3/29 「 罪に定める者 」 ヨハネ8章1-13節 川内活也 牧師

四福音書

福音書とはイエスさまの地上での歩みを記した行状記です。新約聖書冒頭には4つの福音書が収録されています。物事は1面からだけではなく多方向から見る事で立体的に確認出来ます。イエスさまの行状記も1面からだけでなく上下左右4方向から見る事で立体的に『キリストによって世に現わされた神の御姿』を知る手引きとなります。キリストを知る事が神を知る唯一の道なのです(ヨハネ1:18)

姦淫の女

福音書の中でも有名な出来事の一つを今日は開きました。『姦淫の罪』の現行犯として捕らえられた女は当時のユダヤ社会の法により裁かれる確定死刑囚です。イスラエルは十戒に基づく律法による社会法下に在りましたので姦淫の罪による罰は石打による死刑と決まっていました。

裁きの道具

律法学者・パリサイ人達はそんな彼女を『公義に従い裁く』ためではなく、イエスさまを裁くための道具として用いる事を画策しました。彼らの内には1片の正義も無かったのです。ただ自分達の肉の思いを満たすために人を裁くことにのみ執着している姿をイエスさまは見抜かれていました。

想定外の展開

この女を死刑にするのは是か非かと問う彼らに対しイエスさまは彼らの、そして群衆の想定していなかった「罪無き者から石を投げよ」との回答を与えます。その言葉の意味を理解した人々は年長者から順にその場を立ち去って行きます。自分自身に義があると誇示する事はあっても「罪無き者である」と誇示する事が出来る人は誰もいないのです。

罪無き者

ただ一人、イエスさまだけが『罪無き神の小羊』として世に降られました。1石を投じる権威はイエスさまだけが持たれているのです。そのイエスさまが「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言された事で、引き出されて来た女は命を得ました。

裁きは主のもの

人を裁く主権は「罪無きもの」にしかありません。それは神御自身の主権です。しかしサタンはその主権を侵し『訴える者』として神に敵対しています。そのサタンの『罪の性質』を人は持っているのです。神の主権を侵す者は神に敵対する者なのです。

赦された者として

神の主権を侵す事無く歩むためには、自分が神から与えられた恵みを日々覚えることが大切です。赦された者だからこそ赦す者、愛された者だからこそ愛する者、交わりに加えられた者だからこそ交わりに加える者として歩む事が信仰生活なのです。『主に愛された』自分自身のように隣人を愛するようにと教えられているのです。

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない』詩編103編2節

 

受難節第4主日を迎えイエスさまの十字架を深く思う日々を歩んでいます。死をも賭して神から贖われた者であるという主の愛を覚え、肉の思いに従って神の主権を奪い取り、隣人を裁く神の敵対者となる事無いためにも、神から受けた恵みを日々見上げて歩みましょう。

  

3/22 「 愛の送受信 」 ヨハネ3章8-21節 川内活也 牧師

ニコデモとの会話

 今日の箇所はパリサイ派の教師であったニコデモが人目を避けてイエス様にお会いして対談した時の記録です。ユダヤ教の教師でありながら救いの確信を持てないニコデモにイエス様は開口一番「人は新しく生まれ無ければ神の国を見る事は出来ない」と宣言されました。

新しく生まれる

 ニコデモが求めていた方向性は肉の知恵や知識を頼りとするものです。しかし、その方向性では神を知る道には至らないのです。人間のによって神を知ろうとする事から離れ、ただ、神の御心にのみ目を向けるという霊的視点の転換こそが新生の道です。

聖書の中の聖書

 聖書は神の御心を人が知る唯一の助言者として与えられた書物です。その中心命題がヨハネ3章16節です。これこそが聖書全体を通して神が人に語られている福音の中心、神の御心です。16世紀の宗教改革で有名なマルチン・ルターはこの箇所を指して「聖書の中の聖書」と呼びました。この中心命題から離れて聖書を理解しようとしても的外れな方向へと向かってしまうのです

風を受けるために

 8節で「風は思いのままに吹く」と語られています。文語訳聖書では「風は己が好むところに吹く」と訳されています。神の霊、聖霊はその好む所に吹くのです。ではどのようにすればこの風に「好まれ」、この風を受けられるのでしょうか?

受信を合わせる

 ラジオやテレビ・ネット配信などの放送飛ばされている電波をキチンと受信する事で見聞きする事ができます。神からの送信、神御自身の愛は全地に満ちています。神の愛は常に送信され続けているのです。その愛を受信する方法はなんでしょうか?ニコデモやその他の教師・神を求める者達はその受信方法を間違っているとイエス様は教えられているのです。神の愛の送信を受け取る周波数は神の愛を信じることなのです。御子を信じるとは、御子キリストにおいて表された神の愛を信じる信仰です。別のチャンネルで神を知ろうとしても、救いを求めても、つながる事は出来ないのです。

愛の送受信で日々を歩む

 世の中の様々なチャンネルに心をかき乱されるような社会のただ中に在っても、十字架において示された神の愛を信じる信仰のチャンネルにいつも心を合わせ、神の愛を受け、神の愛に応答する愛の送受信の日々へとこの一週も新たに歩みだしましょう。

 

主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだイザヤ59:1~2

  

3/15 「 その呼びかけに 」 ホセア書11章1-11節 川内活也 牧師

ホセア書

聖書の中でもあまりポピュラーでは無い小預言書のホセア書ですが旧約聖書中『神の愛について最も美しい言葉で語られている』と評価されている書でもあります。北イスラエル王国ヤロブアム2世の治世後期時代(紀元前750年頃)に活動した預言者ホセアを通して、神様がイスラエルを愛している事を繰り返し教えられます。

擬似的体現預言

ホセアは神さまからの召しによって姦淫の女を妻として迎え、愛をもって夫婦として歩みました。そのホセアの『擬似的体現預言』を通して神様は裏切りと背信の霊的姦淫に身を委ねているイスラエルに『それでもわたしはあなたを愛している』と呼びかけられたのです。

ホセア書の中心預言

11章はホセア書の中心的なメッセージです。神様に対する裏切りと背信、屈辱と姦淫の罪に陥っているイスラエルを、それでもなお愛し、赦し、回復の道へと招かれる神様の声が上げられています。

神であって人ではない

人間の基準で考えるなら到底赦されるべきではない、自己責任で自業自得な裁きを受けるべき罪人に対してさえ、なおも憐れみと救いが宣言されています。神の憐れみと救いの基準は人間の持つ基準とは違うのだと宣言されているのです(8~9節)

その呼びかけに応じて

人の力である「エジプト」を頼りとするのでなく、神を頼りとしてその招きに応えて立ち上がり、へりくだって主と共に歩むとき、罪の性質の中では味わうことのなかったまことの平安と愛に包まれて歩む者へと変えられて行くのです。日々、主の招きに立ち返る謙遜を身にまとい、新しい一週へと歩みだしましょう。

 

人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。ミカ6:8

 

3/8 「 いのちの朝へ 」 詩編106編1-5節 川内活也 牧師

受難節第二主日

受難節第二主日を迎えました。現在、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため世界中で対策が行われていますが、過剰な萎縮ではなく必要な対策を講じながらそれぞれの生活や教会を建て上げていくことが大切です。主の復活を記念するイースターに向かって日々を建て上げる御言葉に耳を傾けましょう。

信仰告白の3連詩

詩編106編は104編の『天地万物の創り主なる神への賛美』、105編の『エジプトの苦難より救い出して下さった主への賛美』に続く『悔い改めを受け入れて下さる主への賛美』です。この3つの詩編は今日の私達の信仰告白にもつながる3連詩です。

使徒信条の要

使徒信条では冒頭で『我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず』と告白しますが104編は正にこの告白の土台とも言える賛美です。聖書が語る『創造主である神』を信じるからこそ、その土台の上に信仰が建て上げられていきます。主なる神の絶対的主権を信じて告白するからこそ、その主なる神への賛美と祈りは真実な信仰の証しとなるのです。

出エジプトを想起しつつ

105編ではその主なる神によりエジプトでの苦しみから救い出されたイスラエルの民の姿が想起されています。『天地万物の創造主である神』は死と滅びの苦しみの中より救い出し、約束の祝福を与えて下さることを信じる根拠として歌われています。

悔い改め

このように『天地万物の創造主である神』により『死と滅びからの救い』が与えられ、祝福の道が備えられたにもかかわらず、イスラエルは『罪を犯して主に逆らった(106:6)』のです。しかしその『罪』を認めて言い表すとき、尚も主がその悔い改めを受け取って下さるという信仰が告白されています。

主への全き信頼

104編からの3連詩は主なる神への全き信頼によって捧げられている信仰告白の賛美です。そして106編4節を読む時、十字架上のイエス様に語りかけた一人の強盗の姿を想起します。罪の中、死と滅びのただ中に在っても主への全き信頼を告白する時、救いの約束が与えられるのです。

十字架無くして復活無し

『死』は肉体をもつ人間にとって耐え難い苦悩です。自分の罪を認めること、そしてその罪を悔い改めることは「罪に対して死ぬ」事です。そこには苦悩や痛みが伴うかも知れません。しかし、十字架無くして復活は無いのです。

いのちの朝へ

主への全き信頼の内に、自らの罪と悔い改めを告白して罪に対して死ぬ時、私達は十字架のキリストと共に復活のいのちの朝を迎えるのです。全ての歩みにおいて『御心がなりますように』との全き信頼を主に告白し、その信仰の告白を自らの歩みの足跡として証しする日々へと歩みだしましょう。

 

3/1 「 我が身に足れり 」 詩編103編1-5節 川内活也 牧師

新型コロナ対策急展開

先週は新型コロナウイルスの影響が突然急展開する社会状況の中教会の対応協議を役員会でも重ねる一週間となりました。感染拡大の抑止という社会的責任を負いつつ「教会の信仰の証し」をどのように表していくべきかを祈り、会堂集会を制限して、各自・各家庭での礼拝を守るように礼拝出席者へはお薦めする事となりました。

灰の水曜日

そのような中で今年の受難節(レント)開始となる「灰の水曜日」を先週は迎えました。名称の起源については諸説ありますが、聖書では「きよめ(民19:17等)」や「悔い改め(マタイ11:21等)」「誓願・訴え(エステル4:1等)」の象徴として灰が用いられています。悔い改めと感謝の祈りの内にイエス様の十字架の苦難と死による救いを特に覚えて祈りつつ、イースター(復活記念日)までを過ごす期間です。教会機関誌のダイヤモンドダストにも寄稿していますが、古くからはこの期間中、キリストの受難を覚えるという意味で40日間の断食を行ったり、近年では自分の好きな物を我慢したりしつつ過ごす方々もおられます。

主の御計らいを覚え

今日の箇所(2節)にもあるように、本来、私達は受難節に限らず日々主の「御計らい」を覚えて歩むべきです。新改訳聖書ではこの2節を「主が良くして下さったことを何一つ忘れるな」と訳しています。しかし日常の生活の中、特に近代では氾濫する情報や多くのイベント・娯楽・仕事・忙しさの中で「主の御計らい」「主が良くして下さったこと」すなわち神の恵みを忘れて生きている日々・時間が大部分を占めているのでは無いでしょうか? 

主の恵みを数え

今回のコロナウイルス騒動においては多くの方々と同じく、私達も動揺を覚えますしかしこのような中でこの受難節を覚えるという「特別な時」は救いの恵みを再確認する喜びの時となると信じます「無いもの」を数えていけばそこに結ばれる実は不平・不満・不安や呟きです。しかし「主がよくして下さったもの」という「有るもの」を数える時に喜び・感謝・平安・希望の実を豊かに結ぶ時となるでしょう。

恵みは我が身に足れり

受難節を歩む中、断食や制限を設ける事によって既に与えられている主の恵みに新たに気付かされていくのも1つの方法かも知れません。しかし、あらゆる困難や不足を感じる中にあっても、むしろ既に主が与えてくださっている十分な恵みを新たに覚えて感謝しつつ、主の良くして下さった恵みの種を豊かに蒔き、実を結ぶ者として歩み出しましょう。

 

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいますⅡコリント9:10

2/23 「 恵みほとばしり、巡りめぐる」 詩編92編1-16節 川内裕子牧師

<素晴らしい>

今日の「安息日に」歌われるこの賛美歌は「トーブ」(ヘブライ語)からはじまります。これは「すばらしい、よい」というあらゆる意味での肯定を意味します。創世記の初め、神が天地を創造した時、一つ一つ確認して、神は「トーブ」と言ったことを思い起こします。

この詩編は全面的な肯定、「トーブ」から始まります。何が良いのかというと、朝夕に主の慈しみ、神の真実を楽の音に合わせて主に感謝をささげること、です(24)。慈しみとまことについては神の御業、御はからい(56)と言い換えられます。それを賛美し、人々にのべ伝えることは、比べるものなく、よいことなのだと歌います。

 

<この世のありさまは>

しかし、神の業をほめたたえる人々の生きているこの世は、生きていきやすいものとはいいがたい現状が吐露されます。主の御計らいを理解しない愚かな人がいます。神の働かれるこの世のあり方に、深い慮りがあるとは考えない人々がいるというのです。さらには(8)神に逆らう者、悪を行う者のように、神に背を向けて歩む人々が春に一斉に野の草や花々が茂り、咲くように栄えるさまも歌われます。

 

<恵みほとばしり、巡りめぐる>

 今日は礼拝後世界バプテスト祈祷週間を覚えてのバザーが行われます。世界バプテスト祈祷週間献金からささげられる働きの一つに国際ミッションボランティア、佐々木和之さんの働きがあります。11月に佐々木さんが苫小牧で帰国報告会をされた時に、お連れ合いの恵さんの証しを伺うことができました。事件から25年経ち、さらに複雑な状況も生まれている中、長年虐殺被害者や、加害者家族に伴い続けて歩んできたからこその信頼関係の中で分かち合われたことも伺いました。

 私たちはそれぞれ痛みや苦しみ、不条理の世で生きていながらも、神からの和解を頂きながら復讐ではなく、主の正しさに従うことに招かれています。神に従う人はナツメヤシのように、レバノン杉のようにそびえると歌われています。どちらも数十メートルにもなり、樹齢の長い木です。私たちは世にあってシンボルツリーのように立たされています。そして周りの人に豊かな実りを与えます。それこそが主の証しです。

 

 恵みを頂いたなら、その恵みは私達からほとばしり流れます。恵みはそれによりこの世を巡りめぐるでしょう。粘り強く、主の証し人としておかれた場所で生きてゆけますように。

