記されています。1~3節を読むと「人は生まれながらに自分の過ちと罪のために死んでいる」と聖書は語ります。いのちであり光である神さまとの交わりに結ばれ、生きる者として生み出された人間が、しかし、そのいのちと光である神さまとの関係を断って歩み出した結果、全ての人が闇の中に捕らわれ、死と滅びに向かう存在となってしまったと聖書は語ります。まるで糸の切れた凧が風にあおられながら、やがて地面に叩きつけられるしばらくの時を空中でさまようように、罪の世にあって肉の欲と過ち、目的も希望も無く死と滅びへと落ちて行く歴史を、人類は歩んでいたのです。

この上なく愛された者

しかし神さまは、御自身が生み出し・創り出した存在である人間を、そのような闇の中で死と滅びに放置されることを良しとはされませんでした。4節以下に語られているように、神さまは御自身が創造された人間を「この上なく」愛されています。完全な愛である方から離れて歩む人類は、根源的な神の愛を失い、それゆえ、隣人への愛、また、自分自身への愛をも失う「死と滅び」に飲み込まれてしまうのです。交わりの神から断ち切られた罪の中において、人は、在るべき愛の交わりを結べない存在となってしまうのです。この「断絶」と「死と滅び」、「愛を失い・生み出せず・見出せない闇」の中に、大いなる光、まことの命であり愛である神御自身が、キリスト・イエスによる新しい命・復活のいのちを与えて下さいました。

行いによらず

人が自らの罪を悔い改めたからではなく、あらゆる行いや業によってではなく、私たちがまだ罪人であった時に、すでに神さまは私たちを愛し、赦し、復活のいのちを得させるために、御自身のいのちをもって私たちが支払うべき「いのちの身代わり」となって下さったのです(ローマ5:8)。それは何故でしょうか?ただ「この上なく神様が私を愛されている」からです。

救い

聖書を通して世に示された「救い」はここにあります。すなわち「神は御自身の愛によって人を創造され、愛の交わりの存在として人は生きる者とされる」という真理があり、しかし人は神との交わりを断ち切った結果、死と滅びの中に歩む者となったという歴史があり、その死と滅びから再びいのちの交わりへ結ぶため、イエス・キリストが人の罪の身代わりとなる裁き・十字架の死によるいのちの贖い・救いの道を完成されたのです。

混沌の波間から信仰の大地へ

何のために生まれたのか、何のために生きているのか、自分という存在は何者なのか、死んだらどうなってしまうのか……聖書は、その全てに答えを与えて下さいます。この救いの約束を信じ受け取る時、混沌とした罪の世にあって死と滅びに飲み込まれるままであった者を引き上げ、揺るぐことの無い信仰の大地にしっかりと足をつけて人生を歩み出す者に変えて下さる神様の御腕に抱かれるのです。

救いの確信から善き業へ

2コリント13章5節やヘブル3章14節で勧められているように、この「救いの確信」である「初めの愛」に常にとどまり続けましょう。死からいのちへ、闇から光へ、罪の支配から神の愛の交わりに結ばれたというこの「救い」の喜びによって「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいてわたしたちは、その善い業を行って歩む」日々へ進み出せるのです。行いや業によって救われるのではなく、救われた者であるからこそ、その喜びと確信によって、備えられた善い行いや善い業へとこの一週も共に歩み出しましょう。

 

8/27 「変えられるのは」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 11:1-18

<エルサレムにて>

10章から始まった異邦人コルネリウスたちがキリスト者となった出来事は、今日の箇所で終止符を打ちます。舞台はコルネリウスたちがバプテスマを受けたカイサリアから、エルサレムに移ります。「割礼を受けている者たち」というのは、特に律法に厳格に生きていた人々のことと思われますが、彼らからペトロは批判を受けます。

人々の批判は、ペトロが割礼を受けていない人々のところに行って、一緒に食事をした、ということでした。それに対して、ペトロはヤッファとカイサリアで起こったことを説明します。今日の聖書箇所の大部分は、ペトロがエルサレムの教会の人々に語った報告で、それは使徒言行録101からの出来事をほぼ正確になぞります。その中で、少しだけ違うところがあります。10章を読むと、コルネリウスはペトロが何を語るのかを分からないまま彼を呼んでいますが、11章でペトロがこの出来事を振り返った時には、これはコルネリウスが救いを求めていたのだ、とペトロは認識しています。ペトロは食事をすることを、救いの出来事と関連付けて考えているのです。

 

<これは救いのできごと>

異邦人と共に食事をすることは、異邦人の信仰する偶像に供えた物を食べる可能性もあります。ただ食事をするというだけでなく、同じ食卓に着くことは、その人々と立場を同じくするということをも意味します。イエスさまが徴税人たちと同じ食卓に着いていた時に、人々が非難したことを思い起こします。イエスさまは徴税人ザアカイの元に宿泊したとき(ルカ19章)「今日救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うためにきた」と言われました。宿泊したのだから、食事も共にしたことでしょう。ペトロたちがコルネリウスたちと一緒に食事をとったことは、救いの出来事と深くつながっているのです。

 幻を見せられた時に「清くない物、けがれた物は何一つ食べたことがない」と言っていたペトロ。コルネリウスの家に行ったとき「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」と言っていたペトロ。しかし先立って働く神によって、ペトロは変えられます。コルネリウスたちに聖霊が降るのを見た時を、「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のようなものが、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」と振り返るのです。

 

<変えられるのは>

ペトロの証しを聞き、彼を批判していた人々も変えられ、神を賛美するようになります。

私たちが支援しているウムチョ・ニャンザは、1994年に起こったルワンダでのジェノサイドの被害者女性たちと加害者を家族に持つ女性たちが、共同して和解と共生、生活の向上を目指している働きです。一緒に食べて、一緒に時を過ごし、一緒に同じ働きに励まし合うところに、和解と平和が訪れます。私たちの無関心や憎悪、嫌悪を乗り越えて、神が同じ賜物を注いでくださいます。結び付けてくださる神に、私たちは変えられていくのです。

自分の体験に基づいた言葉には力があります。まだ出会っていない保守的な人々をも変えていく力があるのです。神が私たちを変えてくださることを恐れず、期待して新たな歩みに踏み出しましょう。

 

 

8/20 「神が破る」 説教者/川内裕子 牧師

使徒言行録 10:34-48

10章の初めから引き続きの出来事です。神からの幻を繰り返し見せられ、神からの促しや、迎えにやってきた使いからの話を聞いても、ペトロはなかなかその幻を通して、神が何を伝えようとしているのかを理解することができません。わからないまま、彼はコルネリウスの家までやってくるのです。そこで、コルネリウスから、コルネリウスが神に祈っていた祈りが聞かれ、ペトロを主の言葉を聞くために招いたということを聞かされます。

コルネリウスの話を聞いて、ペトロは開口一番「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」と宣言します。ここに至って、初めてペトロは自分がコルネリウスの家に来た理由を、神が見せた幻の意味を理解するのです。自分は、ユダヤ人ではないコルネリウスに、イエスさまの福音を告げるために遣わされていたのだ、ということがわかるのです。ペトロはコルネリウスと、集まった人々に、イエスさまの福音を熱心に語ります。

実は、ペトロには、神が伝えようとしていることを理解するチャンスが何度も何度もありました。にもかかわらず、なかなかペトロが理解に至らなかったのはどういうことでしょうか。彼は、自分が異邦人の元に遣わされるとは思いもしなかったのではないでしょうか。ですから、神からの幻や、遣わされた人々の話を聞いても、神の示している意味が分からなかったのではないでしょうか。

 民全体にではなく、まず自分たち弟子たちに復活のイエスさまは現れた、それは自分たちが人々に対して、主イエスさまの復活の証人となるためだったと語り続けるペトロです。その話終わりも待ちかねるように、神はコルネリウスたちに聖霊を注ぎます。異邦人、とユダヤ人たちに呼ばれる人々が、聖霊を受け、さまざまな言語を話し、神を賛美し始めました。

 私たちが自分からは破れない隔てがあります。そのことに思い至らなかったり、気づきたくなかったりするかもしれません。しかしここで示されているのは、その隔ては、まず神の方から破ってくださるということです。隔てをなくし、私たちが出会う対象としてこなかった人々と出会うようにと促してくださる神の導きに、私たちは従っていくのみ、と考えます。

 

 

8/13 「イエスの家族とは?」 説教者/西島啓喜 執事

マルコによる福音書 3:31-35

1 家族の思い

 教会学校の青年・成人科ではこの4月からマルコによる福音書を学び始めました。古代の書物では、冒頭の言葉が題名としても使われたので、マルコはこの書物を、「福音の始まり」、あるいは、「メシアなるイエスの福音の始まり」、と呼んでほしかったことでしょう。今日の出来事から家族はどんな思いだったのでしょう。マルコ6:3では郷里では何かと良くない噂を立てられていたことがうかがえます。父親のヨセフが早くに亡くなっていたようで、イエスは長男として家族を支える立場にあったはずです。ところが突然、家を離れて伝道活動に身を投じた。家族としては、腹立たしいやら情けないやらで、一刻も早く自宅に連れ戻したい、そういう一心だったことでしょう。

