今年度先週までの説教要旨はコチラ
弟子から使徒へ
「使徒言行録」との書名が付けられているこの書ですが、6節では早速「弟子(マシティス)」では無く「使徒(アポストロス)」という呼び方が使われています。弟子は「学ぶ者・従う者」、使徒は「遣わされた者・使節」という別々の意味を持つ単語です。この書が「弟子という訓練期間を終え、神の同労者である使徒となった人々」の記録の書であることをルカは冒頭から示しているのでしょう。
ユダヤ人のメシア思想
イエス様は、当時のユダヤ人達が思い描いているメシア像と神の御旨である救い主メシアの姿は全く違うことを何度も語って来ました。しかし復活されたイエス様を前にしても、使徒達はまだ「ユダヤ的思考・選民意識」が残っていた姿を6節に見ます。そこでイエス様は改めて神の御旨である「救い」とはイスラエル・ユダヤ人という一部の人々を対象に与えられた福音なのではない事を伝えます。むしろ「地の果て・全ての人々に」この神の救いの御業・福音は広げられるものであり、そのために使徒達を遣わすのだと教えられました。
昇天
使徒たちは「ゴール意識」を持ってこの場に居ました。しかし、むしろこの場は神の国の福音が広げられる「スタート」だったのです。この昇天の現場に立ち会った使徒達の目から、イエス様は見えなくなりました。そのことによって「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます」というインマヌエルの約束が成就した喜びに満たされたのです。制限のある肉の目で見える範囲での働きではなく、制限無き霊の目が開かれた働きへと使徒達は遣わされたのです。
天を見上げ
昇天されるイエス様の姿を見つめたままの彼らを、現実へ引き戻す声が白い衣を着た二人の御使いからかけられます(11節)。その言葉で我に返った使徒達は、大喜びでエルサレムへ戻りました(ルカ24:52)。ここから彼らはアポストロス・使徒・主に遣わされた者として、大喜びで宣教の働きに歩み出して行くのです。
希望は天に、使命は地に
聖書は既に来たり給うた神の国と、やがて来たり給う神の国を証ししています。「やがて来たり給う神の国」の希望により、帰るべき家が備えられているという平安が在るのです。しかし同時に「すでに来たり給う神の国」の使節としての働きが委ねられていることを憶えなければなりません。希望(のぞみ)は天に在り、使命(はたらき)は地に在る。すでに内在のキリストはインマヌエルの約束通り共におられるのですから、私達は天を見上げて立っているだけの者であってはならないのです。
その日に向かって
生活のよりどころである十字架と復活により結ばれた神との交わり、心躍るインマヌエルの喜びの内に、私達は世の業へと主により遣わされています。御国に引き上げられる「その日」へ向かい、福音の証し人として生きる日々が与えられているのです。やがて来たり給う「その日」に向かい、主の愛を証しする教会・福音の証し人としてそれぞれ遣わされている日々の働きへ共に歩みだしましょう。
涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。詩編126:5,6