2/16 「 その歩むところ」 詩編84編1-13節 川内裕子牧師

<生命の基を恋い慕う>

 礼拝に、よんどころない理由で出席できなかった時、とても残念で、共に礼拝することを心待ちにした、という話を最近知人から聞きました。今日の聖書の箇所は、そんな礼拝に焦がれる思いが歌われている詩編です。

コラの子は、神殿付きの詠唱者たちのこと。彼らによって歌われたのは。神殿の礼拝での賛美で、ここでは巡礼者たちが神殿にやって来た時の賛美と考えられます。全部で4つの部分に区切られ、神殿を慕い求める(2~5節)、神殿に向かって道を歩む(6~8節)、求めの祈り(9~10節)、再び主の宮に住む喜び(11~13節)という構成です。

なぜ歌い手はこのように神殿に行きたいと願うのでしょうか。それは、神の存在が、私の命そのものだからです。神殿はここでは小鳥が安んじ、もろくやわらかい命を託す完全な場所として描かれます。歌い手が求めているのは「主の庭」ですが、並行して「命の神」と書かれていることを合わせると、場所が神そのものとして示されていることがわかります。私達の命の全存在が、主と生きることの招きによって喜びとなるのです。

 

<幸いの宣言>

この詩編には「幸いだ」という宣言と応答が3回もなされます。そしてそれはまだ神殿に向かう途上の道においても宣言されます。わたしたちはいつも主に向かう途中の道にいます。主の庭を心に描いて歩むなら、道は広く谷も泉となります。「嘆きの谷」で傷つくこともありません。苦難の中においても雨、収穫を約束する恵みの雨が降るのです。それによって私たちは元気を得ます。

 

<とりなしてくださる方がおられるから>

9、10節の「盾とする人」「油注がれた人」は主が立てた王や大祭司を指しますが、私たちをとりなしてくださるイエス様を重ねることができます。私たちのために盾となってくださり、導いて下さり、とりなし贖ってくださるイエス様がおられるから、嘆きの道を歩むこともできるのです。

 

<その歩むところ>

私たちはいつも、神に出会う途上の道にいながら、同時に神に出会う目的地にいるとも言えます。礼拝はそのことを思い起こし、心と体に刻むときです。「主に逆らう者の天幕で長らえる」ことを礼拝者は選びません。そことは決別し、主の元へと歩みます。

 

私たちの人生の歩むところも同様です。「主に逆らう者の天幕」は主の元へ歩もうとすることを遮る力です。それは私達自身の中にも存在します。それらと決別し、贖い主と共に歩み続けましょう。

 

2/9 「 受け取ったらば」 詩編78編1-8節 川内裕子牧師

<晴れても、寒い>

一年の内で、一番寒い時期を過ごしています。帯広はとてもお天気がよいので、どんなに気温が低くても青空が広がっているのに、外に出たらとても寒くて、その落差にびっくりです。こんな晴れやかな空と厳しいマイナス20度越えの寒さが手を結んでいるとは、思いもかけないこと。今日は詩編78編を読みながら、思いもかけない握手について考えてみたいと思います。

 

<語られる歴史は、賛美>

詩編78編は72節からなるとても長い詩で、今日の箇所は全体の前置きの部分です。冒頭の「マスキール」は「教訓詩」とも翻訳されます。1節から「わたしの民、私の教え、私の口の言葉に…」と歌い手が一人称で臨場感のある歌い出す中、「教え」「言葉」「箴言」、「いにしえからの言い伝え」…と歌い手「わたし」の語る言葉がくくられ、「教訓詩」と言われるゆえんかもしれません。

 9節以降「私」が語るのは、イスラエルの歴史です。イスラエルの民がエジプトを脱出するまでのこと、脱出して荒野の40年をすごしたこと、カナンの地に導き入れられて後のことが語られます。その歴史は、困難、苦難の時に神に助けを求め、思い通りにならない中で神を試す、神は速やかに民に救いの手を差し伸べるが、人々は満たされると神に背いてしまう…その繰り返しでした。

それらの歴史を、歌い手は自分より後の世代の人々に対して(「子孫に」「のちの世代に」(4))、「教え」「言葉」「箴言」、「いにしえからの言い伝え」、として歌います。それは、続く世代の人々が、主を知るように、です。主を知り、主に従って歩むためなのです(7)

しかし、イスラエルの主への背きの歴史が、なぜ主を知る教えとなるのでしょう。それは度重なる民の主への背きと共に、変わらず繰り返し主の救いの手が差し伸べられているからです。イスラエルの民の背きの歴史は、神の憐れみにより救いが差し伸べられた歴史でもありました。愛と背きとが、思いもかけない握手をするのが、この歴史です。

注意深く読むと、「教え」「言葉」「箴言」、「いにしえからの言い伝え」の表現は「主への賛美」「主の御力」「主が成し遂げられた驚くべき御業」(4)と言い換えられます。語り続けられるのは、主への賛美なのです。それこそが、後世に伝えるべき「教え」です。

 

<受け取ったらば>

歌い手は、先達から受け取った教えを、自分が聞いて悟ったこと(3)として伝えました。何度も何度も民は神を離れ、何度も何度も主は民を連れ戻しました。そしてついには、ひとり子イエス様を、私たちを連れ戻すためにこの世に送ってくださったのです。

先達から主の教えを受け取ったらば、私たちも、私たちの歌を歌いましょう。頂いた恵みを自分の証しとして伝えていく、その働きを私たちは委ねられています。

 

 

2/2 「 ひとつのこと」 箴言30章1-9節 川内裕子牧師

<み言葉を真ん中に>

先週は、現在牧師不在となっている北海道連合内の教会にメッセージのご奉仕に出かけました。礼拝プログラムの中に組み込まれた教会学校の時間では、礼拝に集った方々みんなでその日の教会学校の聖書の箇所を読み、感じたことを話し合いました。何十年も教会生活を続けてこられた方も、ここ数年前から教会に来始めたという方も、若い方も高齢の方も、同じ聖書の言葉を真ん中に、自分に与えられた思いを等しく語り合う開かれた場所でした。

聖書の言葉は、古くて新しく、長年慣れ親しんだか、最近であったかにも関係なく、どんな方にも語りかけられていることを実感します。

 

<アグルの言葉>

今日は箴言の終わりの方、いくつかの知恵の言葉のまとまりが付け加えられている中の、アグルという人物の言葉を一緒に読んでいきます。ここにはアグルの信仰の吐露、み言葉に対する信頼、神理解が示されます。

2~6節には、神を理解しつくすことができない人間の不完全さに対して、神の全能性、神の言葉の清さ、完全さが語られます。

ここまでの人間と神の対比を踏まえて7~9節に、二つの願いが示されます。一つは正しく清い神の言葉と対極にある「むなしいもの、偽りの言葉を遠ざけてほしい」ということ。もう一つは「貧しくもなく、富みもせず、ちょうどよいパンで養ってほしい」ということ。富んでいたら神をないがしろにするかもしれず、貧しければ盗みを働くかもしれないと続きます。

 

<ひとつのこと>

この二つの願いは、ひとつのことにつながります。それは「神に心を向け、神の言葉により頼み、神に養われたいという願いです。「パンで養う」という言葉を読むと、イエス様が荒野でサタンの試みを受けた時の「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)というみ言葉を思い起こします。この言葉は、出エジプトしたイスラエルの民が、神からマナによって養われた出来事(申命記8:2~3)に基づいています。イスラエルの民は、その日一日の食料を頂き、神からの養いを受けながら生活しました。「神の言葉によって生きる」とは、観念的なことではなく、実際的なことなのです。今日は礼拝の中で主の晩餐式を行います。その中でパンを頂きながら「これはわたしの体」、ぶどうジュースを頂きながら「私の血」と語られたイエス様の言葉をかみしめます。私たちは真実の神の言葉により生かされているのです。

 

私たちが願うのはひとつのこと。真実の神によって守られ、養われることです。

1/26 「 争う者の敵」 箴言25章21-28節 川内活也牧師

対人関係への勧め

先週の箴言聖書通読では「対人関係」における勧めに目が留まりました。ストレス社会と言われる現代ですが、人の間(はざま)に押し潰されそうな苦しみやストレスを大なり小なり受けることもしばしばあるかと思います。

キリスト教的生活の規範

21節を引用してパウロはローマの信徒への手紙12章9~21節において信仰者の歩みへの勧めを述べています。ここで誤解してはいけないのは争う者・敵対する者に『気に入られるようにこびへつらうように』と勧められているわけではないという事です。そのような人とは主なる神様御自身が向き合われるのだから同じ土俵に立って争う者となってはならないと勧められています。怒りに対し怒りを、悪をもって悪に応じれば、自らが争いやいさかいを起こす者となり、主の愛の泉を汚してしまうのです。

主の愛ゆえに

私達は自分自身が主なる神に赦された者であるという恵みに常に目を注がなければなりません。多くを赦されたのだから多くを赦す者とされたのです。また、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ者、交わりの愛に結ばれた者として互いに主の愛に根ざし、互いを喜び合う事に務めるべきです。しかしそれは争う者や敵対する者に虐げられ続けながら一緒に居続けるという事ではありません。敵対する者・争う者・いさかいを起こす者との間には距離を置くべきです。それは傷付けられた苦しみによって相手を憎み、敵対者となり、神の裁きを奪い取って相手を裁く事で自分自身が神への敵対者となってしまわないためです。その上で、敵対する者・争いといさかいを引き起こす者が飢え渇き助けを必要としたその時には、いつでも主の愛をもって手を差し伸べる救援者となる心構えを持ちつつ、今現在、敵対者として苦しめる相手から距離を置く事は大切です。

アンガーマネジメント

争いやいさかいの原因は「怒り」に由来します。怒る人にはその「理由」があるのです。しかしその理由が正当であるとは限りません。誤解や思い込み、ちょっとしたすれ違いであるかも知れません。だからこそ「怒り」のマネジメントは自分の感情ではなく主なる神さまに委ねるべきなのです。それが人に向かって怒るという断絶の罪に陥ってストレスに苦しまず、交わりの神による平安を得る道です。

主の手に委ね

私達は福音により主なる神様を知る者であり、神の愛の交わりに結ばれ、その愛の泉を受けたのです。だから何が神に喜ばれ完全であるかをわきまえ知り、その霊に燃えて主に仕えていく時に、人の間(はざま)に押し潰されること無く神の守りの内に歩み続ける助けを得られるのです。新しいこの一週、世の思い煩いの一切を、罪の性質ゆえにわきおこる争いやいさかいの全て主の御手に委ね、自分自身の内に与えられている主との交わりの喜びを注ぎ出す器とされることを求め祈りつつ歩みだしましょう。

 

<引用聖句よりイメージイラスト>

いさかいの好きで怒りっぽい妻といるよりは/荒野に座っている方がよい』箴言21章19

『いさかいの好きな妻と一緒に家にいるよりは/屋根の片隅に座っている方がよい』箴言25章24節・21章9節

1/12 「 注ぎの器」 箴言11章23-31節 川内活也牧師

富の管理者

今日の箇所には『富の管理者としての姿勢』が示されています。聖書は主なる神様から委ねられた富を正しく管理する事・その姿勢が、全ての成功の道であると教えています。

デフレ社会

日本は2000年以降『デフレ社会』と言われるようになりました。デフレ脱却を標榜しながらますます貧富格差が広がっている原因のひとつに挙げられるのが『トリクルダウン経済論』を取り入れた経済政策にあると言われます。トリクルダウンというのは『滴り落ちる・零れ落ちる』という意味です。豊かな者がさらに豊かになればそこから富が下々まで滴り落ちて全体が潤うという理論ですが、どんなに富裕層・企業に『富』を注ぐ政策を行っても大前提となる「滴り落ちる」現象が起こらないならば机上の空論でしかありません。

富を用いて

さて、私達一人一人がその人生において主なる神様からの『富』を預けられ・委ねられ・授けられている神の祝福の富裕層であり事業者であり政治家です。主なる神さまから、この地上での人生において委ねられている『富』を正しく管理し、豊かに用いなさいと教えられていながらその『富』を独り占めしようとするならば、その人生は貧しいものとなってしまいます。

神の富=神の愛

主なる神様から委ねられている富とは何でしょうか?主から受けたもの、それは主イエスにおいて現された『神の愛』です。キリストの十字架において現された神の富・その愛を、神は私達に注がれたのです。

注ぎの器として

神の赦し・信頼・交わりを注がれ、神の謙遜を注がれた器、神の愛を受けた器であるからこそ、主は私達に「その愛を注ぎ出せ」と招かれているのです。神の富・宝・神から注ぎ受けた愛を自分の器の中だけに留める者、滴り零れ注ぎ出すべき器でありながらいつまでもトリクルダウンを留めるダムのような生き方は神の富の管理者の姿勢では無いのです。

祝福への招き

 

神さまは私達に「無いモノを注ぎ出しなさい」と言われてるのではなく「わたしが与え委ねているものを注ぎ出しなさい」と招かれているのです。それによりさらに豊かに神の富が増し加えられる祝福に与る道への招きです。神から受けた富・その愛を知った時の喜び、主なる神様との交わりに結ばれた喜びを注がれた器として、今度は、自分自身が主の愛を注ぎ出す器、神の愛の管理者としての使命を新たに、共に歩み出していきましょう。

 

1/5 「 健やかなるために」 箴言4章20-27節 川内活也牧師

 父の諭し

今日の箇所は新共同訳聖書では小見出しが『父の諭し』となっていますが、聖書全体はまさに『父なる神様』からの大切な諭し(メッセージ)です。

主を畏れる

箴言1章5節において『主を畏れること』こそが全ての知恵の始まりと語られています。これは聖書全体、信仰生活全体において言われている事です。主を畏れるとは『主なる神様への絶対的な揺ぎ無い信頼』であり信仰そのものです。

神の知恵により

『主への完全なる信頼・畏れ』をもって箴言を読み進める中、今日は20~22節の言葉に注目します。『命となり、全身を健康にする』ものとは何か、それは『神の知恵』です。では『神の知恵』とはなんなのでしょうか?それは『神の愛』そのものです。主なる神さまは私達に『物事の筋道がわかり、うまく処理していける「能力」』という『知恵』として御自身の『愛』を明らかに示されました。だからこそパウロを通してこのように勧められています。『何事も愛をもって行いなさい』(Ⅰコリント16:14

神の愛を源泉とする

キリストの十字架において現された神の愛により、相応しく無い者が相応しい者とされた恵みを知り、赦されざる者であった者が赦しを得、滅ぶべき者がいのちへと、闇から光へと引き上げられたのだという福音の約束。この神の愛に根ざし、神の愛の福音に生きることこそが『命の源』なのです。