2 群衆とは

 一方、イエスの評判を聞いて四方八方からやってきた群衆はどんな人たちでしょう。多くの人は病気を治してほしいという一心で、あるいはローマに対する反乱を起こすことを期待するテロリスト、エルサレムで「十字架につけよ」と叫んだ人もいたかもしれない。そのような人々に対してイエスは「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われます。それはなぜでしょう?ある説教者は34節の「座っている人々」という言葉に注目しました。座る、というのはラビの教えを聞く時の姿勢だといいます。座ってイエスの言葉を聞いていた群衆と、立って、自ら近づこうともしない家族、その対比が描かれていると思います。

3 福音とは

 ここに私の家族がいる、という言葉を聞いて、居場所を失った人たちはどんなにうれしかったことでしょう。これが、マルコが描こうとした「福音のはじまり」なのではないか、と思わされます。ご利益を求めてきたものも、裏切者も、テロリストも、イエスは何の区別もせず「私の家族」と呼びます。イエスのとてつもない包容力の大きさを思わされます。

4 「肉親の家族」か「神の家族」か

 イエスは「神の家族」が大切で「肉親の家族」を捨てたのか?私は「神の家族」に「肉親の家族」も含まれる、という解釈が良いのではないかと思います。マタイ5:43以下では、親しい人に挨拶する、親切にする、それは誰もがしていること。しかし、神の愛は、敵にすら、迫害するものにすら及ぶ、包容力の大きな愛だ、と言っています。クリスチャンの中村哲さんは、現地の人のためにイスラムのモスクや神学校を建てました。ミンダナオ子ども図書館で生活するクリスチャンの子どもたちは、「イスラムの子たちに礼拝するモスクを作ってあげて」と友さんに頼みました。中村哲さん、松居友さんの生き方には、異なるものが愛し合って生きるほうが豊かな社会を作っていけることを示しています。イエスの周りにいる群衆をみて「神の国」とはこのように大きなものだよ、と教えているようにも思います。

5 イエスの家族・その後

 うれしいことに、イエスの家族は初代教会の重要なメンバーになったと考えられています。1コリント15章で、パウロは、復活のイエスが12弟子に現れ、500人以上の人に現れ、次いでヤコブ(イエスの兄弟、次男)に現れた、と書いています。このヤコブは初代エルサレム教会の主要なメンバーになり、パウロとバルナバの異邦人伝道を擁護する演説をしています。ユダヤ人の歴史家は、ヤコブはその後、律法に違反したかどで告発され石打により殉教したと伝えています。イエスの肉親もまた神の家族に加えられたのです。肉親の家族か、神の家族か、そのような対立として今日の個所を読むのではなく、肉親の家族を超えて、すべての人を包み込む神の愛の大きさを学びたいと思います。

8/6「手のひらを合わせる」説教者/川内裕子牧師

使徒言行録 10:17~33

<神の先立ち>

イエスの弟子ユダヤ人ペトロと、彼からすると異邦人であるコルネリウスの出会いが語られます。それぞれがいる距離を隔て、ユダヤ人と異邦人の2人は、本来なら出会うはずのない関係です。その出会いは偶然ではなく、神さまからの必然であったことは、神さまが、双方に幻を示し働きかけてくださったことからわかります。律法では食べることをゆるされていないあらゆる食べ物を屠って食べなさい、神が清めたものだ、との幻の意味を理解できず考えあぐねているペトロに、神さまはコルネリウス側から手を伸ばさせ、積極的に介入します。

コルネリウスからの使いがペトロの宿泊している家の戸口に着いた時も、ペトロはまだ幻について考えこんでいましたが、神さまは迎えが来たから一緒に行けと、彼のお尻をたたきます。日本語訳では出てきませんが「さあさあ!」と促す言葉が使われています。

 使者たちに会ったときも、コルネリウスの家にやってきてからも、ペトロはなぜ自分を呼んだのかと尋ねています。ペトロにとっては、この訪問は自発的ではなく、全然積極的ではなく、むしろ出かけてからも、なぜ自分が呼ばれたのかな、何のためかな、自分は何をするのかなと考えています。

 

<殻を破るのはわたし>

なぜ自分がここに来たのかわからないペトロ。これは、コルネリウスのことを本来自分が出会うはずのない人、と考えているため、ペトロが考え及ばず、見えていないことがあるのではないでしょうか。

「ためらわないで」(20)という言葉に手がかりを見ます。別訳では「差別しないで」とあるように、差別する、区別する、疑うという意味があります。ペトロ自身が28節で言うように、律法の定める清さを犯す穢れが移ることを避けるため、ユダヤ人は外国人とは関わりを持たないというのです。そうすると、そもそもペトロは外国人と深くかかわっていくことを全然念頭に置いていなかったので、けがれた食べ物を食べる、ということが異邦人と関わっていくこと、イエス・キリストを伝えること、ということが理解できでいないということになります。

異邦人に対して、律法を守ること、割礼を受けること…救われるためにはこうしなければ…と異邦人に求めるユダヤ人。救われるためには、その人に何か資格が必要なのでしょうか。本当に求められているのは、ユダヤ人なのではないでしょうか。あなたの考え、生き方の殻を破りなさいと言われているのではないでしょうか。「差別しないでいきなさい」(20節別訳)は、あなたの殻を破りなさい。という神の促しだと思うのです。

 

<手のひらをあわせる>

ペトロは、理解できないまま、聖霊の先立ちに従って出かけました。うながされ、自分の殻を壊し、自分の枠からではなく、神の枠組みから見ることにしたのです。「なぜ招いてくれたの?」とわからないながらも手を伸ばします。自らが置いていた隔ての膜が、パチンと割れてお互いをはっきりと見、伸ばした手の平が互いに触れます。同様に神に促されて踏み出したコルネリウスと、互いに手のひらを合わせます。神さまの仲立ちによって、それぞれ引き出されてきた二人は、ここで出会いました。人間には、思いも及ばなかったことですが、神の引き合わせによって、出会いが生まれます。

 

私たちはそれぞれ、自分の思い込みや殻を破り、自分では出会うはずがなかったと思う人々との出会いの中に神のご計画を見出していきましょう。

 

7/30「贖(あがな)いの救い」 説教者/川内活也牧師

コリントの信徒への手紙2 5:14~19

帯広教会宣教開始60周年を覚える今年度、教会の信仰告白を改めて確認しつつ御言葉の分かち合いを進めています。今週は第4項目に挙げられている「救い」の告白に目を向けましょう。

御利益宗教心の「救い」

「救い」は聖書が証しする福音の中心テーマです。では「救い」とは一体何なのか?「救い」というものは「自分が困っている時に、その問題を解決し、助けてもらえること」と考えるのかも知れません。ですから「困った時の神頼み」ということわざもあるように「今は健康で経済も余裕があり対人関係も問題無しだから、何の助けも要りません。困った時は助けてね」という御利益宗教心というものが世の中には多く見られるのでしょう。しかし、聖書が語る「救い」とは、そうした御利益宗教心・人間の要望を満たすためのモノとは違います。確かに、病気で苦しい時にはその痛みや苦しみが無くなることを求めますし、経済的な困窮や対人関係での問題があればその問題が解決する事を求め、解決を得た時には「助けてもらった・救ってもらった」という喜びや感謝も生じます。でも、そのような「欲求や要望の満たし」は一時的なものです。次の病、次の困窮、次の問題に襲われた時には前回の喜びや感謝など全く意味を成さず、新たな苦しみの闇の中に道を見失ってしまうものです。

聖書の語る「救い」

聖書を通して私たちに示されている神の「救い」とはこのような一時的救済の業ではありません。先週まで見て来た帯広教会の信仰告白でも触れましたが、聖書の語る「救い」とは人の欲求を満たす一時的な避難ではなく、根源的な「永遠の救い」の業です。神の愛によって交わりの存在・愛の存在として創造された者でありながら神との断絶による「罪」に陥り、その「罪」に繋がれてしまった結果、人も全ての被造物も死と滅びに向かう存在となってしまいました。その「罪の性質」は人を互いに断絶させ、自分自身の心にさえ死と滅びを生み出し、悪の実を結ばせるのです。そのような「死と滅びに向かう存在」となってしまった人間を、しかし神は尚も「創造の時からの変わらぬ愛」をもって愛され続けます。永遠のいのちである神から離れた存在は、永遠の死と滅びに捕われました。その死と滅びに対し、神は三位一体であるその身を割かれ、御子キリストの命を人の罪の代価、死と滅びへ支払う命として差し出されたのです。罪無き御方が死に渡されることにより「贖い=罪に対する償い」を完了されたのです。死も滅びも、この「神御自身のいのち」を飲みつくすことは出来ませんでした。死と滅びは、その支払われたいのちを吐き出し、自らの敗北を認めたのです。キリストは十字架による贖いの死から三日目に復活されました。死と滅びはキリストのいのちを、そして、そのいのちを持つ者を飲み込むことが出来ないという敗北の宣言です。これこそがキリストによって与えられた永遠の贖いの救いなのです。

圧倒的勝利の「救い」

一時的な目の前の問題解決を「救い」とするのではなく、永遠のいのちである神との和解・交わりの回復によって得させられる「救い」は、あらゆる死と滅び、絶望の闇に打ち勝つ信仰と希望によって人にまことのいのちを得させるのです。

 世の旅路において訪れる様々な闇や恐れ、苦しみや悩みの日においても、常に私たちと共にいまして守り導きたもう方がおられることを信じる信仰を私たちは告白します。キリストの十字架による贖いによって与えられたこの「救い」は一時的な避難では無く、永遠に揺るぐことの無い神のいのちの家に住まう者としてのまことの平安へと私たちを結ばせる唯一の「救い」なのです。その信仰と希望の御救いの内に平安を得て、私たちは「日々の助け」をも祈り求める交わりを神と結び合わされているのです。キリストに在る新しいいのちを受けた約束を信じ告白しつつ、歩み続けましょう!

  だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。2コリント5:17

 

7/23「罪人(つみびと)」 説教者/川内活也牧師

ローマの信徒への手紙 8:18~28

存在認知

人(自分)は何ゆえに存在しているのか?古くから多くの人がこの疑問にぶつかり、答えを求めて歩んで来ました。「見えるものが存在していることの証明」はある意味「見れば分かるもの」です。しかし「それがなぜ存在しているのか」という「見えない答え」に対しては、理性や知性で理解出来る「回答」では限界があります。パウロは今日の箇所で「見えるものに対する希望は希望ではありません(24)と語ります。限界のある人間の理性や知性では無く、信仰による希望によって「人はなぜ存在しているのか」という答えを聖書は私たちに示しています。

神の御手による被造物

聖書は冒頭から「初めに神は天地を創造された」と宣言し、「人・世界はなぜ存在しているのか?」への回答を与えます。人も世界も全ての存在は神によって造られた「被造物」であるとの回答は、限界のある人間の理性や知性や科学では否定も肯定も出来ません。ただその宣言を信じ受け入れるか、信じずに受け入れないかという各人の選択に委ねられています。そして私たちはこの宣言を信じる信仰を希望をもって告白しています。

天地創造

創世記の1~2章を読むと、まるで子どもの誕生を待ち望む夫婦が、赤ちゃんが来る日を待ち望みつつ家を整えるように、神は先ず天地を創造し、環境を整え、動植物を造られた姿が記されています。そしてついに神は「人」を御自身の像(かたち)に似せて生み出されました。その時はじめて神は天地万物を「極めて良かった」と宣言されます。招詞で読んだ詩編8編4~5節でダビデは「神に顧みてもらえる人間という存在は一体何者なのでしょうか?」と畏怖の思いを込めて告白していますが、その答えもこの天地創造の出来事から知ることが出来ます。すなわち神は、御自身の愛すべき子・愛の交わりの存在として人を創り出されたからこそ、常に人に目を注がれるのです。

正しき応答者

人は神の本質である「愛」の存在として造られました。それは神や隣人との愛の交わりに生きるだけでなく、全ての被造物との愛の交わりに結ばれ歩む存在です。神は人に「全被造物を支配せよ」と命じられましたが、この「支配」とは暴君的独裁ではなく「仕える者・支え配慮する者」としての務めです。神に対し、隣人に対し、全ての被造物に対し、交わりに結ばれたこの愛の姿が「正しき応答者」として創造された人間本来の姿なのです。

罪人(つみびと)

しかし、今現在に到る人類の歴史を見る時、到底「正しき応答者」として人は歩んでいない姿を見ます。このギャップが生じた理由を聖書は「罪によって」と語ります(ローマ5:12など)。神との交わりに繋がれ・結ばれて「正しき応答者・正しき支配者」として歩む存在であった人が、神から断絶した結果、交わりという正しき愛の応答の務めに歩めなくなってしまっているのです。

霊はうめきをもって

聖書は罪の先に待つ死と滅びについて警告を与えています。それゆえに「霊」も「被造物」もうめきつつ、いのちへ結ばれる回復の日を待ち望んでいるのだとパウロは今日の箇所で語ります。神との断絶・罪の中に在って命を求めてうめきもがく私たちを、しかし神は顧みて下さるのです。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださっている」(8:26)のです。

深いうめきをもって執り成し、支え、導いて下さる主なる神との交わりに結ばれていることを覚えつつ、新しい一週へと歩み出しましょう。

 「あなたが、御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」詩編8:5

 

7/16「我らの神」 説教者/川内活也牧師

イザヤ書 45:18~25

今年度は帯広教会の信仰告白に沿って御言葉に聴いています。信仰告白の第一項目で「聖書こそ教会と個人の信仰生活にとって唯一の完全な基準」であると私たちは告白し、前回は「神」の項目を見る中で、ヘブル11章1~6節を通し「神がおられること(神存在)を信じる」ことが信仰の根幹であることを確認しました。では、その「存在される神」を私たちはどのような御方であると信じるのでしょうか?私たちの教会の信仰告白では大きく4つの告白を挙げています。「キリストにおいて啓示された神」「唯一の神」「天地の造り主であり全てを治める神」「父・子・聖霊の三位にして一体なる神」を信じるとの宣言です。

造り主なる唯一の神

聖書は人類史の中で人間が想像して作った「概念の神」ではなく、天地万物と人類を創られた主なる神を証ししています。そしてイザヤ書45章18節をはじめ、繰り返し「わたしは神、ほかにはいない」と宣言される主なる神の言葉を響かせます。それゆえ、主なる神さまを「西洋の神」とか「クリスチャンの神」という考えに対し、この聖書の証しを信じる告白者である私たちは、「そうではない」と宣言するのです。22節にあるように「全ての人々」に向かい、主なる神さまは招きの声はかけられているのです。

救い・愛・交わり

22節において神は「救いを得よ」と招かれます。その「救い」がイエス・キリストによって世に与えられました。ルターはヨハネ3章16節を「聖書の中の聖書」と表現しましたが、その言葉通りローマ5章8節にあるように神の愛はキリストの十字架において明らかに世に示されたのです。そもそも天地創造・人の創造とは神御自身が「神との交わりの存在=愛する子」を生み出された選びの業です。父・御子・聖霊の三位でありながら完全に一体である方・完全なる交わりの存在者である神と、私たちは1つに結ばれる交わりの存在として創造されたのです。ヨハネの手紙第一4章16節などで「神は愛」であると宣言されていますが、すなわち「愛」とは三位一体なる神御自身の本質である「完全なる交わり」の姿なのです。

「救い」は神との和解・交わり

その「完全なる交わり=愛」から離れた人類に対し、神は救いの御手を歴史の中に差し伸べられました。アブラハムの信仰を選び、彼の子孫となるイスラエルを「型」として選ばれ、イスラエルに与えられた「律法」の中に、動物犠牲として「和解のささげもの」を示されました。これは新改訳聖書では「交わりのいけにえ」と訳されています。誰との和解、誰との交わりでしょうか?それは天地の造り主・唯一の神との「和解・交わり」です。聖書の神は一貫して、御自身との「和解・交わり」へ立ち返るように語りかけています。創り主であり、いのちである方との交わりから断たれて歩む先には、死と滅びの道しか無いからです。

キリストによって

この「根源的な救いの業」として、神御自身が三位一体なるその身を割いても惜しむことなく、御子キリストを「和解のささげもの・交わりのいけにえ」として世に与えて下さったのです。その「死と滅び」から救い出すために、人間に代わって死と滅びに飲まれる犠牲のいのちとしてキリストが十字架の死に歩まれたのです。その歴史的な事実である聖書を信じる信仰、聖書が証しする唯一の神を信じる信仰において、私たちはいのちを得させる神との交わり・和解への道へ歩み出す道が開かれています。

「キリストにおいて啓示された神」「唯一の神」「天地の造り主であり全てを治める神」「父・子・聖霊の三位にして一体なる神」を信じる信仰を告白しつつ、主なる神との交わりに結ばれたいのちの日々を喜びとし、この一週へと歩み出しましょう。

 

地の果てのすべての人々よ。わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。イザヤ45:22

 

7/9「祝福の委託と恵み」 説教者/舛田栄一神学生

創世記 1:26~2:4

1.神の似姿として創られる

イスラエル周囲の大国、エジプトやメソポタミアの神話において、「神」に似た者とは、例外なく「王」に限られていた。他方、聖書の創世記は、「地上における一人一人、私も、あなたも、神に似せて創られている」と語る。そのような思想を古代エジプトやメソポタミアの文化・文明に見出すことはできない。ヘブライ語聖書と創世記に際立つ「人間観」-「私たちは神の姿に似せて創られた」ことを心に留めたい。

2.環境保護の立場からキリスト教社会に向けられた批判

1962年レイチェル・カーソンが自然界と人体への農薬の影響を調査、「沈黙の春」を出版する。日本では1950年代から「水俣病」が深刻化、1960年代には「四日市ぜんそく」が現れ、1967年に原油タンカー、トリーキャニオンが座礁、甚大な海洋汚染が英仏海峡に起きる。

そのような中、米国の歴史学者であり牧師家庭に育ったリン・ホワイトが、次のようにキリスト教社会を批判する。「自然破壊と環境汚染の原因は、近代の行き過ぎた産業の発達や、過度の自然開発に求められる。その背後には、人間生活の便利さと快適さのため自然を利用しつくしても構わない、そのような人間中心の発想がある。そうした発想は、人間を自然の支配者と位置付けた「旧約聖書の天地創造物語」の人間中心主義に由来しているのではないか。」

3.創世記から語り掛けとは?