源泉を守る

その命の源・神の愛の源泉からは『曲がった言葉』も『ひねくれた言葉』も湧き出す事は有り得ません。そのような呟きに心が支配されれば当然、不健康になるのです(マルコ7:15)。箴言4:23では『何を守るよりも、自分の心を守れ』と勧められています。私達が健やかなるためにと与えられている心の井戸、神の愛の源泉を守ること、神の愛に根ざし、受けた神の恵み・その愛を湧き上がらせ続けていくこと、そこに主に在る健やかなるいのちの喜びが満ち溢れるのです。

主の愛によりて賜物を活かし

主を畏れ、主を全く信頼し聖書の福音に歩む信仰者一人一人が、そして主に呼び出されたエクレシアなる教会が健やかに成長する知恵を神は与えて下さっています。主の愛に根ざし、それぞれの賜物を活かして用いることです(Ⅰペテロ4:811)。新しく歩み出すこの一年、主の愛を心の内にある命の源として喜び、そこから溢れ出す思いと言葉、与えられているそれぞれの賜物を豊かに用いて、主の愛を証しする世の光・地の塩としてそれぞれを喜び、歩み出しましょう。

 

12/29 「 復活 ~見当違いの探し方」 ルカによる福音書24章1-12節 西島啓喜執事

 

1 見当違いの探し方

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」という言葉は、あなたがたは「見当違いの探し方をしているよ」、と言われている気がします。「復活」を多くの人は信じることができません。それは無理もないことです。イエス様の一番近くにいた弟子たちですら信じがたい出来事だったのです。確かに復活がなければ説明できないことが多くあります。しかし、復活が事実だと証明されてそこで何が変わるでしょうか。大事なことは、イエス様が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という約束なのです。

 

2 復活との出会い

(1)   礼拝の中での出会い

エマオ途上の二人の弟子の物語が続きます。しかし、どうして長い間話していて、イエスとわからなかったのでしょう?私達は見たいと思わないものは心に止まらない、といわれます。「星の王子さま」の一節に「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」という言葉があります。どのような「思い」で見るかが大事なのであって、そこを気にかけなければ、本当の愛や美しさには気づくことができないのです。私達は礼拝で聖書の解き明かしを聞きます。説教を心で聞くとき、心に触れるものがあると思います。エマオの弟子たちはイエス様がパンを裂いてお渡しになったときにイエス様だと分かります。み言葉とパン裂き、という礼拝という場で私たちの心の目が開かれ、復活のイエス様と出会うのです。

 

(2) 生活の場での出会い

 「くつやのマルチン」はマタイの福音書25章をもとにした作品で、生活の只中で主と出会う、ということを教えています。ローマ教皇フランシスコは、その説教の中で「キリスト者の共同体は、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか?よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか?命の福音を告げるという事は、傷の癒しと、和解と許しの道を、常に差し出す準備のある、野戦病院となる事です。」と語りました。イエス様の愛には限界がありません。弱くされている方々、病んでいる方々、傷ついている方々の中に私たちはイエス様を見出します。

 

(3) 私のうちにおられるイエス様

 

聖書は至るところでイエス様が私達のうちにおられることを語ります。バプテスマは、水によって自分に死に、イエス様とともによみがえったことをあらわします。しかしいつの間にか私たちはキリストを追い出し、外に立たせています。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」(黙示録3:20)。キリストを真っ先に中心に据えないと、自分の価値観ですぐ心が1杯になってしまいます。生活の中心に、心の中心にイエス様を迎えて歩みたいと思います。

 

12/22 第4アドベント クリスマス礼拝 「片隅に光るものあり」ルカによる福音書 2:1~7  川内裕子 牧師

 <命じられた旅>

4本目のローソクがともされ、第4アドベントを迎えました。今日はクリスマス礼拝をお捧げしています。救い主、イエス・キリストの御誕生を記念し、感謝する時です。救い主の誕生は、旅の途上でした。皇帝からの全領土の住民への住民登録の命令に従い、人々はこぞってそれぞれの出身の村町に旅立ったのです。ヨセフも妻マリアと共にナザレからベツレヘムへ上りました。標高も高くなり、山道を登ってゆく旅となったでしょう。マリアは妊娠しており、旅先で出産しましたから、臨月の体で旅をしました。おなかの中の赤ちゃんにとっても、妊婦にとっても、大変リスクの高い旅だと思います。初産で年若く、出産のリスクも高いマリアとヨセフ、そしておなかの子どもは、そんな命がけの旅を、支配者の命令により行いました。

 

<でも、泊まる場所は無い>

さて、ベツレヘムに着いた彼らに、泊まる場所はありませんでした。人々が皆、旅をしていたから。彼らは労苦した上、家畜たちの過ごすスペースになんとか泊まる場所を得ます。マリアはそこにとどまるうちに産気づき、出産し、産着にくるんで飼い葉おけに赤ちゃんを寝かせます。家畜たちが生きているにおいや音、人々が生活している気配、外から運ばれてくる風や物音、人々の声…、庶民の生活の渦の真っただ中に赤ん坊は生まれました。そのような片隅でマリアは出産し、イエス様は生まれました。

 

<片隅に光るものあり>

さて、住民登録は人頭税の徴収のための台帳づくりだと考えられています。国のため、支配者の都合のために役に立つ人間が何人いるのか、それを登録するために彼らは旅することを余儀なくされたのです。けれども、妊婦、新生児というもっとも手厚く保護されるべき彼らの場所は、ふさわしく準備されませんでした。人間を都合よく利用する対象として見、その人の人間としての存在は必要とされないという矛盾を見ます。

今の世もそのようです。あなたが、あなたとして必要とされるということはないがしろにされる世界。でも本当はそうではないのです。イエス様が世界の片隅でお生まれになったのは、神さまの創られた世界のどこにでも救い主はおられる、ということを私たちに知らせて下さるためでした。あなたの存在が大切、あなたのいのちが大切、そこに私はいるとイエス様が生まれました。私たちがどのような立場・状況にいようとも、そこに主はおられる、そこにこそ主は共にいて下さることを知ることが、インマヌエル(神はわたしたちと共にいます)です。

 

12/15 第3アドベント 「私は歌を取り戻す」ルカによる福音書 1:39~45  川内裕子 牧師

 <この胸の思いを>

 天使ガブリエルがマリアに身ごもりを告げた後、天使の言葉を手掛かりに、自分と同じく神の言葉の不思議を身に受けたエリサベトの元にマリアは「急いで」向かいます。マリアの求めの強さが伝わってきます。日々の生活の中で、私たちは神の御心をたずね求めます。祈り、聖書を読み、「これがみこころか」と思い至ることがあります。けれどもその中で、「確かにそれが御心だろうか」と悩み、確信を頂きたいと願うこともあります。マリアは分かち合いを求めて急ぎました。

 

<小さな命の出会い>

さて、そこで起こったことは。マリアの挨拶に最初に応えたのは、エリサベトの胎の子でした。マリアの声を聞いて、エリサベトの胎の子は躍ります。二人の女性のお腹の中にいる小さな生命が、出会いを喜んでいます。ときに、小さな命がその存在を通して、「幸い」や「喜び」を私たちに教えてくれることがあります。

 

<幸いを告げるエリサベトの歌>

 自身の胎の子に促され、聖霊に満たされたエリサベトの口から高らかに言葉がほとばしります。「私の主のお母様が…」とエリサベトは声を上げます。マリアがまだ何の事情も語る前にエリサベトにはマリアのおなかの中に子どもが与えられていること、その子どもは自分の主なる神であることが分かったのです。エリサベトの応答は、すでに神の言葉がマリアに実現していることの宣言と祝福です。これはエリサベトの「歌」です。旧約聖書には「詩編」は「歌」です。人々は古来、自分の思い、自分たち共同体の思いを「歌」にのせて歌いました。そして「歌」は「祈り」でもあります。

 

<私は歌を取りもどす>

歌の声は、小さくともその影響は大きく、力を持ちます。支配するものは歌を取り上げました。「主よおいでください」(新生讃美歌259)は故郷アフリカからアメリカに奴隷として連れてこられ支配された人々の祈りの歌です。彼らが求めたのは、この理不尽な人生の中に、主よ、来てくださいということでした。

私たちも歌を取り戻しましょう。私たち一人ひとりに頂いた主の言葉を身に受けて、応答の祈りの叫びを上げましょう。私の祈りを、私の歌を取り戻し、主の働きを担いましょう。私の神さま、どうぞ共にいてください。

12/8 第2アドベント 「私の番です」ルカによる福音書 1:26~38  川内裕子 牧師

 <その出会い>

2アドベントを迎えました。今日の聖書の箇所では、エルサレムの都からは遠く離れた、小さな辺境の地で生きる娘に、天使が訪れます。聖霊によって身ごもり、男の子を産むこと、その子はイスラエルの民が待ち続けていた王となると天使は告げます。子どもの名を「イエス」(主は救い)とつけよとは、皮肉なことです。ヨセフと婚約中で、まだ結婚していないマリアがヨセフの子以外の子を身ごもったとなれば、それはマリアの身の破滅を意味します。このことを「恵み」と言う天使に、マリアは「どうしてそんなことがあり得るだろうか、ありはしない」と反論します。

 私たちもまた、自分の計画とは程遠い現状に向き合わされて、途方に暮れることがあります。できない、無理だ…。私たちはマリアのように神に訴えます。

 

<神の計画との邂逅>

 天使はマリアに二つのことを答えます。一つは「聖霊があなたに降り、あなたを包む」ということ。これは神がマリアと共にいるということ。恐れるな、私が共にいる、という神の励ましです。今一つは「親類エリサベトの妊娠」について。人間には思いもよらない神の業が、身近な親戚に起こった出来事であるなら、マリアには一層そのことが身に迫ってわかるでしょう。自分の身に降りかかろうとしている神の計画に対して、神はマリアの理解できるところに歩み寄り、伴ってくださいます。イエスの名の意味は「主は救い」。人の目には「救い」とは思えないようなことが、神からの救いとなるのです。

 自分の人生が神の計画と交わることへの驚きや受け入れがたさ、恐れの中、マリアは、自分に寄り添い、共に歩んでくださる神に結ばれることによって自分の計画を手放し、神の人生への介入に従います。

 

<私の番です>

 先週、クリスチャンワーカーの医師、中村哲さんが、アフガニスタンで銃撃を受け亡くなられたというニュースに私は打ちのめされました。中村さんは多くの方にはアフガニスタンの灌漑事業を行っている方として知られているでしょう。水があれば、人々は食べることができ、病気も減る、そう考えて見渡す限り干上がった大地を、川から水路を引いて潤すという途方もない計画を、粘り強く進めていました。中村さんを支えたのは、神は私達と共におられるという確信でした。「ここでは平和は理念ではなく、生死の問題だ」と考える中村さんは、何十年もかかる灌灌漑事業について、後進を育てるべく教科書を作り訓練所での授業を開始していました。平和と命の働きは引き継がれているのです。

 「何のことか」と思いめぐらすような神の御計画を「お言葉通りこの身になりますように」と自分の事柄として受け入れる。その時に神の計画は成就します。私たちもまたそれぞれの場所に立たされて、神からの働きを頂いています。神の伴いを信じ、それぞれが「私の番です」と受け取り、歩むことができますように。

12/1 第1アドベント 「喜びの知らせ」ルカによる福音書 1:5~25  川内裕子 牧師

 

<福音のはじまり>

「到来」の意味を表すアドベント(待降節)を迎えました。この一か月、私たちは救い主イエスの誕生を待ち望みます。「待つ」時からクリスマスは始まります。ルカによる福音書は、ザカリアとエリサベトに子どもが与えられる出来事からスタートします。ルカは、それを福音のはじまりと考えたのでした。イエス様がお生まれになる前から、その道備えの時から、福音は始まっているのです。

 

<ザカリアの口つぐみはザカリアの妊娠>

二人の夫婦は祭司の家系に属し、非の打ちどころのない人々でした。にもかかわらず、当時は神様の祝福の証しと考えられていた子どもが与えられず、二人は長い間、子どもが与えられることを待ち続けていました。高齢になって息子が与えられると天使から予告を受けた時、人間の常識では実現不可能と思えたザカリアは、そのことをにわかには信じることができません。天使は子どもが生まれるまでザカリアは口を利くことができなくなる、と告げます。でも、とかどうして、とか人間の思いから出てくる言葉はたくさんありますが、ザカリアはその言葉をとどめられます。生まれてくる子どもについて天使が語った言葉を、天使の言うとおりに妊娠したエリサベトのだんだんと大きくなるおなかと共にザカリアは思いめぐらします。予想もしない神の言葉を一朝一夕に受け入れることは、私達には困難なことです。子どもが生まれ出るまでの十月十日、ザカリアは神の言葉の実現のために、人の言葉を閉ざされたのでした。

 

<二人の喜びは、すべての人々の喜び>

天使は、生れる子どもが二人の喜びとなると告げると同時に、イスラエルの民の喜びとなる、とも告げます。その子どもは神のもとに人々を立ち帰らせることになると告げます。子どもの名を「ヨハネ」と名付けるよう天使は言います。

ザカリアは長い口つぐみの後、生れた子どもの名を「ヨハネ」(神は恵み深い)と人々に知らせて再び口がほどかれました。彼が長い間口をつぐんだ後にこぼれ出た言葉は、神への賛美でした。人々もまたヨハネの誕生を喜んだのでした。

先週から今日まで、世界バプテスト祈祷週間です。各地に遣わされている宣教師や働き人を覚えて祈り、ささげてきました。彼らがそれぞれの場でその召命に従って働いているように、私たちもまたそれぞれ立てられた場所で、神の言葉に聴き、神の言葉を語るようにと促されています。

このアドベントの時、私たちは人間の思いからの言葉ではなく、神のみことばに思いめぐらせ、神の恵みを人々に知らせ、喜びを分かち合う生活へと招かれていきましょう。

 

 

11/24 「召命の地で」エレミヤ書 40:1~6  川内活也 牧師

エレミヤの召命

北イスラエルの滅亡やバビロン・エジプトといった強大国に囲まれて滅亡の危機にある南ユダ王国に主が立てられた預言者エレミヤ。祖国の滅亡を身近に感じつつも「己の若さ」や「与えられる主の言葉の厳しさ」から預言者としての働きを辞退したいと思いつつも、しかし結局彼はその人生を主に献げて預言者としての働きを続けました。

自由な選択

エレミヤは39章に記されている第二回目のバビロン捕囚の列に加えられました。その連行途上でエレミヤについに「解放の言葉」が与えられます。しかしエレミヤは主の召命に立つ預言者としてエルサレムに留まる事を選択しました。『わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ』(31:3)と語られる主の思いと一つ思いとなってエルサレムを愛する預言者となっていたのです。

世界バプテスト祈祷週間

今週は『世界バプテスト祈祷週間』です。女性会からのアピールでもあったように19世紀中期に中国で宣教師として働かれたロティ・ムーンの提唱によって設立された米国南部バプテスト婦人部が、ロティの宣教活動を支援するために始めたクリスマス献金がその起源です。ロティはその召命の地である中国での宣教に生涯を捧げました。

召命への応答

イザヤ書6章には預言者イザヤの召命の記録が記されています。献身者は皆、イザヤのように主からの召しに応答して歩むのです。「ここに私がいます。私を遣わして下さい!」と。他の誰かではなく「私」が応答する事を神さまは求めておられます。

全てが主への献身

では宣教師や牧師・伝道者という「直接献身」だけが献身でしょうか?違います。直接的な福音宣教の言葉を語る機会の無い働きの場への召しであっても、神の愛に一つ思いとされて取り組むなら、その働きは献身者の働きです。主からの召命の地としてそれぞれの働きに主と一つ思いとされる愛をもって歩む時、それは神の御言葉を託されている預言者・福音の証し人としての献身の日々なのです。

召命の地で

 

世界バプテスト祈祷週間として覚えるこの一週、直接献身の働きに遣わされている宣教師や牧師・伝道者を支える献身だけでなく、自らの遣わされている生活の全領域において主の証し人として「ここに私がいます。私を遣わして下さい」と主の召しに応えて歩み出しましょう!

 

11/17 「神に知られ 神を知る」エレミヤ書 31:27~34  川内活也 牧師

滅亡の預言

エレミヤは初めから南ユダ王国の滅亡を預言し続けています。しかし楽観思想を拠り所とする人々はエレミヤを偽預言者と罵り、自分達に耳聞こえの良い言葉を語る偽預言者達こそが神に立てられた預言者だと思い続けます。

回復のために

しかしエレミヤを通して語られる神さまの言葉は決して「滅ぼして終わり」ではありません。背信の罪ゆえにイスラエルは戒めとしての罰を必ず受ける事になりますが、それは今日の箇所のように「回復のため」であると繰り返し語られています。

新しい契約

聖書は「イスラエル」を型として全人類に対する神のメッセージを与えています。神はまず「律法」を通して罪を示されるために出エジプトの出来事の中で石板に十戒を刻まれ律法をイスラエルに与えました。しかし彼らは「人間の努力」でそれらを守り行えずに神との交わりから離れてしまいました。全ての人は己の力によって救いを得る事は出来無いのだと示されているのです。

キリストこそが新たな契約

出エジプトにおいては小羊の血(命)が契約のしるしに流されました。35節以下のエレミヤの預言はイエス様の十字架の死と復活により「新しい契約」が成就したことを示しています(Ⅰコリント11:23~26)。

心に刻まれる契約

石板に刻まれた十戒や律法は破られました。しかし新しい契約は「心に書き記す」と語られています。人の知恵や知識や上辺の理解ではなく、心から「神を知る」者とされるのです。では一体何を知るのでしょうか?それは「主なる神様の愛」です。

神に知られ神を知る

神の愛は御子キリストの十字架において表されました(ローマ5:8,Ⅰヨハネ4:10)。私達がまだ神を知る前に、神御自身が私達を知り、愛し、いのちへの道へと招かれたのです。その愛は人の知恵や知識や上辺の理解ではなく、神の愛を知る全ての者の心に刻まれる永遠の約束として与えられるものです。

未来への希望

この主なる神の愛の中に在るがゆえに「あなたの未来には希望がある」(17節)と約束されています。どんな試練の中に在っても将来と希望に満ちて歩み続ける信仰を与えられるのです(ローマ5:3~5)。

 

11/10 「そこは回復の地」エレミヤ書 24:1~10  川内活也 牧師

バビロン捕囚

南ユダ王国は紀元前597年にバビロニア帝国の侵攻の前に敗北します。エルサレムと神殿は紀元前586年に完全に破壊されます。約20年間で合計3回の『捕囚政策』が行われ、サウル王から始まったイスラエル国家はついに終焉の時を迎えます。今日の箇所は1節に記されているように第一回目のバビロン捕囚が行われた後の出来事です。

いちじくの幻

神さまはエレミヤに2つのいちじくの籠の幻を見せました。一方は「良品」で他方は「悪品」です。

逆視点

強大なバビロニア帝国の前に成す術も無く敗北したユダの人々の視点は「敗北した上に奴隷とされて遠くバビロンへと連れて行かれる王族や高官たち技術者達はなんと憐れで不幸か」というものです。一方エルサレムに残る事が出来た自分達はどんなに幸運かとホッと胸を撫で下ろしています。彼らの視点は捕囚の民は腐ったいちじく、連れて行かれなった自分達は良いいちじくです。捕囚の民も同じ視点であったでしょう。しかし神さまの視点は真逆でした。

そこは回復の地

現状では連れ去られた者が不幸で残れた者が幸運だと考える民に、神さまはエレミヤを通してその考えは誤りであると知らせます。エルサレムに留まる者達が滅び、バビロンに捕囚とされた者達がいのちを得る回復の民とされるとの預言です。そして事実、エルサレムは10数年後には滅ぼされ、捕囚の民は70年後にエルサレムへと帰還し、町と神殿を再建することになります。

主の導きの中で

バビロン捕囚は「最悪」な状態です。夢も希望も無い死の奴隷の状態です。しかし神さまはむしろその地を「いのちへの回復の地」とされました。私達の日々の歩みにおいても「死と滅びの絶望的な闇のバビロン」に捕え移される時があるかも知れません。何故こんな苦しみに遭わなければならないのか?平穏無事なあの日に帰りたい!そんな絶望的なバビロンに捕われたとしても、そこで主なる神さまに立ち返り、祈り求めて歩むなら、主なる神さまはそこを「いのちへの回復の地」とされるのです。私達の目には「腐った悪いいちじく」としか見えない状況が、むしろ主なる神さまが備えて下さっているいのちへの回復を導く「最良のいちじく」とされることを信じ、それを知り得る信仰の目を開かせていただくように祈り求めましょう。

 

 

11/3 「主に結ばれ」エレミヤ書 17:5~13  川内活也 牧師

時代背景

古代統一イスラエル王国はソロモン王の治世の後、南のユダ王国と北のイスラエル王国とに分裂しました。それぞれ数百年ほどは国家として存続していましたが先に北イスラエルが滅び、南ユダ王国も強大な周辺国に囲まれ滅ぼされようとしている混沌の時代、それがエレミヤ書の時代背景です。

預言者エレミヤ

エレミヤはまだ若い時、恐らく20代前半頃に預言者としての活動を始めました。しかし民と王から支持を得ていた「偽預言者集団」と真の神の預言を語るエレミヤは必然的に対立関係となり、そのためにエレミヤは多くの苦しみを受ける事になりました。

聖書の根本メッセージ

エレミヤ書は全体として「滅亡の預言」ですが、それは「イスラエルは滅んでお終い」という内容ではなく、本来のあるべき姿から離れてしまったがためにイスラエルは滅びるが、しかし、悔い改めて本来の在るべき姿へと悔い改めて立ち返ることで新しく祝福を受けるとの回復の約束です。聖書の預言は根本的にこの「悔い改めて立ち返り命を得よ」というメッセージが込められています(エゼキエル18:32等)。本来在るべきイスラエルの姿、すなわち、本来、人の在るべき姿とは「死と滅び」ではなく「いのちと繁栄」なのです。神さまはそのような祝福の存在として天地万物を創造され、人を生み出されたのです。

主に結ばれ

今日の箇所で語られている「水のほとりに植えられた木」のように豊かな実を結ぶ人生、世界を神さまは創造され、人を生み出されたのです。その条件は「水のほとりに」在ることです。すなわち、主なる神さまに結ばれている状態です

回復の道

エレミヤを通して南ユダ王国に悔い改めを促したように今日も神さまは聖書を通して回復の道を語り続けて下さっています。それはイエス・キリストを通して表された神さまの愛を知り、神さまから離れて歩んでいた日々を悔い改め、神さまの約束の御言葉に従って歩む道です。その時、人は自分の在るべき「水のほとり」に生きる者として豊かな実を結ぶのです。

 

 

10/27 「指さし確認」エレミヤ書 7:1~11  川内裕子 牧師

<神殿の門に立って>

 エレミヤは、北イスラエルがアッシリアに滅ばされた後、南ユダにも危機がおとずれている中で立てられた預言者です。今日の箇所は、エルサレム神殿の門に立ち、礼拝に訪れる人々に向かって語られた預言です。エレミヤ書26119には、この時の状況が記されています。エレミヤの言葉は祭司や預言者には受け入れられず死刑を求刑される事態となりました。

 時は、発見された律法の書に従って宗教改革を行ったヨシヤ王が戦死し、その子ヨヤキムがエジプトによって王として立てられた年。民が安全を求めてエジプトにすり寄ることをエレミヤはよしとしません。

 神殿に主なる神を礼拝しようとやってきながら、その内実は主なる神に従っていないことを、皆に語ります。

 

<主に従うとは>

 エレミヤは、民の歩む道と行いを正し、お互いに正義を行うよう語ります。それは寄留の外国人、孤児、寡婦ら、社会的に弱い立場にいる人々を虐げず、無実の人を陥れず、偶像礼拝をしない、という生き方に現れるといいます。これはイスラエルの民が出エジプトした時、神から与えられた十戒に基づくことでした。十戒は主なる神の深い愛から来ています。エジプトで奴隷状態だった民を愛し、導き上った神は、あなた方もまた寄留の民であった、と語ります。ないがしろにされてしまう人々をこそ大切にし、隣人と生きることを教えます。

 

<指さし確認>

 今日の応答賛美、新生讃美歌634番「キリストの愛われに迫れり」は、山口昇牧師が20歳代の神学生だった時の再献身の体験をもとにして作詞したものです。神学生として人々にイエス・キリストを伝える生活をしていたけれど、自分こそが、まずイエス・キリストの十字架の贖いによって救われ、生かされていることを伝道旅行中のケガによって知らされたのでした。

 私たちもまた、自分自身が神の愛によって生かされているか、同じように神の愛を受けて生かされている隣人と共に生きているか、時に信仰の指さし確認をしながら歩んで行きましょう。

 

 

 

 

10/20 「シモン物語」マルコ 15:21、ローマ16:13  奥村敏夫 牧師(釧路教会牧師)

キレネ人シモン

 聖書の中でたった一度だけ登場するキレネ人シモン。キレネとはエルサレムから遠く離れた北部アフリカ地域、そこに住んでいたシモンです。彼の記録はこの十字架の途上での出来事だけしか語られていません。流星のように現れて消えるこのシモンの人生に今日は注目してみましょう。

 

最悪な出会い

 この場面はユダヤ三大祭りの一つ「過越しの祭り」の時です。この祭りの時に全てのイスラエルの民は主の宮に集い犠牲を捧げよと律法で定められています。シモンも律法に従い年に一度の犠牲を神殿に捧げに家族と共に旅をして来ていたのかも知れません。しかし神殿に向かう途上でこのトラブルに巻き込まれてしまったのです。それは「人生最悪な出来事」でした。処刑されようとしている犯罪者の十字架の木を担がされるという屈辱です。旅の予定を狂わされる突然の出来事だったのです。

 

シモンの家族

 シモンのその後について聖書は直接語っていません。しかし今日の2箇所から初代教会で中心的なメンバーとして信徒達によく知られていたルフォスやその母、つまりシモンの家族が皆クリスチャンとして歩んだ事実を読み取る事が出来ます。何故ルフォス達はイエス様を信じる信仰に結ばれたのか?迫害と困難の嵐に襲われる初代教会の中心メンバーとして固く信仰に歩んだのか?その始まりは父であり夫であるシモンが「あの時」にイエス様と出会ったからに他ならないでしょう。

 

十字架の傍らで

 シモンはゴルゴタの処刑場までイエス様の十字架を代わりに運ぶことでその「死」の目撃者となりました。それほど間近でイエス様の十字架を体験したシモンだからこそイエス様を信じる信仰を得、家族に対し初代教会の群れに対して福音の証しを立てる人生を歩む者となったのであろうことが想像できます。だからこそ彼の妻もその子らも福音に固く立って生きる初代教会の中心的な信仰者となり、聖書にその名が記されているのです。

 

最悪な出会いから

 シモンやその家族の真理の福音に生きる平安な人生は「突然起きた最悪な出会い」から始まりました。キリストに真に出会う時、苦難や試練さえも恐れない信仰により、揺るぐことの無い平安の人生へと歩み出させていただけるのです。

 

 

10/13 「苦しむ力」列王記下 19:1~7  川内裕子 牧師

<私たちにふりかかる苦しみ>

大きな被害をもたらした台風19号でした。自然の大きな力の中で、人間はなすすべがないと思い知らされます。私たちはこのように、自分ではどうしようもない大きなうねりの中に投げ込まれ、苦しみを受ける時があります。

南ユダ王国が衰退に向かう中、ヒゼキヤ王がたてられました。彼は、主なる神により頼んだ王として、列王記の中でも高い評価を受けています。けれど、そんな優れた王の治世の中にあっても、困難が降りかかりました。アッシリアからの攻撃です。

アッシリアの王、センナケリブからの使者ラブ・シャケがやってきて、民全体に告げます。ヒゼキヤ王に頼ることは無駄であって、アッシリアに従うようにと告げます。ヒゼキヤをはじめ全ての民は、ラブ・シャケの挑発に耳を貸さず、沈黙を貫きます。

 

<苦しみの声をどこで上げるか>

 民にとって甚だしい苦しみと辱めの中、ヒゼキヤ王たちはその苦しみの声を主なる神にもっていきました。神に窮状を訴え、主なる神の助けを確信して求めたのです。預言者イザヤを通して、主はヒゼキヤたちに語ります。アッシリアの王は倒れ、南ユダは助けられると語ります。

この国難をヒゼキヤは産みの苦しみにたとえました。胎児は産道を通って、出口に向かって生まれようと苦しみながら進みます。ここで象徴的に示されていることは、必ず出口はある、ということです。ローマ53によれば、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望、解決の道を生み出すといわれます。私たちが目指す希望の出口は、イエス・キリストがその命を通して私たちを救ってくださった、ということです。試練の道を通り抜けて脱出する道があるとⅠコリント10:13には語られます。

私たちは本当に頼りがいのある所に頼ることを知っている民なのです。

 