「産めよ、増えよ、地に満ちよ、治めよ、支配せよ」のみ言葉は、人間中心主義を許すものであろうか? 実は、このような考えを抑制し、戒める聖書の御言葉として、詩編8篇がある。

「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます 月も、星も、あなたが配置なさったもの そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう 人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは」

この詩編8編を私達への語り掛けとして真摯に受けとめ、尊重するとき、私たちの中にある人間中心主義は小さくされていく。さらに創世記25節の「土を耕す」の原語は、へブル語の「耕す」ではなく、あえて「仕える」用語が選ばれている。この語は、文字通り仕えることであり、礼拝の語源でもあることに心を留めたい。

 

4.祝福と委託の恵み

世界の始まりは、神が発する「言葉」によって、良きものとして創られた。神は、私たちにこの良きものを与え、委ね、任せてくださるお方であり、祝福することを願っておられる。へブル語の「祝福」には、「膝をかがめる、仕える」の意味があり、私たちはイエス・キリストの十字架を通して、神の祝福を受ける者とされていることを覚えたい。神の助けと力をいただきながら、御言葉に生かされ、神からの委託をふさわしく治め、また神に似せて創られた人に仕えていく者として、歩ませていただきたい。

 

7/2「信仰の根幹」 説教者/川内活也牧師

ヘブライ人への手紙 11:1~6

はじめに

帯広教会創立60年を記念して歩む今年度は、帯広教会が宣言している信仰告白の項目に従い御言葉を分かち合っています。5月は序文と第一項の「聖書」に思いを向けましたが、今日は第二項にある「神」について目を向けたいと思います。

信仰告白とは

さて、信仰告白とは「神学研究発表」ではありません。聖書の御言葉を通して「ゆえに私はこのように信じます」と各自が宣言するものです。その宣言が「正しい」か「間違い」か、あるいは「分かっている」か「分かっていない」か等の尺度で他人からとやかく口出しされるものではなく、また他人に口出しするものでもありません。信仰告白とは聖書が証しする神に対し、自らの心からの思いを込めて宣言する「主への愛の告白」の言葉なのです。

乏しさを認め

今日、目を向けている「神」の項目においても「神の存在証明」を目的とする神学的研究発表の文章とはなっていません。聖書を通し「このような御方であることを信じます」という告白・宣言となっています。そもそも単純な話、神の「存在証明」を人間が出来るのだとすれば、神という存在は「人間の知識に収まる存在=人間以下の存在」となります。しかし、そのような御方では無い事を私たちは自らの「乏しさ」をもって告白するのです。ペットボトルに海水を入れて人に見せることは出来ても、海の全てを見せることは出来ないように、神の「存在証明」など成し得ないちっぽけな存在であることを認めることが大事です(詩編90:1,2)。その上で、そのようなちっぽけな存在である器であるにもかかわらず主なる神は恵みと愛を注いで下さったことを、信仰をもって告白し証しするのです。

信仰の根幹

今日は「信仰の根幹」というタイトルを掲げました。ヘブル書11章は「信仰」について証ししている箇所ですが、その中でも特に1節と6節に注目したいと思います。信仰の根幹は「神が存在しておられること」を信じることです。信仰とは目に見える形・人の知識に収まる形での「神の存在証明理解」ではなく、「神が存在しておられること」を認知する霊的な交わりを根幹とするものです。「神はいない」という信仰もあるでしょう。主なる神以外の超存在が居ると信じる信仰もあるでしょう。しかし私たちは「聖書が証しする神が存在しておられることを信じる」のです。これこそがキリスト教信仰の根幹です。

祈りこそ神存在の告白

時々、「自分は不信仰」だと嘆く方がおられます。自分の弱さや愚かさ、罪・汚れの性質に心を痛めての告白かも知れません。しかし、その事を後悔し祈る姿こそが信仰者の姿です。神がおられることを信じていない者に「祈り」は生まれません。祈りを聞いて下さる方がおられることを信じているからこそ、嘆きや悔い改め、また、喜びや感謝、求めるところを神との交わりである「祈り」の中に告白するのです。「祈り」は信仰の根幹である「神がおられること」を証しする信仰の告白なのです。

祈りこそ信仰の証し

主なる神がおられる事を信じる信仰こそがクリスチャンの信仰の根幹です。不信仰な者は祈ることが出来ません。神との交わりに結ばれていないからです。祈りは、神がおられることを信じ告白する行為です。ゆえに神は信仰に開かれた目をもって神との交わりに立つ者を喜んで迎え入れて下さるのです。

 

神がおられることを信じない者は祈りません。祈りを聞き・報いて下さる人格的な交わりの主がおられることを信じ告白しつつ、新たな1週も歩み続けましょう!

 

6/25「同じ命」 説教者/川内裕子牧師

使徒言行録 10:1~16

先週623日は、第二次世界大戦時1945年に沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。沖縄県では「慰霊の日」として戦没者追悼の記念日とされ、官公庁や学校もお休みで、追悼行事が行われます。激しい地上戦が行われ、約20万人が亡くなったと言われている沖縄です。女性連合でも「命どぅ宝の日」としてフィールドワークが行われています。しかしこの慰霊の日が他都道府県で沖縄県と同じような重さで取り扱われることはありません。でもこれは沖縄だけの問題なのでしょうか?自分とは関係ないこととしてよいことでしょうか?

 

カイサリアにいる100人隊長コルネリウスに、主の幻が現れました。神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた、一家そろって信仰を持っていたローマ人です。ユダヤ人にとっては「異邦人」でした。幻はヤッファにいるペトロを呼びに行けと告げます。

 一方ペトロにも幻が現れます。律法では食べることを禁じられているけがれたものとされる生き物が入った布が、目の前におりてきてほふってたべよと告げます。けがれたものは食べたことがないと反論するペトロに、神が清めたものを清くないと言ってはならないと幻は告げます。「食べない」ということは、自分の身の内には取り込まないということ。自分とはかかわりを持たないということにもつながると思います。

コルネリウスに対しても、ペトロに対しても手を伸ばしてくださる神です。出会いのための準備をしてくださっているのです。ペトロが対象としないものに対して、思いを向けるようにと促す主によって、自分に関係ないというわけではない、と今までの自分が壊される体験をするペトロです。

 

入管法(入管難民法改正案)が69日に国会で可決しました。改正ではなく改悪だと多くの反対が上がったにも関わらず成立し、1年後に施行されます。入管法には多くの問題がありますが、たとえば3回目以降の難民申請を認めず、強制送還が可能になるシステムです。そもそも日本の難民認定率は格段に低く0.5パーセント。(たとえばドイツは41.7パーセント)。不認定制度といってもよいくらいです。ミャンマーで拷問を受け、命の危険があって日本に逃れ、3回目の難民申請中のロヒンギャの男性のことを報道でみました。入管法改正が成立し、いつ強制送還になるかとおそれの中にあります。なぜ日本で生活することを認められないのでしょうか。帰ると命の危険があるという彼の訴えを、嘘とは思えません。ミャンマーでは619日、拘束されているアウンサンスー・チーさんの78歳の誕生日に、民主化を求める人たちがいつも彼女が髪に花を挿していたように花を飾って抵抗をあらわそう、という呼びかけが広がっていました。ミャンマーの人たちは花を飾ることは普通に、普段の生活で行われることです。しかしその日、花をもって歩いている女性を、銃を持った国軍の兵士たちが尋問し、トラックに載せて拘束する様子の映像を見ました。130人の女性が逮捕されたそうです。その映像を撮影拡散した人も16人逮捕され、3人は拷問が行われました。花を持っているだけで逮捕されてしまうとは、なんということでしょうか。礼拝ではいつも美しく花が飾られています。こんな当たり前のことが許されないことがある。帰ったら逮捕され、殺されてしまうという言葉には真理があると思います。帰りたくても、帰ると命の危険がある人たちが、ここにいたい、と日本を住む場所として希望していることを、どうして一緒に暮らしていこうとしないのでしょうか。

聖書では寄留人、孤児、寡婦の保護が繰り返し語られます。教会に集い、聖書の福音に触れているわたしたちこそが、一緒に生きていこうと祈り、歩みだす時ではないかと思います。

 

 

出会いを与えてくださるのは神さま。コルネリウスとペトロの二人には何が起こるか知らされていません。主によって拓かれる道、出会いの中に何が起こるか私たちにはわかりません。けれど、同じ命へと出会っていき、そこで起こることに期待していきましょう。同じ命を生きていきましょう。

6/18「わたしたちはこうして生きてきたの」 説教者/川内裕子牧師

使徒言行録 9:32~43

リダで8年間病気で寝たきりだったアイネアという男性を癒したペトロは、近くの町ヤッファから訪問依頼を受けます。一人の女弟子タビタが、病気で亡くなったのです。近くの町リダに使徒ペトロがいる、と聞いた人々は二人組で使いを出します。ギリシア語に忠実な別訳だと、「おいでくださることを躊躇なさいませんように(38節)」というとても丁寧な懇願です。亡くなってしまったタビタが、自分たちの群れにとって、かけがえのない人だから、ぜひとも来てほしい、とお願いしている様子がうかがえます。

彼女はたくさんの善い行いや施しをしていました。自分の財産を捧げて、人々のために用いて奉仕をしていたということです。具体的には「やもめたちはみなそばに寄ってきて、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」と書かれています。夫を亡くした女性たちは、当時にあっては、なかなか彼女たちが自立して生活していく場は難しく、保護が必要な人々です。その彼女たちがドルカスが生前作ってくれたのだと下着(シトン)や上着(ヒマティオン)を見せます。どちらも人々の生活に密着した、日々使う日常着です。1枚や2枚ではない、この衣服によって私たちの「衣食住」の衣が支えられていたのだと口々にペトロに語ります。この記述から、タビタは機織りをしてその布を衣服に完成させた織物職人だった、紡ぎ仕事と針仕事で生計を立てていた職人だと考えられます。後ろ盾のない夫を亡くした女性たちを支えていた女性だとわかります。