<苦しむ力>

試練の時、あやまたず、神に声をあげましょう。苦しむ力は、歯を食いしばって我慢することではありません。自分の周りを閉じて、自分さえ我慢をすれば…ということは、孤立を生み出し、自分はこんなに頑張っているのに…という裁きや怒りにつながっていきます。

 

苦しむ力は、「助けて」の声をふさわしいところにもっていく力です。苦しむ力は、自分の人生に主が介入してくださることを受け入れ、望む力です。頼るべき方に信頼して声を上げましょう。必ずその試練を通りぬける道を主は準備していてくださいます。

 

9/22 「支えられて」Ⅰ列王記 19:1~8  川内活也 牧師

圧倒的な勝利

預言者エリヤは神さまからの導きに従いアハブの妻イザベルが率いていたバアルやアシェラという偶像預言者達とカルメル山で「戦い」勝利しました。北イスラエル王国アハブの治世に起こった大干ばつでしたが、こうして三年目にその災いは終わります。主なる神の預言者エリヤの圧倒的な勝利でした。

勝利の後に

主なる神さまから離れて偶像礼拝と不品行に染まっていた北イスラエルに下された災いが主なる神さまの預言者であるエリヤの働きによりその罪と過ちが明らかにされたという大勝利という状況です。本来ならこれで王や民が悔い改めて偶像礼拝から離れて主に立ち返り、回復の道へと歩み出すのが自然な流れのように感じます。しかしそうはなりませんでした。王妃イザベラはエリヤに怒りを燃やして処刑を宣告したのです。

心折れ

主の圧倒的な勝利を体験したエリヤでしたがイザベラによる死刑宣告にすっかり心が折れてしまいました。カラスややもめの下で不思議な助けで養われた事も、バアルやアシェラの偶像預言者達との戦いに圧倒的な御力を下された神の勝利の御業にも目を向けることが出来ず彼はただ自らの死を願います。自分という存在価値を見失ってしまいました(4節)。そんなエリヤに「神の山ホレブへ向かえ」との招きが与えられます。

孤独の洞窟

エリヤはホレブの山に行き洞窟に入りました。まるで墓穴に葬られるような姿を想起します。心折れ、死を願い、全ての交わりから断絶されたような「孤独な死者」の姿。そんなエリヤに神さまは声をかけられます。「ここで何をしている?」「出て来なさい」と。死に捕われたエリヤにとっては「ここしかない」と思い込んで動けずにいる洞窟。しかし神さまは「あなたがいるべきはここではない」と気付かせて下さいます。

主が共に在る

エリヤはすぐには立ち直れませんが神さまとの対話の内に自らの境遇を告白する中で立ち上がる力を得ます。逃げ出してきた時と状況が変わったのではありません。主が共に在るという初めからの約束に新たに支えられて立ち上がる力を得たのです。

支えられて

 

「死」の洞窟の中に在って自分は孤独だと倒れていても、主が共に在るという約束は変わりません。何よりもまずイエス様御自身が墓に葬られたのです。そしてキリストと共に私達もまた、復活のいのちに与るのです。そして主に支えられて死の墓から出て歩み出す時、絶望していた世界が希望に満ちている事を新たに知る復活の朝を迎えるのです。

 

9/15 「どのようにしてですか?」Ⅰ列王記 17:2~15  川内活也 牧師

イスラエル滅亡への序章期

ソロモン王は神さまから祝福と警告の言葉を受けながらも、与えられた知恵を用いて、結局、神さまから警告されていた背信へと歩んでしまいました。その結果イスラエル王国は南北に分裂し、警告されていた通りに滅亡へと進み出します。今日の箇所は分裂した北イスラエル王国7代目の王アハブの時代の記録です。

エリヤの預言

神さまから二~三年間の大干ばつの預言を受け、エリヤはアハブの下にそれを告げに行きます。悪事の指摘や裁きの預言を喜ばれるはずもなくエリヤには王からの身の危険が迫る預言です。神さまは先ず、エリヤに干ばつと王の怒りから逃れる道を備えて下さいました。

カラスに養われ

神さまはエリヤに「川の水とカラスが運ぶ食物で養う」と約束されました。神さまの言葉通りにカラスが毎朝夕にエリヤの下へ食べ物を運んで来ました。

理不尽な要求

干ばつが酷くなると神さまはエリヤに別の養いの地を示されました。そこでは夫を亡くし息子と暮らすやもめがいました。彼女は最後の食料を母子で分かち、後は餓死を待つ状態でした。しかしエリヤはそのやもめに神さまの言葉を伝え、先ず、その最後の食事をエリヤのために持参するようにと告げました

養われたエリヤとやもめの家族

大干ばつにより乾いた大地のように将来の希望も失い渇ききっていたやもめでしたがエリヤを通して約束された神さまの言葉を信じ従いました。神さまは人知を超える御手の導きにより、エリヤとやもめたち家族を養われました。

どのようにしてですか?

 

苦しみ悩み渇きのただ中にあって尚、神さまの御言葉の約束は私達に語られ続けます。人生の大干ばつの中で「主よ、どのようにしてその約束を成して下さるのですか?」という切実な呻き、叫びを覚える事もあります。しかし、その時に私達は依り頼むべき御方がおられるという信仰により生かされるのです。そして神さまは人知では測り知る事も出来なかった脱出の道、平安の道へと導いて下さるのです。その「方法」は分かりません。しかし、主が養って下さるのです。新たに歩み出す一週、突然おとずれるような人生の大干ばつの中にも、主が共におられ、養い導かれる御約束を信じて歩んで行きましょう。

 

9/8 「生きた神殿」Ⅰ列王記 9:1~9  川内活也 牧師

ソロモン神殿

『神の宮(神殿)』の奉献の祈り(8章)を捧げた時、神はソロモンに御旨を知らせます。それが今日の箇所です。父ダビデのように主の戒めの内を歩むのであれば大いに祝福するという約束と、主の戒めの内に歩まないならば国は滅び、この神殿も廃墟となる、という警告です。

失われた祝福

現在、イスラエルにソロモンによるこの神殿は残っていません。7節に記されている警告の通りになってしまったのです。それはソロモンが神さまから与えられていた祝福の条件、主の戒めを捨てて歩んだ結果です。

新たな神殿への新たな戒め

聖書は今日の神殿は信仰者一人一人であると語ります(Ⅱコリント6:16)。ではその神殿が祝福されるための新たな戒めは何でしょうか?それはイエス様がヨハネ13章34節で教えてくださっています。愛し合いなさいとは愛を現せという事です。では愛とは何でしょうか?Ⅰコリント13章4~8節にその一つの基準を見ることが出来ます。モーセ律法と同じく人には完全には成し得ない事を思わされる戒めです。

回復のために

ではなぜ神さまは人に「守り得ない戒めを守れ」と求められるのでしょうか?それは人が自らの業によって救いにいたる事が出来ないのだということを知るためです。神との交わりに結ばれていなければ滅びへと向かう者なのだと知らされる事で、神の御前に謙遜を持って歩み出す回復の道が開かれるのです。

悔い改め

イエス様は御自身を指して「この神殿を壊しても三日で建て直す」と宣言されました。十字架による贖いの死と復活の約束です。たとえ神の宮が傷つき、倒れ、廃墟となったとしても、しかし、イエス様の十字架の贖いの犠牲によって回復の道へと歩み出す道が与えられているという復活の約束です。イエス様御自身が贖罪と悔い改めの犠牲となって下さったからこそ、私達は主の愛に立ち返る悔い改めへと歩み出すことが出来るのです。

まとめ

 

神の住まいとされる生きた神の神殿として私達一人一人が、そして、この帯広教会という群れが、新たな戒めである主の愛の内に建て上げられることを求めつつ、この一週も共に歩み出しましょう。

新たに歩み出すこの一週、様々な必要を覚える日々の中に在って、私達は先ず、この主の招きに従い、神様との交わりの内に正しく日々を治める者とされて歩みましょう。

 

9/1 「求めるもの」Ⅰ列王記 3:10~15  川内活也 牧師

ソロモン王の誕生

古代イスラエル王国はサウル王の後にダビデが二代目の王となりました。そこまでの記録がサムエル記に記されています。列王記はその続きの歴史書です。第三代目の王と選ばれたソロモンの記録から始まります。

神からの知恵

ソロモンは『知恵王』と讃えられますが、しかし重要なのはその知恵を与えられたのは誰かという事です。5節で主がソロモンに現れ願うものを与えると約束されます。その時にソロモンが求めたものこそが『知恵』でした。この時点でソロモンは自身を謙遜に評価する者でした。民を正しく治める王として本当に必要なものは地位や名誉や権力や財産ではなく、主なる神さまからの知恵であると願ったのです。

神の祝福の初め

ソロモンは父ダビデのように主を愛する者でした。それゆえに神さまは彼を祝福し、願うものを与えようと呼びかけられたのです。後にソロモンはこの経験から箴言の中で『主を畏れることは知恵の初め』だと告白しました(箴1:7

ソロモンの志

ソロモンは自らの欲のためではなく、ただイスラエルの民、そして、主なる神さまのために正しき王として歩みたいという志を持っていました。その志を主は喜ばれ、ソロモンが求めた『知恵』だけでなく、その他の祝福をも増し加えて与えられました(10~15節)

ソロモンにも勝るもの

このように知恵と繁栄の象徴として讃えられるソロモン王ですが、イエス様はソロモンの知恵と繁栄にばかり目を奪われている人々に対し、御自身こそはソロモンに勝るものであると語られました(マタ12:42)。それは三位一体の完全なる交わりに結ばれている父・御子・聖霊であるからこその宣言です。

求めるもの

私達の日々の歩みにおいては必要を感じる様々なものがあります。しかし、そうした個別の求めではなく先ず何よりも『主を畏れること・神との愛の交わりに結ばれる信仰』こそが第一なのです。

 『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』(マタ6:33

 

新たに歩み出すこの一週、様々な必要を覚える日々の中に在って、私達は先ず、この主の招きに従い、神様との交わりの内に正しく日々を治める者とされて歩みましょう。

 

8/25 「炭は燃えている」テサロニケの信徒への手紙一 3:6~13  川内裕子 牧師

<私たちは生かされる>

 今日はテサロニケの教会の人々に宛てたパウロの手紙を読んでいます。マケドニア州に入り、フィリピからテサロニケと旅をしたパウロです。使徒言行録を読むと、テサロニケにてパウロの伝道を受け入れる人々が起こされたと同時に、同胞のユダヤ人からねたまれてテサロニケを追われたこと、テサロニケでイエスを信じた人々が迫害にあったこと、妬みを起こしたユダヤ人たちは、パウロが次に向かったべレアにまで追いかけてきたことなどを知ることができます。

 パウロはイエスを伝える手応えを感じるテサロニケを、働き半ばで離れなければならないという気がかりがあったのでしょう、しきりに再訪を願い、とうとうテモテを遣わして様子を聞きます。テモテからもたらされたニュースは嬉しいものでした。難しい局面にありながらも、テサロニケの教会の人々は堅く主と結びつき、信仰生活を送っていたというのです。

パウロはそのニュースを聞いて自分自身が生きている実感を持ちます。自分が委ねられた働きが無駄ではなかったことは、パウロにとっての喜びです。

 

<きょうだい愛、隣人愛>

 パウロはテサロニケの人々に祈りの言葉を送ります。その中で、教会の群れの中で愛をもって接することのみならず、周りの人々へも愛をもって接することを言います。周りの人々は、テサロニケの教会の人々を迫害した人たちも含みます。味方だけではなく、自分に敵対する人々へもキリストの愛で対することをパウロは勧めます。きょうだい愛、隣人愛について、私たちは教えられます。

 

<炭は燃えている>

 火が熾ったあと、黒く消えたように見える炭は、風を送るとオレンジ色に光り、まだ燃え続けていることがわかります。パウロが、テサロニケの教会の人々を通して知ったように、私たちの中にキリストの福音の炎が一度燃えたならば、その火は消えることがありません。どんなに火が消えたように思っていても、主からともされた火は消えることがないのです。

 

 わたしもあなたも、祈って思いを馳せている方々も心の内に炭は燃えています。

 

8/18 「つなぐために」フィリピの信徒への手紙 4:2~9  川内裕子 牧師

<フィリピの教会とパウロの関係>

 この手紙は、ローマで軟禁状態であったパウロが、フィリピの教会の人々に宛てた手紙です。フィリピの教会は、パウロが二回目の伝道旅行に出かけた際に、アジア州を離れて初めて西方へ渡った最初の伝道地です。パウロたちの滞在は短期間ではありましたが、パウロたちを通して信じる人々が多く起こされ、ローマにいるパウロを物心両面で支え、当初から互いに心から祈り合う関係にあったことが伺えます。

 

<教会を共に担い合う勧め>

手紙も終わりに近づき、パウロはフィリピの教会の個別のことがらについて書き送ります。何らかの意見の対立あったと思われるエボディアとシンティケに対して、一致を呼びかけます。この二人はパウロの伝道の初期からフィリピの教会を担ってきた中心メンバーと考えられます。パウロは二人の存在の大切さを説きつつ、他の人にも二人を助けるように助言し、教会の事柄としてよく話し合うことを勧めます。教会で様々な摩擦や対立が起こることは当たり前のことです。しかし、その事柄を、より深く互いを理解する対話として用いていくならば、教会の働きはさらに豊かになることでしょう。

 

<祈りの確信>

 帯広教会では、6~7節を祈り会の最後に唱和します。祈り会では、聖書の言葉に聴き、賛美を捧げます。また、日々の証しや互いの信頼に基づいた悩みの吐露も分かち合われます。そして友のため、教会や世のさまざまな事柄についてとりなし祈ります。さまざまな思いを抱きながらも、最後に67節を唱和することで、思い煩いを主に委ねて、神の平和を頂く確信をいただき、それぞれの場へと派遣されていきます。

 

<つなぐために>

パウロはこの手紙の中で、一貫して教会の一致を求めています。それは教会に連なる人々は「つなぐ働き」を担っているからです。「あなたがたの広い心が全ての人に知られる」(5)と語られる通り、私たちは、イエス・キリストの謙遜さに学び、私たちの存在、働き、行動、思いを通して、イエス・キリストの福音に生きることを伝える働きを担っています。

主に心注ぎだして祈り、人知を超える主からの平安を頂く、そのキリストの平和を一人、また一人とお伝えし、つなぐ働きを担うことができますように。

 

 

 

8/11 「教会(エクレシア)の一致と成長」エフェソの信徒への手紙 4:1~16  西島啓喜 執事

. 私達の召命

パウロは呼びかけます。「あなた方が招かれた、その召命に値する歩みをしなさい。」と。召命とは牧師・伝道者だけに言われているのではありません。すべてのクリスチャンがキリストに招かれているのです。その召命とは、キリストの心に一致する生き方、自己中心の生き方を放棄したアガペーの愛を生きることです。教会の交わりは、神の祝福が注がれ、命に溢れている平和(シャローム)で結ばれます。