私は、タビタがやもめたちにしたことは、衣服を作ったことだけではないと思います。やもめたちが見せた衣服は、彼女たちとタビタがどのように生きてきたかの「しるし」をあらわしているのではないでしょうか。

人の生活の基本を衣食住、と言います。彼女たちは一緒にご飯を食べ、共に住み、生活を支え合っていたのではないでしょうか。タビタに作ってもらった衣服をペトロに見せて彼女たちが訴えていたことは、わたしたちはこうやって生きていたの、互いに、かけがえのない存在として助け合い、支え合って一緒に生きていたの、タビタは私たちにとってかけがえのない人なのという、生活の証しだと思います。

コロナ状況下にあって、生活に困窮しておられる人々が増えてきたことを受け、お隣の釧路教会では月に一度「分かち合い釧路」を開催しています。地域の方々や店舗からささげられた品物や献金を用いて食品を主体として無料配布をしています。この働きで人々が受け取っているのは、食べ物だけでしょうか。一緒に生きていこうよ、という意志も共に、ではないでしょうか。

 

宣教が開始して60年を数える帯広教会です。帯広教会に連なる一人ひとりが、これまでどのように地域の方々と生きてきたかを、地域の方々からよく伺います。帯広教会の今年度の主題聖句は「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。(コリントの信徒への手紙二 9:11)」、テーマは「仕える喜び」です。惜しまず施し、それによって神の愛をお伝えし、これからも出会う方々に仕えていきましょう。つながるかたがたと、一緒に生きていこうよ、わたしたちはこうやって生きてきたの、と証ししながら。

6/11「変わらないもの」 説教者/川内裕子牧師

使徒言行録 9:19後半~31

<生かす者へと>

イエスを信じる信仰を、危険なものとみなして、信じる者たちを迫害しようとしてダマスコに出かけたサウロは、イエスとの出会いによって生き方が全く変えられました。そのサウロが始めたことは、ダマスコのあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」とイエスのことを宣べ伝えることでした。奪う者、殺す者から生かす者、与える者へとサウロは変えられたのでした。

 

<変化の受け止め>

サウロのこのような変化は、周りの人々に混乱をもたらしました。三つの立場を見ることができます。一つはサウロはイエスを信じる者となった裏切り者、と考えるユダヤ人たちです。以前のサウロと同様にイエスを信じる者を迫害する人たちで。サウロの熱心さを知るがゆえに、余計にサウロに対する反感が大きかったと考えられます。彼らは、サウロの命を狙うようになります。

また、イエスを信じる人々は、以前の迫害者サウロがイエスを信じる者となったことを信じられず、彼を恐れます。何かのわなかと思ったかもしれません。

一方で、サウロはイエスを信じる者へと本当に変えられたのだ、と信じる人々がいました。この人々は、ダマスコでサウロの命を狙うユダヤ人たちから守って逃がします。またエルサレムではバルナバが積極的にサウロを支援し、人々とサウロをつなぐ役割を果たしました。そのため、エルサレムにおいてもサウロをイエスを信じる者と受け入れる人々が増えていきます。サウロへの迫害が迫るとき、そのような人々によって、サウロはまた他の土地へと逃れさせられ、結果として派遣されていくのです。

何を信じればよいのか、サウロの変化によって、人々もまた自分の信じることを問われるのです。

 

<変わらないもの>

サウロがダマスコから逃れたとき、かごに載せてつり降ろされたとあります。このかごには、スピュリスというギリシャ語が使われていて、葦の繊維などで作った、大きな柔らかくて丈夫なかご、どちらかというと袋と言ってよいようなものです。普段は食べ物などを入れるものとして用いられます。聖書の中ではマタイ福音書やマルコ福音書で4000人の人々にパンと魚を分けたとき、残ったパンをかごに集めたと書かれている、その時に用いられているかごと同じ言葉です。

集められたパンの残りは、イエス様が命の言葉で人を生かすことを教えられたことを思い起こさせます。サウロも同じ大籠に入れて釣り降ろされ、逃がされました。サウロの語る言葉が人を生かす命を伝えるものであったことに重なっていきます。サウロのかごは、この言葉はもう人を殺すものではなく、生かす者である、と信じた人々によって釣り降ろされました。自らの足で、意気揚々とダマスコに向かっていたサウロは、今や、人々の手を借り、もののように袋に入れて、自分では何もできない状態で次の土地へと遣わされていきます。ここに、聖書に名も残されない、多くの人々の小さな働きの積み重ねがありました。1人の小さな手で出来る事は限られていますが、救い主イエスを頭として教会に集められた11人が力を合わせたときに、福音の恵みを知らせる大きな働きが出来るのです。

人々は変わります。けれど、私たちは変わらないもの、命を生かすイエスの福音を信じることへと招かれ、伝えるものへと遣わされていきます。「変わらないもの」に対してどんな態度をとるか、私たちには選ぶことができます。

命の言葉を袋に入れ、解き放ってゆくものへと遣わされていきましょう。

6/4「手引き受けて」 説教者/川内裕子牧師

使徒言行録 9:1~19前半

<サウロに出会われるイエス>

ステファノの処刑に積極的に賛同し、エルサレムのクリスチャンたちを迫害していたサウロ/パウロが、再び登場します。今度はエルサレムよりもっと北、古くからある、交通の要所ダマスコに彼は向かいます。イエスさまを信じる人々を迫害するために大祭司の手紙を求めるあたりに、彼の本気度が伝わります。サウロはファリサイ派のガマリエルのもとで律法を厳しく学び、熱心に神に仕えていた人です。だからこそ、人々の語るイエスの教えは危険、と考えました。迫害は彼の信仰の熱心から来るものでした。

ダマスコへの途上、サウロは天からの光に照らされ「なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きます。圧倒的な光の力に押し倒され、起き上がって目を開けてもくらんだように何も見えない状態の中、「あなたは誰?!」とサウロは問います。すると「私はあなたが迫害しているイエスだ」とイエスさまの自己開示がありました。

イエスさまを信じる人々を迫害しようとダマスコに向かっていたサウロを、イエスさまはそのままダマスコに遣わします。しかしそこで彼が「なすべきこと」は直接知らされません。自らの使命感で人々を傷つけ、殺そうとしていた場に、違う目的で彼を遣わすイエスさまです。

 

<アナニアに出会われるイエス>

その目的はサウロにではなく、ダマスコに住んでいたアナニアという弟子に示されました。主はアナニアにサウロに手を置いて祈れと言い、サウロはイエスご自身を人々に伝えるために立てた器だと語ります。

アナニアにとって、主の派遣は葛藤がありました。正直にその葛藤をさらけ出したアナニアは、サウロに対する、主のビジョンを示されて、自身の脅威と恐怖に抗って主の派遣に従います。脅威であったサウロに「兄弟サウル」と呼びかけ、祈るのです。

その結果、サウロは目が開け、バプテスマを受けて力を取り戻します。その心と体の充実は、イエスを信じる者の迫害ではなく、「兄弟」と呼びかけられ、共に生きる者として招き入れられた群れで生きることに用いられ、今まで迫害していたイエスを人々に告げ知らせることに用いられるようになりました。

 

<手引き受けて>

イエスを信じる者への迫害を目標にダマスコに急いでいたサウロは、その熱心を押し返す圧倒的なイエスの光によって、歩むべき道を失います。何をすべきかも具体的に示されないまま、同行していた人々に手引きされてダマスコの町に入ってゆきます。

サウロの目を開き、その働きを示すカギを握っているのはアナニアでした。サウロに対して持っていた恐怖や憎しみを、主の言葉に信頼することでアナニア自身が乗り越えることで、サウロの目は開かれ、イエスを伝える者としての新しい生き方が開かれていきました。それはサウロに対する、アナニアの手引きでした。

前任地にいたとき、はじめて礼拝に見えた高齢の男性が、バプテスマを受けてクリスチャンになりたい、とおっしゃいました。長い間絶縁状態だったお子さんから突然連絡があり、あたたかいいたわりを示してこられたとのこと。何事が起ったのか驚いたところ、お子さんが教会に通い、イエスさまを信じてクリスチャンとなり、これまでの生き方が変えられたことが分かったそうです。お子さんをそのように180度変えた神さまは本物に違いないと確信し、ご自分も同じ信仰に入りたいと決意が与えられたそうです。この方もまたこれまでの生き方をがらりと変えられました。イエスさまに出会ったお子さんの生き方が、彼の手引きとなったのです。

 

人と人との出会いの中で、互いに手引きし導くものとして私たちは遣わされていきます。そしてなによりも、主ご自身が、サウロに出会い、アナニアに出会ってくださったように、私たちを手引きしてくださるのです。主の導きに期待し、私たちが共に手引き受け、遣わされるものとして用いられることに期待してゆきましょう。

 

5/28「愛の羅針盤」 説教者/川内活也牧師

ローマの信徒への手紙 5:6~11

ペンテコステ

今日はペンテコステ記念日です。イエスさまの十字架の死と三日目の復活が起こった「過越しの祭り」から50日後、使徒言行録2章に記されているように「新たな助け手なる聖霊」が弟子たちに降りました。この聖霊降臨の時を「教会の誕生の時」として記念しています。

不思議な書物

今日は、先週に引き続き帯広教会の信仰告白から「聖書」の項目について見て行きましょう。普通、1つの書物というものは1人の著者がその存命中に書き記すモノです。しかし聖書は創世記から黙示録まで66の書物を、約40人の方がおよそ1500年の時をかけて書き記しました。これだけの期間と執筆者が何の打合せも無く書かれた諸書であるなら、普通に考えれば到底「1つの書物」にはまとめられないものです。それにもかかわらず聖書は「一貫したテーマ」によって1つとされた不思議な書物と言えます。

真の執筆者

教会の信仰の告白でも「聖書は聖霊の働きによって書かれたもの」と宣言し、また、その宣言の土台として、先週も開いた第二テモテ3:16において「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」たものなのだと知らされています。執筆に用いられたのは約40人の執筆者ですが、彼らに1つのテーマ・方向性・真理を知らせ、書き記させたのは唯一の主なる神さま御自身なのです。

聖書のテーマ

さて、ではこの聖書が示す一貫した1つのテーマとはなんでしょうか?それは「神の愛」です。聖書は神さまが与えられた「愛の羅針盤」なのです。1500年の時をかけ、40人の執筆者の手を通し、66巻という書をもって1つとされる聖書は「神の愛」を指し示しているのです。

愛の羅針盤

羅針盤・コンパスの針を北に合わせることで方位を確かめることが出来るように、聖書は「神の愛」に思いを合わせて読むことで、初めて「教会と個人の信仰生活にとって唯一の完全な基準」という羅針盤となるのです。ヨハネによる福音書5章39節で、イエスさまは「聖書はわたしを証しするもの」であると宣言されています。聖書は全て、御子キリストに向かう証しなのです。その御子キリストを通し、人類に何が与えられたでしょうか?ロマ書5章6節~8節において、御子キリストの十字架の業、死と滅びに向かう全ての罪を、私たちに代わりその身に負って下さったのは何のためであったのか記されています。それは、御子を通して神が私たちに対する御自身の愛を示されるためだったのです。

主の愛に思いを合わせ

私たちが聖書の差し示す神の愛を信じ、その愛ゆえに与えられた御言葉に心の羅針盤を合わせる時に、聖書の御言葉は私たちの道を照らす愛の灯火として輝くのです。その時、聖書は「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」であり、また、「福音の真理を明らかにする唯一の書」であり「個人の信仰生活にとって唯一の完全な基準」となるのです。

 

あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。詩編119105

 

5/21「救いに導く知恵」 説教者/川内活也牧師

テモテへの手紙二 3:12~17

信仰を見つめ直す

今年度の礼拝説教は「帯広バプテスト・キリスト教会 信仰告白」の項目に沿って、「私は何を信じているのか?」という信仰を見つめ直していく事をテーマに準備しています。先週は「序文」の項目でしたが、今日は「聖書」の項目に目を向けましょう。

聖書 

聖書は聖霊の働きによって書かれたものであり、福音の真理を明らかにしている唯一の書であることを信じます。聖書は主イエスが永遠の神の子キリストであることを証し、神の人類救済の聖旨を示すものであることを信じます。従って聖書こそ教会と個人の信仰生活にとって唯一の完全な基準であることを信じます。

唯一の霊的規範である「聖書」

帯広教会では前述のように「聖書とはどのようなものであるのか」という理解・信仰を告白しています。今日の箇所ではパウロが愛弟子のテモテに「聖書とはいかなるものか?」を説いています。この時代の「聖書」とはモーセ五書を初めとする旧約聖書のことを指していますが、こんにち私たちは旧約39巻と新約27巻の合わせて66巻から成る「聖書」を与えられています。ですから、ここでパウロが「旧約聖書」のことを指して語っていたとしても、こんにちの私たち信仰者は旧新両訳で1つとされた「この聖書」を、生ける神の御言葉と信じ受け取り、唯一の霊的規範であると告白しているのです。

救いに導く知恵

本日の説教題である「救いに導く知恵」は、15節の聖句からそのまま抜き出したものです。「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」であり、また、「福音の真理を明らかにする唯一の書」であり「個人の信仰生活にとって唯一の完全な基準」が聖書なのです。

霊的いのちの糧

「聖書の御言葉」はクリスチャンにとって唯一の「霊的ないのちの糧」として与えられているものです。肉の身体において様々な栄養を食物から得て健康を保つように、霊的に健康で健全な日々を歩むための「糧」が聖書の御言葉なのです。絶食が続けばやがて死に至るように、聖書の御言葉から離れて歩むなら「霊的な死」に至ります。とは言えこれは「毎日聖書を読む」という「行為」だけに限定されず、心の内に蓄えられている御言葉に思いを向けることでも得られる「糧」なのです。

信仰を通して

今日の箇所で、ある意味最も重要なポイントは15節にある「救いに導く知恵」の直前の一文にあります。つまり「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して」初めて救いに導く知恵となり「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」な霊的糧となるという真理です。聖書は誰でも「読む」ことは出来ます。それがたとえ聖書の約束を疑い、否定し、信じず、人を惑わす教えに用いる者であったとしても「読む」ことは出来るのです。しかしそれでは約束されている「救いへ導く知恵・いのちの糧」とはなりません。聖書は「信仰をもって」その御言葉を語られる主なる神さまに思いを向けて受け取る時に、私たちの魂を活かす「霊的な糧」となり、救いに導く知恵を得させる力となるのです。

 

わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。詩編130編6節

 

5/14「信仰を告白しつつ」 説教者/川内活也牧師

ペトロの手紙一 3:13~18

宣教開始60周年

帯広教会は今年で宣教開始60周年を迎えます。1963年に初代牧師である齊藤正人先生が着任され、まだ会堂も土地も無い状態からの開拓伝道が始められてから60年です。日本文化的に考えると、60年というのは一つの節目を思わされます。いわゆる「還暦の年」ですね。ある意味で「節目」となる今年度の御言葉の分かち合いについて、方向性を祈り求める中、今年度は「初心回帰」の思いをもって「教会の信仰告白」に沿った御言葉の分かち合いを示されています。

信仰告白

さて、バプテストというグループは「信仰告白・信仰の宣言」というものを特に重視するグループです。バプテスマを受けてクリスチャンとなる時に、各自の「信仰告白」を公に言い表しますが、教会も「私たちの教会は何を信じる教会なのか」という「信仰告白」を宣言しています。教会はこの「信仰告白」に根差している信仰共同体なのです。

帯広教会の信仰告白

しかし帯広教会の信仰告白には、その序文に特徴的な表現が記されています。「何人の信仰も制限(せいげん)することなく、証(あかし)と励(はげ)ましとしてこれを宣言(せんげん)します」という一文です。つまり、帯広教会の信仰告白は、これに同意を求める「従わなければならない信仰の基準」ではなく、あくまでも「証しと励ましの宣言」なのだという文言です。全員が同じ信仰告白に立つ「信仰の一致」ではなく、それぞれに与えられている福音の喜びを携え集う「御霊による一致」を求める教会形成の姿勢が、この序文の中に宣言されているのではないでしょうか。

証しに備える

今日お読みしましたペテロの手紙第一3章の15節では「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」と勧められています。その「備え」の1つが「信仰告白」です。但しこの「備え」とは、教会の信仰告白や目標宣言、また、多くの教会が用いている「使徒信条」を丸暗記するというものではありません。自分に与えられている福音の証しを日々確かな土台とすることが大事なのです。

日々のディボーション

この「備え」はどのように整えられるものでしょうか?それは日々のディボーション、つまり、日々聖書の御言葉に聴き、主なる神さまとの祈りの交わりを結ぶことです。その上で、日常の生活におけるあらゆる出会いや出来事をただ漫然と過ごすのではなく、「聖書には何と書いてあるか?」「この判断・この言動を神さまは喜ばれるだろうか?」と自らの内に問い直し、祈り、また御言葉に聴くことで整えられて行くのです。

世の基準を離れ

世の旅路を歩む中で、私たちは人々を恐れ・心を乱し「世の基準」に従って歩むことが多々あります。しかし、気を付けなければなりません。「世の基準」が全て、神の御前に「正しい基準」では無いという真理を忘れてはならないのです。何ゆえに自分は「世の基準」に歩む日々から、キリスト者として歩み出したのか?世の中の様々な出来事に対し、「わたしに与えられた神さまの福音は、どのように向き合いなさいと勧められているだろうか?」。そうした一つ一つのことがらを「わたしの受けた福音・与えられている聖書の御言葉」を通して自分自身の信仰の告白として証ししつつ、新たなこの一週、委ねられている日々へ歩み出していきましょう。

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。詩編1032

 

5/7「仕える喜び」 説教者/川内活也牧師

コリントの信徒への手紙二 9:6~12

エルサレム教会の困窮

今日の箇所はパウロがコリントの教会に宛てた「エルサレム教会支援の勧め」です。ペンテコステと初代教会のリバイバルがエルサレム・ユダヤに起こった後、ユダヤ教指導者らによる教会への迫害も激しくなって来ました。そのため、多くのユダヤ人クリスチャンはエルサレムを離れユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで福音を宣べ伝えて行く事になります。しかし、全てのクリスチャンがエルサレムを離れたのではありません。迫害の中に在っても、その地に留まり福音を宣べ伝える「エルサレム教会」は残っていました。母教会のような存在であるエルサレム教会とそこに集う兄弟姉妹が、迫害や飢饉(使徒11:8)の中で困窮している現状にパウロたちは心を痛め、救援のための呼びかけを各地の教会に訴えていたのです。