 

. 賜物の豊かさ

「成長」というのは、量的な拡大という意味もありますが、むしろ大切なのは内的・質的・霊的な成長です。そのために教会に多様な働きが備えられています。「使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師」は教会を整え、奉仕するようにとキリストによって与えられたものです。こうした賜物は「キリストのはかり」で与えられ、私達の思いをこえて遥かに豊かに備えられています。私達は「自分のはかり」で賜物があるとかないとか、多いとか少ないとか判断します。しかし、キリストは私達に遥かに大きな恵みを分け与えているといいます。私達の「はかり」で受け取る恵みを制限しないようにしたいものです。

 

. 教会の成長

最後の16節には「教会は自分で自分の体を作り上げる」という面白い表現が出てきます。建物は職人さんたちが協力して建てあげていきますが、教会は自ら建ち上がる内側の生命力を持っているかのようです。教会の成長について心配することはたくさんあります。しかし、あまり肩を張らず、キリストに委ねなさい、という事かもしれません。淡々とキリストのはかりで与えられた努めを果たしていきたいと思います。

 

. 帯広教会の目標

今日の聖書の箇所は帯広教会の目標宣言に重なります。これは、帯広教会は何を目指しているのか、皆が一致して語れるようにと願って制定したものです。そこに謳われていることは、「愛を根底として、礼拝し、交わりを深め、伝道し、世の助けとなること」です。毎月、主の晩餐式でこれを唱和し心に刻みつけています。一人ひとりがこの目標宣言を生きることによって帯広教会が健全に成長することを願っています。

 

 

8/4 「あなたに届きますように」ガラテヤの信徒への手紙 3:21~29  川内 裕子 牧師

<忘れられない人たち>

伝道旅行をして、多くの地を訪れたパウロには、心にかけ、忘れることの出来ない人々が多くいました。ガラテヤ地方の人々のこともそうでした。どうやらパウロは、伝道旅行の際、体を壊し、ガラテヤ地方に療養のためとどまったことがあったようです。人々は親身にパウロをもてなし、介抱しました。この地方にはヨーロッパから南下してきた人たちが住んでいたといわれています。パウロは療養生活を送りながら、ユダヤ人から見ると異邦人であるガラテヤの人たちに伝道し、人々がイエス・キリストを信じるに至ったことが考えられます。自分の弱さもさらけ出しながら、胸襟を開いての交流は、格別だったのではないでしょうか。

ところが、パウロがその地を離れたあと、ユダヤ人キリスト者がやってきて、律法を守り、割礼を受けなければ救われないと語り、ガラテヤの人たちが混乱に陥ったニュースがもたらされます。パウロはこの事を伝え聞き、猛然と筆を取ってガラテヤの諸教会に書き送ったのが、この手紙です。

 

<律法は養育係>

律法は、人々をキリストに導く養育者だ、とパウロは言います。「養育係」とは、子どもに付き添ってしつけたり、保護したりする人のこと。もうすでにあなたがたはキリストと結びついているのだ、というのです。ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、どんな境遇、働き、立場にいようとも、キリストの元に導かれてキリストを着るならば、もうその人々はキリストによって、「神の子」とされるのです。

 

<あなたに届きますように>

 神の子とされ、キリストを着る、と言われた時に、ルカ15章のいわゆる「放蕩息子のたとえ」を思い出します。父の財産を浪費し、「息子と呼ばれる資格はない、雇い人の一人にしてもらおう」ととぼとぼと帰ってきた息子を、父親は遠くから見つけて走りより、一番良い服を着せ、喜んで息子として迎え入れます。

 主なる神は、その父親のようにイエス・キリストを通して私たちに近づき、私たちに信仰を与えて下さいました。信仰を持つ、など、私たちはあたかも神への信仰を自分で獲得したかのように語ってしまいがちです。けれども信仰は、救いは私たちの元に神から近づいてやってきたのです。神の方こそ、私たちを信じ、信頼して信仰を与えて下さったのです。

 

神さまの信頼が、あなたに届きますように。

7/28 「父の涙」Ⅱサムエル記 18:31~19:1  川内 活也 牧師

アブサロムの死

ダビデは軍事クーデターを起こした息子アブサロムとの戦いを避けるため王宮を明渡してエルサレムを後にします。しかしアブサロムと彼の手勢はダビデの王位だけでなくその命を奪うために追撃して来ました。ダビデは反撃に出ようとする臣下に「息子アブサロムの命は奪うな」と厳命を下しましたが軍隊長のヨアブはその命令を破り「反逆者アブサロム」を殺害します。

ダビデの嘆き

アブサロムの死を知ったダビデは今日の箇所に記されているように激しく悲しみます。ダビデにとってアブサロムはどこまでいっても「反逆者」ではなく「息子」であったことを感じる記録です。

用いられるダビデ

ダビデは先週の箇所でも見たように決して「完璧な義人」ではありませんが、主なる神様はダビデを非常に大きな働きに用いられています。主はダビデを「愛し」て用いられていることが聖書を読むと分かります。なぜ彼は主に用いられたのか?それはこのアブサロムの死の姿に見ることが出来ます。

ダビデの願い

アブサロムはダビデにとっては「反逆者」ではなく「息子」です。ダビデはアブサロムの父で在り続けています。王座を奪うような反逆行為に対してさえ、ダビデは赦しを抱き続けていました。ダビデの願いは反逆者アブサロムが討たれる事ではなく、息子アブサロムと共に生きる事だったのです。

父の涙

主なる神様の願いは「罪人」が滅ぶ事ではなく「愛する我が子が立ち返って生きること」です。そのために神である王位を捨てて十字架の死による贖いの道を開かれました。十字架に現された神の愛は、父なる神の涙、我が子よ、立ち返れ!と絶叫する救いへの招きなのです。ダビデの「我が子を愛する父」の姿に、主なる神様の内に在る愛の類似性が響きます。その「愛」を持つダビデだからこそ主は彼を大いに用いられたのでしょう。主の愛に立ち返り、主の愛に生き、主の愛を宣べ伝える者として、新たな一週へと歩み出しましょう。

『わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか』エゼキエル33:11

 

『あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです』ルカ15:10

 

7/21 「ダビデの大罪」Ⅱサムエル記 11:18~27  川内 活也 牧師

勇者ダビデ

ダビデは少年時代のペリシテ人ゴリアテとの戦い以降、サウルの臣下時代も、自らが王となってからも常に戦いの「最前線」に出ていました。常に現場の陣頭指揮に立ち、約束の地カナンを治めるために戦い続けて来ました。

気の緩み

しかし今日の箇所11章の冒頭を読むと「出陣の時期」にダビデ自身は「エルサレムに留まっていた」と記されています。「勇者ダビデ」から「王ダビデ」となっていた「気の緩み」がここに読み取れます。立つべき場に立たずにいたダビデに罪の誘惑が訪れます。

判断を誤る

ダビデは「気の緩み」から判断を誤り、ついにはバテシェバとの『姦淫の罪』に身を落としてしまいました。『欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生』むのです(ヤコブ1:15)。

殺人者ダビデ

そればかりでなくダビデは『姦淫の罪』を隠すために画策し『殺人の罪』をも犯してしまいます。今日の箇所はその『殺人計画』成功の報告がなされた箇所です。『罪から来る報酬の死』(ローマ6:23)から逃れようとダビデが選んだのは罪を隠すことでした。

罪は消えない

一見成功に見えたダビデの計画は預言者ナタンによって日の下に明らかにされました。「罪」はどんなに隠そうとしても隠し得ないものなのです(ルカ8:17)

我に返って

ダビデを「死」から「いのち」へと再び結び合わせたのは主なる神様への罪の告白と悔い改めでした。ダビデは「罪」の中で見失っていた「信仰」に立ち返ったのです。

主の御前に立ち返り

 

罪からの報酬である「死」に「いのち」を払うため、イエスさまは十字架にかかりました。赦しを得させるために神御自身が罪から来る報酬の死を負って下さったのです。罪人が「我に返って」御自身の下へと立ち返る道を開かれるために。これまでの歩みの中で、そしてこれからの歩みの中でも、主は常に悔い改めを招いておられることを覚え、祈りの内に日々新たにいのちの道へと立ち返り歩み続けましょう。

 

7/14 「全てに先立ち」Ⅱサムエル記 5:17~25  川内 活也 牧師

王となったダビデ

サウル王の死後、ユダだけでなく全てのイスラエルの王となって欲しいとの願いがダビデに出され、5章1節から5節にあるように、全イスラエル人の王としてダビデは正式に油を注がれます。

ダビデとサウルの違い

サウルもダビデも若くして「王」として神さまに立てられた人物です。二人とも最初は「取るに足りない器」であると自覚するような者でしたが預言者サムエルによって油注がれた者となった王の器です。しかしサウルは退けられ、ダビデは王位を確立していきます。両者の違いは何でしょうか?

祈りの人ダビデ

今日読んだ箇所を含む17節からの短い箇所の中でも19節と23節にあるようにダビデは2回、戦いの前に「主に託宣を求めた」との記述があります。先週のアマレク人の略奪隊との戦いの前にもダビデは「主に託宣を求めた」と記されています。これらだけでなく、あらゆる場面で「主に祈り求めるダビデ」の姿を見ます。サウルとダビデの違いは、まさに「祈り求める信仰の姿勢」の違いです。

祈りの確信

サウルはなぜ祈らなかったのか?それは主なる神さまとの交わりの中に生きていなかったからに他なりません。信頼し、委ね、従う相手として主を見上げていなかったのです。しかしダビデは確信を持っていました。目の前にある様々な事柄、生活の全領域、世界の全てを主が統べ治められる方であるという確信を。だからダビデは全てに先立ち主に祈り求めたのです。それは全てに先立ち主が進まれるという信仰の確信があったからです。

共なる神

ダビデは「主が共におられる」という信仰の確信の中に歩んでいました。イエス様ご自身も約束されたように『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』(マタイ28:20)のです。

信仰は祈りによって

この約束を信じる信仰に立つ時に私たちはダビデのように「祈りの人」とされるのです。主から委ねられたこの人生の王位を、私たち一人一人が信仰の祈りの内に歩む時、主はダビデを守り・導き・祝福されたように、私たちを守り・導き・祝福されるのです。先立ちて招き、支えて共に歩まれる主の御約束を信じる信仰の確信の内に、新たなる一週へと共に歩み出しましょう。

 

 

7/7 「協働体」Ⅰサムエル記 30:21~25  川内 活也 牧師

歴史書としてのサムエル記

サムエル記は『歴史書』に分類されるものです。おおまかに言えば士師記の時代が終わり、イスラエルが「王制国家」となって歩み出した頃、紀元前1120年頃から1030年頃までの約90年間の歴史が書き記されています。

背景

サウル王に謀反の疑いをかけられたダビデは、部下とその家族を連れてペリシテ人の支配地域に逃げ延びます。その地の領主アキシュと契約しツィケラグの町を譲り受ける代わりにアキシュに仕えることになりました。1年半ほど経った頃にアキシュ軍の加勢にダビデは全軍で助力に向かいますが不要とされ結局自分達の町へと戻ります。ここまでが今日の箇所の前、29章までの背景です。

略奪者との戦い

ところが町は焼き打ちに遭っていました。留守の間にアマレク人の略奪者達によってダビデや部下達の家族、家畜や財産を全て奪われてしまっていたのです。怒りと悲しみに打ちひしがれている中でダビデが祈ると、神さまから「必ず全員を無事に救い出せる」という約束の言葉が与えられました。追撃の途中で同行出来なくなった200人に荷を託し、残った兵力で追撃を続け、ついにアマレク人の略奪者達から家族と奪われた物を奪い返すことに成功しました。

協働のイスラエル

全てを無事に奪い返して喜ぶダビデ軍でしたが、ここで一つの事件が起こります。荷番に残った200人には家族だけを返し、家畜や財産は「実際に戦いに参加した者達」で分配すべきという提案が出されたのです。しかしダビデはその提案を退けました。「神が与えて下さったもの」だからこそ「働きの違いで優劣をつけて分けるようなことをしてはならない」という宣言です。この日、「同じ目的」に向かって働いたのだから同じ報い・同じ喜びを分かち合うことがイスラエルのおきてとして定められました(25節)

キリストの肢体なる教会

キリストの御肢体なる教会は真の協働体であることを知る群れです。豊かであった主イエス・キリストが貧しさと死と滅びへと御自身をささげて下さったその「愛」を、私たちは自らの働きによらずに神の恵みとして与えられたものだからこそ、教会はこの報い・喜びを分かち合う協働体なのです。

 福音を宣べ伝える働き、主の恵みの証しの働きにはそれぞれ委ねられている業の違いがありますが、目的は同じです。教会の働きは主の恵み・福音を世の只中に在って証しする協働体としての歩みです。周りの誰かと比較する働きでなく、主を見上げつつ、共に歩んでいきましょう。

 

 

6/30 「あなたのゴルゴタ」コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:1~5  澤田 二穂  兄

はじめに

帯広教会の「信仰宣言」の前文「何人の信仰も制限することなく、証と励ましとしてこれを宣言する」はバプテスト的であり、私たちが受け継ぐべき、初代牧師や教会の大切な「目標」であったと考えられます。

 

1.あなたのゴルゴタ:「信仰的な意味」

ゴルゴタ(ヘブライ語で「骸骨」の意味)は、エルサレムの「町の外」に作られた「刑場」です。主イエスの歩まれた「悲しみの道」は、呪われた場所へ向かうことを意味します。その道は、帯広教会の試練の道でもあります。信仰者が人生の中であたえられる試練は、空虚な死の状態を体験するのですが、そこから意味を見出して生命と使命を与えられるのです。

2.あなたのゴルゴタ:十字架の理解

 「信仰」が正しく改革される時、必ずパウロの「十字架の理解」が深められるときであることは、宗教改革を含めたキリスト教の歴史が証明しています。パウロは、単数の「罪」について述べます。それは神の前における人間の「根源的な誤り、倒錯異常によって、神のように行動する、という傲慢」を意味しています。パウロは、律法の外の呪いの十字架によって逆説的に根源的な罪から開放するという「十字架」のメッセージを宣教する使命を与えられました。

3.あなたのゴルゴタ:「誰かのために」

パウロは、コリントの信徒たちへの心情をⅠコリント2:3「わたしもまた」つまり、2節の「十字架につけられてしまっているキリスト」と同様の心情となって、一語、一語このように言う「弱さと、そして恐れと、そしておののきの中にあって」と。これは、今、パウロが、コリントの地にキリストの群れを構築するという「彼のゴルゴタ」の上に自ら十字架に架けられながら語っているのです。