スチュワードシップ

今年度、帯広教会は今日お読みした2コリント9章11節を主題聖句とし、「仕える喜び」という教会テーマを掲げました。先に見たように、聖書本文では支援金・献金を念頭にパウロが書き送った内容ですが、この箇所はスチュワードシップの原則を語っています。スチュワードシップとは一般的に「財産管理を任された者の責務・責任」ですが、教会では招詞(1ペテロ4:10)のように「神さまから委ねられている恵みを用いる信仰者の応答」を表わす意味で用いられる言葉です。

奉仕の原則

7節で「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」と勧められています。義務や責任・特権意識や優越感・自己満足を根源とする奉仕・スチュワードシップからは、疲れや怒り・悲しみ・争いが生じます。その働きに「真の喜び」が伴っていないからです。

仕える喜び

では私たちが真の喜びに満たされて主に仕え、委ねられている恵みを「善い管理者」として用いるためには何が必要なのでしょうか?9節でパウロが引用している詩編11267節の中にその答えがあります。「人を見る」のではなく「固く主に信頼する」ことにおいて、揺らぐことの無い真の喜びをもって奉仕の業に歩むことが出来るのです。人を見る働きは人からの評価を求めます。そして、自分の願う評価が得られないと疲れや怒り・悲しみ・争いを生じさせてしまうのです。しかし「固く主に信頼する」働きはそうなりません。なぜなら主なる神さまは私たちを常に正しく評価して下さっていることを知っているからです。

受け手であり与え手

さて「与える側」としての姿勢だけでなく、私たちは「受け手」としての姿勢も大事です。「(神からの恵みを)ただで受けたのだからただで与えよ(マタイ10:8)」と勧められているように、私たちは「受ける者」であり「与える者」です。どちらか一方だけではありません。「憐れみ・ほどこすのは好きだが、憐れまれ・ほどこされるのは嫌いだ」とか、逆に「自分は困窮してるのだから周りが支えるべきだ」という傲慢は、どちらも主の目に悪とされます。何よりも第一に、私たちは十字架の贖いという「神からの恵みを受けた者」であることを忘れてはならないのです。神の愛を受けたという揺ぎ無い土台に立つからこそ、その受けた恵みを分かち合う信仰の応答が喜びの内に生じるのです。

愛の応答

与える時にも受ける時にも、何を成すにも「人に対してでなく神に対するように(コロサイ3:23)」行うなら、それは愛の応答として表されます。受けた恵みへの感謝をもって、委ねられている恵みの正しい管理者として分かち合う時に、無人格な服従の業ではない人格的な交わりとして「互いに仕え合う喜び」が教会の中に、家庭に、職場や学校、生活の全領域に広げられて行くのです。

 

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。第一ペテロ4章10節

 

4/30「献身者ってだれのこと?」 説教者/西島啓喜執事 ローマの信徒への手紙6:10-14、12:1-2

1 「献身者」とは?
 多くの人は「献身者」とは牧師なり、神学生を想像すると思います。しかし、今朝はあえて、「献身者」とは牧師、伝道者だけなのだろうか、と問いたい。アメリカの日本人教会のある牧師がコロナ下で少人数の集まりを計画したとき『家庭を開放することに「献身」する人はいませんか?』と呼びかけました。「献身」ということはもっと広い意味で、身近なことではないか、牧師、伝道者への献身も信徒の献身の延長上にあると考えたい。連盟では「これからの伝道者養成の理念」という提言を2月の総会で採択しました。その大前提は①全ての教会員が伝道者である、②伝道者を生み出す主体は教会である、ということです。17世紀にバプテスト教会が成立した時、指導者のほとんどは神学校を出ていない 信徒たちでした。 バプテスト教会は本来信徒の献身によって成り立ってきた教会です。教会が牧師を立て、神学者を立ててきました。牧師が不足して困っている状況は本来のバプテスト教会の姿を取り戻すいいチャンスではないかと思っています。
2 
聖書の語る「献身」

 聖書に「献身」という言葉はありません。近い言葉は「献げる」です。ローマ6:13に「自分自身を・・・神に献げなさい。」と勧められています。また12:1にも「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と「献身」が勧められています。詩編の作者は51編で、神が喜ばれるのは、形式的な捧げ物ではなく、へりくだった心を伴った自分自身を捧げることだ、と詠います。1コリント12章ではキリストの体である教会が様々な賜物を持った人の献身で成り立つ様子が美しく表現されています。
3 私たちの「献身」
 私たちの生活はいろいろな人の献身に支えられています。働くことで社会や他の人に貢献します。家庭もお互いの献身で成り立っています。地域の共同体も誰かの献身があって、助け合う、清潔で安心できる共同体が成り立っています。
 教会も多くの奉仕(献身)によって成り立っています。礼拝に集うことで時間を捧げ、献金で自分の富を捧げ、様々な役割で賜物を神に捧げています。自分の献身によって他の人が生かされていく、それが自分の喜びであり、神の喜ばれることであると信じて「献身」しています。
 帯広教会の今年度のテーマは「仕える喜び」です。お互いの「献身」を喜びつつ、心を一つにして、キリストの体である教会を立て上げていきたいと思います。
 

4/23 「妨げなし」 説教者 川内裕子 牧師 使徒言行録8章26節-40節

エルサレムで起こった大迫害によって、サマリアで伝道していたフィリポは、ガザに行くようにと、主の天使に示されます。サマリアはエルサレムより北の方にあるので、ガザに下るには迫害の危険のあるエルサレムに南下し、さらにそこから海沿いに向かって南下する道をたどります。遠く寂しい道を、フィリポは神さまからの指示にすぐに従って出発します。そこにはあるエチオピア人との出会いが準備されていました。

ここでのエチオピアは、現在のエチオピアよりもう少し西、現在のスーダンのあたりといわれています。スーダンでは現在、軍と準軍事組織RSFとの激しい軍事衝突が起こっています。報道で、人々が攻撃に巻き込まれて住んでいる場所から逃げざるを得なくなったり、食べるものに事欠いたりしている様子を見聞きします。人道支援が断たれ、身一つで逃げておられる人たちを、多くのものに囲まれた安全な部屋でテレビの画面越しでいたたまれない思いで見ています。

フィリポの出会ったエチオピア人について、聖書はエチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官だと説明しています。エチオピアにおいて、女王の全財産の管理を任されるほどの信頼を置かれている人物だということです。宦官は去勢された役人のことを言い、自らの身をささげて、女王に仕えていた人物だということです。

彼は、エジプトよりも更に南、イスラエルにとっては地の果てからエルサレムまで礼拝にやってきました。神を畏れる異邦人だったのです。けれど、異邦人である彼は異邦人の庭までしか入ることはできず、申命記にも記されているように、宦官である彼は主の会衆に加わることはできない、救いのうちには入れられないと考えられていました。

救いを求め、解決されない悩みをもって彼は礼拝後、再びエチオピアに向かいます。読んでいたのはイザヤ書53章、いわゆる苦難の僕の詩と言われている箇所です。彼に声をかけたフィリポは乞われてそばに座り、聖書を解き明かします。

この聖書の箇所は誰について言われていることなのだろうと宦官は不思議に思います。宦官であり、子孫を残すことはないという立場の彼にとって「誰がその子孫について…」という聖書の箇所は、「ああ、ここに…自分のことが記されている…」という思いだったことだと思います。フィリポは羊のようにほふりばに引かれていったイエスについて語り、その時宦官の眼は開かれます。水場を前にここでバプテスマを受けるのに、何の妨げがあるだろうか、とバプテスマを求めます。ここに自分の孤独に目を注ぎ、共に下って十字架にかかってくださった方がいる。この方を信じる、という決断が与えられたのです。妨げられてばかりだった彼が、「妨げなし!」と知らされた瞬間でした。

主は初めからこの人を探し、妨げをかき分けるようにピンポイントでこの人に向かったのです。フィリポへの指示はここを立って南に行けとのことで、見つけた馬車を追いかけていくよう指示し、バプテスマの後は彼は別の場所に連れ去られました。まさに宦官一人の救いのために、主はフィリポを遣わしたのです。

スーダンで、着の身着のままで逃げている人々に宦官の姿が重なります。また、ままならないことが続き、神は見放しているのではと打ちひしがれる人々とこの姿は重なります。神はそれらの人々の嘆き、涙のひとつひとつを数えています。神の革袋は涙袋となるのです。

 

ピンポイントで、妨げをかき分けて私たちを探し出し、問題ない、妨げなし!と宣言して近づいてくださる主に応答して、共に歩みましょう。

4/16 「与えられるもの」 説教者 川内裕子 牧師 使徒言行録8章4節-25節

<伝え続ける>

ステファノが石打ちの刑で殺されたことをきっかけに起こった、大迫害。亡くなったステファノと今日登場するフィリポは使徒6章に登場します。彼らはギリシア語を主言語とするユダヤ人たちが、ヘブライ語を主言語とするユダヤ人に不平等な扱いを受けている、という声が上がったことから、ギリシア語を主言語とするユダヤ人たちのリーダーとして選ばれた7人のうちのメンバーでした。

「大迫害」が起こり、散らされていった彼らは、黙らされたわけではありませんでした。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。ステファノが、死の間際まで、キリストを伝えたように、散らされていった人々も、その先々でキリストの福音を伝えました。使徒たちが行っていた、キリストの福音を伝え、癒しの業を行う、ということと同じことが起こっていたのです。フィリポの伝道は、サマリアの町の人たちに喜んで受け入れられます。人々はイエス・キリストの福音を聞き、多くの人々がバプテスマを受けました。