 

最後に、わたしたちも、ゴルゴタの上で、十字架にかけられた主イエスの「心情」となって、誰かのために遣わされてまいりましょう。

6/23 「根拠はあるんです」サムエル記上17:31~40  川内裕子牧師

<恐れと困難>

 今日はペリシテ人とイスラエルとが、戦いのために対峙している場面です。屈強なペリシテ人の兵士ゴリアトが、一騎打ちを申し出る中、イスラエルの兵たちは恐れに襲われます。

 乗り越えることができないと思えるような困難の中にあって、私たちは恐れを感じるものでしょう。

 

<いける神への挑戦>

 ここではダビデはまだ戦場に兵士として集められることもないような少年です。父から命じられ、羊飼いをしているのです。兄たちの元を訪れたダビデはゴリアトについての話を聞き、これは神への挑戦なのだと理解します。

 

<私の戦い方>

 ダビデは自分がゴリアトと戦いましょうと申し出ます。サウル王はダビデの年若さをもってその意見を取り上げようとはしませんでしたが、ダビデの言葉を聞いて意見を変え、ダビデを戦いに出します。

 せめて十分な装備を、と王自らの装束を着せますが、着慣れぬダビデには無理でした。ダビデはいつもの羊飼いのいでたちで、ゴリアトに立ち向かおうとします。杖をもち、石投げ紐を持ち、投げるための石を拾います。ダビデにはダビデの戦い方があるのです。

 香港では「逃亡犯条例」をめぐって反対のデモが繰り広げられていました。そのデモでは「Sing hallelujah to tha Lord(新生讃美歌35)という讃美歌がずっと歌い続けられ、平和的なデモであることの主張となったそうです。

 今日は「沖縄(命どぅ宝)の日」です。沖縄の組織的地上戦が終結した日といわれている623日です。しかしなお沖縄でははらわたの痛む状態が継続していることを、数年前沖縄を訪れた時に垣間見ました。この日、沖縄では毎年「平和の詩」が朗読されます。毎週基地ゲート前ではゴスペルが歌われ、それは本土各地にも広がりを見せています。

 平和に、粘り強く、戦う方法があるのです。

 

<根拠はあるんです>

 ゴリアトに比べてまるで丸腰のようなダビデ。ひるまずに出かけたダビデは、イスラエルを守ってくださる神の存在に、全幅の信頼を置いていたのです。

 

 立ち向かうには難しすぎる困難の中にあっても、心をつなぎ、手をつなぎ、主への信頼に立ってゆくことができますように。

6/16 「王たる者は」サムエル記上 8:6~22  川内裕子牧師

 

<裁きが曲げられる時>

 周辺の国々が王制を敷くのに対し、裁きづかさとして折々に士師を立てて歩んできたイスラエルの民。本来ならば、主なる神と民を結ぶ役割を果たすはずの裁きづかさです。サムエルの息子たちがその役割を果たさなかったことから、民はサムエルに王を立てるよう要求します。

 

<退けられたのは>

王を立てよ、という民の求めは、主なる神を王とすることを退けることでした。そのことを主はサムエルに指摘しつつも、民の求めに応じるようにと語られます。けれども、民が立てようとする王が為すことを警告させます。

王がどのように民を支配するのか、サムエルは民に語ります。王は自分のために民を、また民の持ち物を徴用し、民は苦しむだろうと語ります。にも関わらず、民はそれでよい、と言うのでした。

 

<王たるものは>

 さて、申命記には王たるものはいかにあるべきかが語られている箇所があります(申命記171420)。今日の箇所で語られるのとはまるで反対の王の姿です。申命記に語られる王は主の律法を座右に置き、聞き従うことを第一としています。私腹を肥やすことを自戒し、民を二度と奴隷となってつながれていたエジプトへ戻そうとしないこと、と語られます。

 残念ながら長い歴史の中で、次々と立てられた王はそのようではなかったことが列王記、歴代誌には記されます。

 民は主なる神を王とする道を捨ててしまったのです。

 

<主なる神は沈黙するのか>

 自分たちが立てた王のゆえに民が泣き叫ぶ時、主は民に答えはしない、とサムエルは民に告げます。けれども主なる神はその通り沈黙される神でしょうか。自身のために生きようとせず、民が二度と奴隷となることのないように主なる神の元に立ち戻らせ、民を見下すことなくむしろその身を低くされた王が、神の独り子、イエス・キリストです。

 神は私たちの自由な決断を認められます。そして私たちが心から悔い改め、信じ、向き直って主と共に歩むことを待っておられます。

 真の王なるキリストと喜んで歩む日々でありますように。のような舌としてとどまりました。私たちはそれぞれにふさわしい働き、舌(言葉)が与えられたのです。

人々が語ったのは、神の偉大な業です(使徒1:11)2:14から始まるペトロの説教を読むと、具体的にはイエスの受難と復活の証人として語ったことがわかります。イエスは「あなたがたが十字架につけて殺した」のだ、イエス様の十字架の贖いは私自身のこと、あなた自身のことだと語りました。人々はもっとも自分にとって身近な言葉でそのことを聞くことになりました。

 

<ようこそ>

 教会は繰り返し、くりかえしイエスは私たちの救い主だと語り続けます。誰もが聞くことの出来ることばで、へだてなくイエスを証しし続けます。今日もまた私たちは神の息吹に生かされ、押し出されて自分の言葉で語りましょう。福音は誰にでも開かれています。ようこそ、いらっしゃいませ!

(教会創立記念月間・ペンテコステ礼拝)6/9 「ようこそ」使徒言行録2:1~13  川内裕子牧師

 <五旬祭の日に>

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。ギリシア語で「50」という意味の「ペンテコステ」は、「過ぎ越しの祭」から数えて50日目、小麦の収穫を神に感謝する「刈り入れの祭」です。ユダヤの三大祭ということもあり、様々な国に住んでいるユダヤ人もエルサレムに集まっていました。

ペンテコステに起こったのは、一同が一つになって集まっている時に、激しい風のような音と共に炎のような舌が分かれて一人ひとりの上にとどまり、聖霊に満たされた人々は、さまざまな国の言葉で語り始めたという出来事です。

今月は帯広教会創立記念月間を迎えています。教会の誕生日とも言われるペンテコステの出来事を読むことで、教会って何が起こっているところなのかと考えたいと思います。

 

<教会とは何が起こるところなのか>

教会は人々がひとつとされて祈る群れです。ここでも人々は心ひとつに祈っていました(使徒2:1、1:14)。そして人々は何を祈っていたか。それはイエス様の聖霊の約束があったからです(使徒1:4~5)

聖霊は激しい風が吹くような音として降りました。風には息という意味もあります。創世記によれば神は人を創って命の息を吹き入れました。私たちは神の息吹、聖霊を受けて生かされている存在なのです。

聖霊は一人ひとりには炎のような舌としてとどまりました。私たちはそれぞれにふさわしい働き、舌(言葉)が与えられたのです。

人々が語ったのは、神の偉大な業です(使徒1:11)2:14から始まるペトロの説教を読むと、具体的にはイエスの受難と復活の証人として語ったことがわかります。イエスは「あなたがたが十字架につけて殺した」のだ、イエス様の十字架の贖いは私自身のこと、あなた自身のことだと語りました。人々はもっとも自分にとって身近な言葉でそのことを聞くことになりました。

 

<ようこそ>

 教会は繰り返し、くりかえしイエスは私たちの救い主だと語り続けます。誰もが聞くことの出来ることばで、へだてなくイエスを証しし続けます。今日もまた私たちは神の息吹に生かされ、押し出されて自分の言葉で語りましょう。福音は誰にでも開かれています。ようこそ、いらっしゃいませ!

(教会創立記念月間)6/2 「その光の滴(しずく)受けて」マタイ5:13~16  川内裕子牧師

<二つのことは一つのこと>

今週も、先週に引き続いて今年度の帯広教会年度聖句から聞いていきます。ここでは、「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」と、二つのことが宣言されています。「塩」も「光」も、古来よりなくてはならないものです。

「光」についてみていきましょう。「山の上にある町」(14)は、「光」を説明するためのたとえです。山の上の町はどこからでも見ることが出来、隠れることはできません。その存在はあらわにされることが「光」の特徴として語られます。「塩」が「塩気」を持っているから「塩」であるように、「光」も周りを照らす明るさがあるからこその「光」なのです。

 

<世の光>

「あなたがたは世の光である」(14)とは、イエスが弟子たちや群集に語った言葉ですが、そのイエスはご自身のことを「わたしは世の光である。」(ヨハネ7:12)と語られました。その続きには「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とあります。

本来、「光」はイエスご自身です。私たちは、そのイエスに従うことにより、その身の内に光をもち、輝きを持つのです。世の人々を「あなたがた」と言い、共に歩んでくださったイエスにならい、光そのものであるイエスの光を受けて、私たちは歩みます。「光」は「光る」ことを証しすることが、イエスの弟子としての歩みです。

1314節の「あなたがた」は、直前の「あなたがた」を受けます。迫害の中にあり、心貧しく、悲しみ、柔和で、義に飢えかわき、困難の中にあり…世の中のあらゆる状況の中にある「あなたがた」へのイエスの呼びかけです。状況がゆるせば、ではなく、どんな状況でも、イエスの光を受けようと従うならば、私たちは「世の光」となります。

 

<教会創立記念月間>

1963年、今から56年前、62日に、まだ土地も会堂も与えられない中、帯広教会の週報の第1号が発行されました。主の導きを受けてたゆまず祈ることが励まされています。教会は「呼び集められたものの群れ」です。私たち一人ひとりがそれぞれの人生の中において呼び出され、その中で生かされ、主イエスの光を輝かせる存在です。光は周りを明るく照らすために用いられます。イエスの光のしずくを受け、世を明るく照らす存在として、教会が、私たちが用いられますように。

5/26 「世の光・地の塩」マタイ5:13~16  川内活也牧師

 2019年度主題聖句

今日は5月12日の定期総会で決まった2019年度の主題聖句の箇所です。年間のテーマは「世の光・地の塩として証しする」となっています。

「光」は何色でしょう?絵では黄やオレンジや白で表す事が多いです。でも実際には光の「色」を一色で表すことは出来ません。光は全ての色を含む「無限色」です。光によって私たちの「目に見える世界」は「個々の色彩」を現します。暗闇の中では全てのものが「黒」です。いや「黒」という色さえ無いので輪郭も見えず「そこに在りながらも存在しないような無の存在」となってしまいます。光は「存在するモノ」を明らかにさせる力であり、その「モノ」が持つ色彩を現させる力と言えます。

「塩」は昔から調味料として用いられて来ました。食材に含まれている塩分さえ完全に取り除いた無塩分料理というのは味気ないものです。適度な塩分・塩味を調整した料理は食卓を豊かにし、食事を楽しむ力ともなります。また、塩は腐敗を防ぐ効果もありますので昔から防腐剤としても重宝されていました。「塩」はそのような性質から聖書においても「永遠」や「神の清さ・神の義・豊かな恵み」を象徴するモノとして用いられています。

世の光・地の塩

イエスさまは光の性質・塩の性質を象徴的に用いて「あなた方は世の光・地の塩である」と語られました。「あなた方」とは目の前にいる弟子達であり、全ての信仰者、福音を知る全ての者への語りかけです。光によって全ての存在が明らかにされます。それは「愛」の象徴と言えます。「愛」の反対語は憎しみではなく「無関心」であると言われます。今、そこに「在るモノ」は「関心」という光を当てなければまるで存在しないかのような闇に包まれたままです。また「愛」は単に「関心を持つ」という事ではなく「完全な交わりに結ばれる」ということ(Ⅰヨハ4:8)であることから考えるなら、「光」によっていのちある存在が明らかとされ、その存在の豊かないのちの色彩を現す力を発揮するということです。また、この「神の愛・光」は「永遠の約束・失われることの無い希望」であるという「塩気」によって保証されるものです。

福音を証しする者

私たちは神の愛である「光」、永遠の約束である「塩」を受けた者、真理の福音を知る者とされたのです。神の愛は御子キリストの十字架の死による贖いによって明らかとされました(ロマ5:8)。この愛の約束は永遠に変わることが無いことを復活により示されました(ヨハ3:16)。この「受けた恵みを信じ・告白する生活」こそが福音の証しなのです。また同時に、私たち自身が全ての存在を照らす光、神の愛を輝かせ、闇の中に沈む隣人を浮き上がらせる力とされ、そのいのちの色彩を豊かに照らす光として世の直中へと遣わされているのです。

証しの生活

世の光・地の塩、主なる神の永遠の愛の交わりに結ばれた福音の証しに生き、主から受けたこの恵みを隣人に分かち合う証しの生活。教会の使命、クリスチャンの努めをこの箇所からもう一度確認し、新しいこの一週を、そして2019年度を共に歩んでいきましょう!

 

5/19 「勇士の条件」士師記6:11~17  川内活也牧師

 ギデオン

今日の箇所に出てくるギデオンは12士師の中でも「勇士ギデオン」として有名な人物です。カナンの地で一時期の平和を得ていたイスラエルの民でしたが「主の目に悪を行」った結果、近隣の敵からの略奪に苦しむ時代となっていました。そのような中に立てられた士師が「勇士ギデオン」です。

勇士?

ギデオンは「勇士」として生まれ育った人物ではありません。平凡な一人の青年、いやむしろ臆病な一人の人間の姿が今日の箇所では記されています。敵から略奪される事を恐れ、隠れて過ごす姿からは「勇士」の気配すら感じられません。でもこの姿は当時のイスラエル全体の不安と恐れを象徴する姿であり、ギデオン一人だけが「臆病者」であったわけではないのです。

主を試みる信仰

主なる神さまを試みる事など言語道断の大きな罪であると聖書は語ります(申616等)。しかし同時に「試せ」とも語られる箇所もあります(マラキ310等)。違いは傲慢や不信仰からの主への侮りとしての「試し」か、主を畏れる信仰に立つ信頼からの「試し」かです。36節以下に語られているギデオンの姿も「主を試みる信仰」は不信仰からは生じない「信仰告白」です。「不信仰」では祈れません。求められないのです。臆病だからこそ、弱いからこそ、不安でいっぱいだからこそ、主の手を「ギュッ!」と握り締め、その腕にしがみついて「ここに主がおられる!」という信仰の確認をするのです。

忘れても忘れない

ギデオンの時代、多くのイスラエルの民は主なる神さまを「忘れて」日々を過ごしていました。しかし、主なる神さまはイスラエルの民を「忘れ」ることはないのです。子どもは自分の楽しみの中で親を忘れることがあるかも知れませんが、親は我が子を忘れることはないのです(イザヤ4915)。

勇士の条件

ギデオンは「主が共におられる」という信仰によって士師「勇士ギデオン」とされました。私たちが忘れても私たちを忘れない主なる神さまが共におられることを信じる信仰に立つとき、私たちは信仰による「勇士」としての力を与えられるのです。勇士の条件それは「主の御約束を信じる信仰」に他なりません。

ヘブル11:1『信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』

新しく歩み出すこの一週、十字架の上にご自身の愛を表された主なる神さまが、私たち一人一人を覚え、愛し、導いて下さる永遠の御約束を信じる信仰に堅く立ち、共に歩みだしましょう!

 

5/12 「終活人生」ヨシュア記23:14~16  川内活也牧師

 ヨシュアの告別の言葉

新共同訳聖書の小見出しでは今日の箇所は「ヨシュアの告別の言葉」となっています。ヨシュアは人生の結びの時を迎えてイスラエルの民に言葉を遺します。14節から16節の「ヨシュアの遺言」の要点は「①主なる神さまが約束の祝福を与えて下さったことの証し」「②祝福を与えて下さった主から離れるなら災いと滅びに至る」という2点です。これがヨシュアが自分の子ら、イスラエルの民に語った遺言です。

ヨシュアの生き様

ヨシュアの人生を振り返ると、この遺言として語った2つのポイントは彼の生き様そのものであることが分かります。ヨシュアの遺言は人生の終末期になって初めて思いついた言葉ではなく、自分の生き様そのものを通して示して来た祝福の道を、改めて確認させる言葉だったのです。

終活人生

人生の結びの時に備える「終活」という言葉があります。しかし、ヨシュアや聖書の他の人物の「遺言」箇所を読む時、「終活」とは「人生末期の身辺整理」ということだけではないと気づかされます。人生の日々の歩みそのものが「終活」です。その生き様こそが次世代を歩む子どもらへの「遺言」です。

終活人生

主なる神様から委ねられている人生を、その嗣業の地をどのように切り拓いて神の祝福の恵みを証しするかに思いを向けて取り組む姿こそが、永遠に朽ちることのない神の祝福を遺す終活人生となるのです。

人生とは終活

パウロは死を間近に感じる中で「走るべき道のりを走りぬいた」「義の栄冠を頭にいただく日が近づいた」と告別の言葉を伝えました。彼は、その人生を通して福音に生きる信仰者としての人生を「その日・その時」を目指して走りぬいたのです。

終活の日々

新しく歩み出すこの一週、私たちに委ねられている日々の一つ一つが、主の御手から義の栄冠を受ける「その日」に向かって歩む「終活」であることを覚え、何が主に喜ばれ、御心に適う「嗣業の管理者の務め」であるかに思いを向けて歩むなら、その生き様が家族・友人・全ての隣人への証しとして地上に残されるのです。主に見える朝、主と共に、委ねられ歩んだ日々を喜びをもって感謝しつつ、義の栄冠を受け取るために、私たちは信仰によってこの終活の人生を建て上げ続けましょう。

 

5/5 「嗣業の地」ヨシュア記14:1~5  川内活也牧師

 嗣業

「嗣業」という単語は聖書でしか使われていない聖書翻訳者による造語です。意味は「業を嗣()ぐ」、つまり一般的には「後継・継承・相続」等と同じです。

特別な継承

「嗣業」はヘブライ語では「ナハラー」、英語訳では「inherited」という「相続」を表す一般的な単語が使われています。しかし日本語訳ではあえて一般的な言葉ではなく「嗣業」と訳されました。一般的に「後継・継承・相続」した者にはそれを「受け継いだ者としての責任」が伴うものです。しかし実際には受け継いだ者がそれを「自分の所有」として無責任な扱いをする例が多々あります。「嗣業」はそのような「無責任な後継ぎ」ではなく、主なる神から「預かっている管理者」としての責任があることを想起する意味を込めた言葉です。

所有者でなく管理者

銀行は顧客からお金を「預かっている者」です。たとえ金庫に何百億円有ってもそれを「所有」しているのでなく「管理」している者です。私達は主なる神さまから「人生・いのち」を「嗣業」として与えられています。神の恵みの大地の「所有者」ではなく「管理者」として委ねられているのです。

約束の地

約束の地カナンに辿り着いたイスラエルの民は部族ごとにその地を「嗣業の地」として分け与えられました。それは「支配する所有者」としてではなく「神から委ねられた管理者」としての責任と義務を負うものです。そこは「乳と蜜の流れる約束の地」です。正しく管理する時、そこは主の祝福に満ちた大いなる恵みの地とされるものです。しかも13章1節では「占領すべき土地はまだたくさん残っている」とも語られています。

嗣業の人生

私たちはそれぞれの人生という「嗣業の地」を委ねられた者です。荒地や未開拓の地、敵や危険がそこに在るかも知れません。しかし、圧倒的な勝利者である主ご自身が「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる(ヨシュア1:9)」という絶対的な約束を与えて下さっています。主の約束に堅く立ち歩むなら、「人生」の中にある敵や危険に満ちた荒地や未開拓の地のような日々も「肥沃な祝福の大地」へと変えられていくのです。主に委ねられた「嗣業の人生」には、まだまだ取るべき所が多くあり、切り拓くべき地が広がっています。地上での命、人生が委ねられている限りは「まだまだ神の祝福に満ちた地」が未開拓のまま残っているということです。「嗣業の地」として神の祝福を豊かに生み出す人生であることを覚え、新たな日へと共に歩み出しましょう。

 

4/28 「一歩二歩」マタイ28:16~20  川内裕子牧師

 

<ガリラヤへ>

墓を訪れた女性たちは、天使と復活されたイエス様からガリラヤに行くよう弟子たちに伝えるよう告げられます。その言葉を受け、イスカリオテのユダを除いた11人が、ガリラヤにやって来ます。彼らは復活されたイエス様を前にし、ひれ伏し、しかし疑います。何人か疑った者がいた、と読める訳ですが、ここはひれ伏しながらかつ疑ったと読むことが出来ます。疑う弟子にイエス様ご自身が近づいてくださいます。

 

<イエス様の派遣>

そしてさらにイエス様はそんな弟子たちを「全ての民を私の弟子としなさい。」と言って全世界に派遣します。「弟子とする」という内実は、一つにはバプテスマを授けなさいということです。これは人々の生き方を神さまの方へと向ける、ということ。神様を信じて生きていくという生き方のスタートに立つということです。いまひとつはイエスが命じたことを守るように教えるということです。これについては、イエス様は最も重要な教えとして、神を愛すること、隣人を自分のように愛することと教えられました(マタイ223740)。人々をそのように導き、弟子としなさいと11人の弟子たちを派遣したのです。

 

<一歩二歩>

 

自分が今、弟子として生きていくことがようやくのことだ、とても人を弟子とすることはできないと思いながら彼らは歩んだかもしれません。けれどもその姿が、周りにとっては慰めと励ましになったでしょう。鳥栖教会の野中宏樹牧師作詞作曲の「わかっただけのイエス様に」という賛美歌の中に「だから/わかっただけのイエス様に/今あるがままの自分をささげて」という歌詞があります。私たちは、それぞれ、自分がわかっただけのイエス様に自分の歩みを委ねて歩ます。イエスさまは疑い歩む私たちに一歩二歩、歩み寄ってくだいます。そして私たちは、イエス様の信頼と派遣を受けて、一歩二歩と歩んでいきます。私たちはみんなそれぞれ宣教に参与しています。自分の役割は何かと自問しつつ、委ねられた働きを弟子としてささげていきましょう。イエス様は、そんな私たちと世の終わりまでいつもあなたがたと共にいると約束してくださる神様です。

4/21 「始まりのとき」マルコ15:33-16:8 ~イースター礼拝~ 川内裕子牧師

<彼女たちが見たこと 彼女たちが聞いたこと>

イースターは、何の罪も見出されないまま罪に定められたイエス様が十字架にかけられて死んだ後、3日後に復活したことを記念するものです。イエス様に従ってきた女性たちは、油を塗って葬りの準備をしようと墓にやってきます。懸念していた墓の入り口の大きな石は、転がしてあり、中に入ることが出来ましたが、イエス様はおらず、天使がおり、女性たちはますます驚きます。

 彼女たちは天使からイエス様が復活されたことを聞き、弟子たちに伝えるよう言われます。

 

<恐ろしくて>

 しかし女性たちは恐ろしさに震え、墓から逃げ出しました。天使からの伝言も話すことが出来ませんでした。私たちは、自分の力の及ばないことに出くわした時に、恐ろしい、と思います。彼女たちは、この時、神の出来事と出会ったのでした。死んで終わり、だから葬りの準備を、と考えた彼女たちが出会ったのは、生と死を分けている重たい石を開き、その死を破り、イエス様は復活してここにはおられないという事実でした。神のなさることは、人の思いをはるかに超えて思いがけないものでした。女性たちは、その神の業に触れ、心からの恐れを覚えました。

 神の業との出会いは、彼女たちを変えます。マルコによる福音書にはこの後別の結びの文章があり、それによると、女性たちはイエス様の復活を弟子たちに伝えたとあります。今このように私たちがイエス様の復活を知らされていることからも、彼女たちがそうしたことがわかります。心底の恐れから語ったからこそその言葉は真実の言葉として語られ、受け止められたでしょう。正気を失うほどの恐れから、彼女たちは新たに語り伝える者と変えられたのです。

 

<始まりのとき>

 以前イースターの日の朝、苦境の中にある友人からファックスをもらいました。「イースターは私たちの新年です。イースターおめでとう」。

女性たちは従ってきたイエス様が殺されてしまった、という最も途方にくれ、絶望の時にそのイエス様の復活の出来事に出会いました。私たちが今どんな状況に置かれ、どんな困難に直面しているとしても、イエス様の復活の出来事は私たちの前に立ち上がっています。

 

 イースターは始まりのときです。神さまが開いてくださった始まりのときを私たちは恐れを持ちつつ、受け取っていきましょう。

 

4/14 「願うことは」マルコ10:35-52 川内裕子牧師

<エルサレム入城を前にして>

 今日から受難週。棕櫚の日曜日といわれ、イエス様のエルサレム入城を記念して覚えます。ちょうど帯広教会の一日一章では、昨日の聖書日課がマルコ福音書のエルサレム入城の箇所でした。今日はその直前、イエス様の行くところ群衆は高揚して迎え、そのことを危険視している指導者たちは背後に張り詰めたたくらみがあり、イエス様は非常な緊張感の中、エルサレムへと近づいていきます。ご自身の十字架と復活を暗示する言葉を何度か口にされることから、そのことはわかります。

 

<二つの願い>

そんな中、今日は二つの願いがイエス様に放たれました。ヤコブとヨハネイエス様が栄光を受ける時、自分たち兄弟をその左右に座らせてほしい、その栄誉のおこぼれに一番に与りたいという願いです。他の弟子たちが二人に対して腹を立てたということは、口には出さなかったけれど、彼らも同じ思いであったということでしょう。イエス様はご自身のこれから歩もうとする道を口にしながら、二人が自らの願いの本質を理解していないことを指摘しつつ、世のあり方とは反対に仕える者として歩むように、と弟子たちに語ります。

もう一人の願いは盲目の物乞い、バルティマイからでした。イエス様が近くに来ていることを知るや、「憐れんでください!」と叫び願います。彼は自分の望みどおり目が見えるようにしてもらい、喜んでイエス様の後に従ってゆきます。

どちらの願いに対してもイエス様は「何をしてほしいのか」と耳を傾けられました。そしてその願いに対して、みこころを語られました。そのことが相手に理解できるか、出来ないかには関わらず、にです。

 

<願うことは>

翻って私たちを見る時、私たちもまた御旨もわからずに、好き勝手なことを願っているものです。そしてたとえ見当違いなことを願っていたとしても、イエス様は「何をしてほしいのか」と問うて一つ一つに耳を傾け、み心を語ってくださいます。たとえ今そのみ心がわからなくても、自ら仕える者となってくださって私たちを贖ってくださったイエス様に従って歩んでいく道に、私たちは今日も招かれています。

 

 

4/7 「生まれ出ずる」マルコ2:18-22 川内裕子牧師

 

<断食と婚礼の宴会>

「断食」は罪の悔い改め、神の言葉を待つ…などに際して行うもので、神に対する敬虔を示していました。ですからバプテスマのヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の人々が断食をすることは、人々の目には神に従う、あるべき姿だと見えていたことでしょう。

それに対して、彼らのように断食をしているようには見えないイエスや、イエスの弟子たちの姿は、人々には理解が難しいことでした。直前のマルコ2:15には、多くの人々と共にレビの家で食事の席についていたイエスの姿が描かれています。レビは徴税人で、収税所に座っていたところ、イエスに招かれ、そのまま従った人です。同じく食事の席についている人々は「多くの徴税人や罪人」と記され、状況的に律法に従って生きることが難しく差別されている人々でした。

「なぜ断食をしないのか」という問いに対して、イエスは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食することは出来ない」と答えます。婚礼は当時においては、おそらく今以上の喜びの時でした。レビや、多くの徴税人、罪人とみなされている人々にとって、イエスとの食事は婚礼の食事同様、喜びの時だったことでしょう。「いっしょにおいで」という招きがレビを喜びへと変えていったのです。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」とイエスはご自身の受難を暗示します。

 

<生まれ出ずる>

 

このように、イエスが来られたことは、人々に新しさをもたらしました。そのことをイエスは織りたての布と、新しいぶどう酒にたとえて語ります。織りたてのまだ水にさらされていない布を切り取って古い服のつぎに当ててしまうと、新しい布の縮む力に引っ張られて布が裂けてしまいます。また、ぶどうから搾ったばかりの汁は、ぶどうについている酵母の働きで、すぐに発酵し始め、ガスが出始めます。古くて固まり、もうのびちぢみしない皮袋にいれてしまうと、膨張に耐えられなくて袋は破れてしまいます。どちらも新しいものがぐうっと引っ張る力、ぶくぶくと膨れる力に古いものが耐えられないという点で同じことを言っています。イエスは、ぶどう酒や新しい布のたとえを通して、神の国と到来を告げます。イエスに招かれて新しく生まれる、その生まれ出ずる力はとても大きいものです。イエスに招かれる時に、わたしたちの古さも、イエスによって破られてゆくでしょう。自分を砕かれることを恐れず、新しくイエスと共に生きることを喜んで、新しい年度も歩みだしてゆきましょう。