その中でシモンという人物が登場します。サマリアに住み、魔術を行って人々に偉大な人物と言われていた人です。しかし、このシモンもフィリポと出会い、イエスさまの福音を受け入れてバプテスマを受けて、いつもフィリポのそばにいました。偉大な人物、と自称していたシモンが、イエス・キリストの権威に従う。それほど大きく人を動かす福音だったことがわかります。

 

<与えられるもの>

サマリアでの伝道の様子を聞き、エルサレムからペトロとヨハネがやってきて、人々が聖霊を受けるようにと祈り、人々は聖霊を受けます。使徒2章のペンテコステの出来事と同様、人々はおそらく多くのいろんな地の言葉で、福音を語るようになったと思われます。先ほどのシモンは、その異言を語る霊を、お金で買おうと考えました。お金を持ってきて、その力を授けてほしいとペトロとヨハネに求めますが、神の賜物は金で手に入れられるものではないと反論されます。

聖霊は、神から与えられるものなのです。私たちはそれぞれ、神の恵みを理解し、人々に伝える術を神から頂いています。聖霊はイエス・キリストの福音を、私たちのうちに自分のこととして暖かく血の通った神の愛として理解できるようにしてくださる神の働きです。そして、その福音の喜びを、つながる人々に伝えていこうとする働きです。その言葉と術を、聖霊は私たちに与えてくださるのです。神は私たち一人ひとりにふさわしく聖霊の賜物を与えてくださいます。

週に一度、オンラインでミャンマーから日本に来ているカチン民族の女性と日本語講座をしています。彼女は、カチン民族の方々が多く集う教会で、小さな子どもたちからユースまでの子どもたちを教会学校で教えています。日本で生まれ日本語で育ってきた子どもたちに、彼女自身はカチン語で聖書を教えます。成人してから日本に来た彼女は、カチン語が得手ではない子どもたちに、より深くカチン語で信仰を伝えるために、日本語を勉強しているのです。彼女と話すたびに、自分が救われ、神に愛されていることが分かった、その恵みを、大事な子どもたちにも全部伝えたい、という喜びが伝わってきます。求めたら神は与えてくださるのではないでしょうか。カチン民族の彼女が同じ民族の子どもたちに、その心に届くように語るために求めている日本語で信仰を語ること、これも聖霊によるものです。

私を愛してくださり、救ってくださったこの喜びを、大切なあなたに伝えたい。その切実な祈りに応えて、神は私たち一人ひとりにふさわしく聖霊を注いで働きへと召し出してくださるのです。救われた喜びを分かち合う隣人と共に今週も歩めますように。

 

 

 

 

4/9 「石は転がされた」 説教者 川内裕子 牧師 ルカによる福音書24章1節-12節

<近づく決意の萌芽>

イースターおめでとうございます。今日はイエスさまが十字架の死から復活されたことを記念しておささげする礼拝です。

復活の朝の出来事を今日は読みました。婦人たちが戻ってきます。彼女たちはガリラヤから、イエスさまが働きを始めたその時からイエスさまに従ってきていた女性たちです。イエスさまの遺体は、アリマタヤ出身のヨセフという議員がピラトに願い出て引き取り、新しい墓に納めました。「岩に掘った墓の中に」とあるように、この地方での墓は岩をくりぬいた洞窟のようなものでした。そこに布にくるんだ遺体を収め、入り口には大きな重い石のふたをしてふさぎます。そのようにイエスさまが墓に納められる様子も、女性たちはついて行って確かめます。

ガリラヤからずっと従ってきた女性たちも、イエスさまが裁判を受け十字架にかけられる時、近くにいることができませんでした。遠くから立って見ていたのです。十字架刑という重罪人と関係するとみなされることは、大変危険なことでした。けれど「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と大声で叫び、十字架上で息を引き取られたイエスさまを見て、最後の最後までイエスさまは自分たちと共にいてくださったのだと彼女たちは知ります。十字架から逃れることなく、苦しみつつ神のみ旨により死を遂げられたイエスさまが、自分たちの生きてゆくのも大変な人生を共に歩んでくださったことを知ります。

彼女たちはイエスさまに近づいてゆきます。安息日の始まる前に香料と香油の準備をしたことに、その決意が現れます。彼女たちは安息日が終わると明け方早く、準備したものをもって出かけます。それは葬りの準備です。傷つけられたイエスさまの体を清め、弔いをしようと思ったのです。彼女たちは、自分たちができることを考え、その務めを果たそうとしたのでした。

 

<当惑の不在は、不在ゆえの喜びへ>

ところが着いてみるとイエスさまの体はなくなっていて、彼女たちは途方に暮れます。輝く衣を着た二人の人が、イエスさまは生きている、復活したのだ、以前からそう話していたではないかと語るのを聞き、女性たちはそのことを思いだし、弟子たちに伝えます。それは信じがたい話でした。彼女たちは信じますが、使徒たちは信じませんでした。墓に「いない」ことは、生きていることと同義ではないのです。たとえば遺体が盗まれたとか…。しかし、彼女たちは、墓にはいない、ではイエスさま生きている、ということを信じました。

 

<石は転がされた>

ここで用意周到な彼女たちにできないことが語られています。それは墓の入り口の石を転がすことです。女性たちの力では到底動かすことのできない生と死を隔てる石が、墓の入り口にはありました。ここでは、石はわきに転がしてあったと書かれています。石はすでに神さまが転がしてくださっていたのです。イエスさまに再び近づく決意を与えられた彼女たちに、神は歩み寄って下さり、隔ての石を転がして近づいてくださっているのです。私たちもまた、神の歩み寄りを通して、生きている神と共に今週も歩みましょう。

 

 

4/2 「十字架にかけられて」 説教者 川内裕子 牧師 ルカによる福音書23章32節-38節

<イエスを十字架に、それぞれのやりかたで>

都の外の刑場に引かれていったイエスは、二人の犯罪人と共に十字架につけられます。多くの人々が周りにいましたが、イエスを擁護する者はいません。

イエスを刑場にひいてゆき、直接はりつけにした役割の人々。くじをひいてイエスの服を分けた人々。立ってそのありさまを見ていた人々。イエスをあざ笑った議員たち。すっぱいぶどう酒をさしだす兵士たち…。この場面には多くの人々が登場しますが、みんながそれぞれのやり方でイエスを十字架につけたのです。

直接十字架にイエスを打ち付ける。釘打たれ、肉がさける苦しみの中にいるイエスの傍らで、人間の尊厳をあらわす衣服をはぎとり、その苦しみをよそにくじをひいてその服をわけあう。十字架につけられている様子を傍観する。積極的に賛成して、あるいはむごい刑を受けることを見たくて、もしくはこんなひどいことがと思いながらも反対の声を上げることができなくて…大勢の民衆の中には様々な思いの人がいたと思います。けれど聖書は「民衆は立って見つめていた」とひとくくりです。みんなが十字架につけたという点でひとつなのです。他人を救ったのだから、メシアなら自分を救ってみたらどうだとあざ笑う議員たち。他人を救った、と言いながら、イエスがメシアだとは片鱗も信じていない人々。気付け薬のような働きをする酸っぱいぶどう酒を、もっと苦しんだら、と差し出し、ユダヤ人の王なら自分を救ってみろとあざ笑う兵士たち。イエスの周りにいた人が、さまざまな形で、それぞれイエスを十字架につけたのです。

こうしてたどっていくときに、私たちも、またそのそれぞれに当てはまることを覚えます。私たち一人一人が、イエスを十字架につけたのです。

 

<赦しを願うことば>

痛みと苦しみ、辱めと孤独の中で、イエスが声を上げます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエスが声を上げたのは、人々のため、私たちのためでした。

イエスを切り離し、十字架につけて孤独の中にイエスを置いた人々であり、私たち。その人々、私たちを赦してほしいと、捨てられたイエスご自身が歩み寄り、手を差し伸べ、つながろうとしてくださる言葉です。そしてご自身が仲介者をなって、主なる神とつなぎ直そうとしてくださっているのです。「メシアなら自分を救えば」と議員たちからあざ笑われ、「王なら自分を救え」と兵士たちから侮辱されたイエス。しかしイエスは十字架の苦しみの上にとどまられました。主なる神ご自身の意思により、神の子が、人の子として十字架につけられる、その神の意志に徹底的に従順に従うイエスです。痛めつけられた存在から声を振り絞って、私たちへの赦しを神に願ってくださいます。

イエスの、この言葉の前提に、イエスの私たちへの赦しがあります。イエスご自身が私たちを赦しておられるからこそ、主なる神への赦しのとりなしの願いがイエスの口から出るのです。私たちが行った仕打ちの結果、十字架につけられたイエスご自身から、汗と血にまみれた赦しが差し出されています。

本来なら、自分の過ちを自覚し、謝罪をした後に、赦しが与えられるのではないでしょうか。それなのに、「自分が何をしているかわからないまま」イエスを十字架にかけた私たちを、イエスはまず赦し、「父よ、彼らを赦してほしい」と主なる神に願います。先だって赦されるという、驚くべき恵みがここにあります。

自分が何をしているか知らないわたしたち。自分自身が行ったことを知り、イエスを様々な方法で十字架にかけた自分自身を認めたいと思います。そして私たちが切り捨てたイエスが歩み寄り、主なる神にとりなして下さる赦しを受けて新たな歩みをしていこうと思います。