3/24 「底力」詩編62:1-13 川内裕子牧師

<沈黙の祈り>

 今日の詩編では、沈黙の中で神に祈り求める人の姿が描かれています。「わたしは決して動揺しない」(3)と、この人は宣言します。けれどもこの人の現状は、平穏ではありませんでした。45節を読むと、弱い立場にあるこの人に、力ある者たちが一斉に襲い掛かり、命を狙い、立ち上がっても再び引き倒し、押しつぶそうとし、この人は激しい暴力にさらされています。そのやり方は陰湿です。口では祝福の言葉を語りながら、実際には腹の中で呪いの言葉が渦巻いているというのです。権力をかさに着て弱い者に犠牲を強いる現在の日本を見るようです。

 

<吹き荒れる暴力の中で>

 このような暴力の現実の中で、詩編では再び沈黙の祈りが繰り返されます。神からの「救い」(3)は自身にとっての「希望」(7)であり、神は人をかくまう砦となるために、私は動揺しない、と祈ります。神は人の助けであることを噛みしめ、心の中の波立つ思いを鎮めるため、自分自身に呼びかけるように、「ただただ神に魂を向けよ」と命じています。

 

<底力>

 深く神の前に沈んでいく思いの前で、暴力の源は暴かれます。そのような人間の力は、本当は力ではなく空しいものなのです(1011)。引き倒され、被害を受けている本人が、力をふるっている人たちに宣言します。その力は無力だ、そのようなものを頼みにするなと。

神は沈黙の祈りに答えられます。本当の力は神が持っておられます。神の力は「愛」です。イエスさまは、十字架にかけられる、という最も弱いあり方で私たちへの愛をあらわしてくださいました。この低さのきわみにある愛によって、私たちは支えられています。苦難の中で打ちひしがれ、神の前に沈み込んで行く時、その底の底にあって神は私たちを支え、砦となってくださいます。私たちの底力は、この愛に信頼することです。

神は一人ひとりの業に応じて報いを与えてくださる方です。私たちが自分の力により頼み、他を傷つけていく者であるとしても、その力が無力であることを教え、悔い改めへと導いてくださいます。

 

神に信頼し、支えられて新しい一週を歩みましょう。

 

3/17 「はなから」詩編50:1-15 川内裕子牧師

<天地を総ざらいして>

受難節に入り、二回目の主日を迎えました。イエスさまの十字架の贖いを特に心に刻んで歩む日々をすごしています。今日の詩編は、激しい風と火の中に現れる主の姿が描かれます。主は天地に呼びかけて民を御前に集め、裁き主として立たれます。

 

<天から地まで主のもの>

 主の前には、民の献げ物がいつも置かれています。主と契約を交わした民は、みずから献げた献げ物によって自分の犯した罪の清算を果たし得ていると考えているかのようです。

けれど、主はもともと民が献げている物は私のものだよね、と民の思い違いを指摘します。さらに、民の献げ物で主をなだめることができる、と考えるのはそもそも間違っている、と主は指摘します。人は、神をコントロールすることはできません。主権は天地を創られた主にあります。民が赦しを得るのは、民が献げ物を献げるからではなくて、主が赦して下さるからこそです。

 

<はなから>

 では、私たちの献げものは必要ないのでしょうか?「告白を神へのいけにえ」にせよ、と14節に語られます。主が私たちに求めているのは、形ばかりの向き直りではなく、心から主に向き直り、悔い改めをすることです。

 主ご自身が語られるように、私たちのいけにえは、はなから用意されていました。主ご自身であるイエス様が、私たちのいけにえとなってくださったのです。イエス様は全ての人の犠牲となってくださり、同時に一人の人の犠牲となられました。自分を裏切ることになるペトロにあらかじめ語られたようにです。ペトロはイエス様があらかじめ語られていたように、イエス様を裏切り、自分の弱さに嘆き悲しみ、しかし復活のイエス様に出会ってもう一度立たせて頂き、かえって人々を励ます人に変えられました。心からの悔い改めを献げる時、私たちはこのように変えられます。

 私たちのいけにえは、すでに神ご自身に準備されていました。イエス様の贖いの前にたたずみ、神に向き直り、悔い改めの告白をする時に、私たちは主の救いを自分のものとされます。新たに生かされることにより私たちは主の栄光を輝かす存在として歩みだします。

 

 

3/10 「なおも声を上げ」詩編44:1-27 川内裕子牧師

<受難節を迎えて>

36日から受難節に入っています。イースターを迎えるまでのこの時までのこの時、みことばを共に分かち合いながら、私たちにとっての受難節とは何かを聴いていきたいと思います。

 

<主よ、助けてください>

 今日の詩編は苦難の中にある民「われら」が、遠い昔に神が自分たちの先祖たちをエジプトから、カナンの地へと導いたことを歌うことから始まります。民がカナンの地を得たのは神の業で、救いは神がもたらしてくださったと語ります。

けれども10節以降、民は神から見放され、他国の人々からあざ笑われている状況が明らかとなります。民は神を忘れず、離れなかったのに、神が民を捨てたのだと訴えるのです。詩編の最後は、私たちを見捨てず、救ってほしいという神への祈りで結ばれます。詩編の作者はこの試練が神から来ていることを認めつつ、神に絶望せず、なおも神に救いを求めます。

東日本大震災が起こってから明日で8年です。あまりにも大きなこの災害は、当時から今に至るまで、私たちの生き方と生活を変えてきました。なぜこのようなことが起こるのか、という切実な問いに対して、私たちは答えを持ちません。なぜかはわからない、けれどもそのことは起こったのです。

試練や苦難に遭遇する時、それは私たちの罪のためだと悔い改めを歌う詩編もありますが、今日の詩編は違います。私たちは神にあくまでも従ってきた、だから神様助けてくださいという詩です。眠ることもまどろむこともない神であることを知りながら、眠っているのですか、目を覚ましてくださいと叫びを上げる詩です。

 

<なおも声を上げ>

応答賛美歌515「静けき河の岸辺で」を作詞したホレーショ・スパフォードは、信仰篤い人物として知られていましたが、度重なる災難に見舞われ、ついには船の沈没により4人の娘を失った時、娘たちのなくなった海上でこの詩を作ったといわれています。詩の中で「激しい悩みの荒海に翻弄される時も、私は神によって平安だ」とあります。私たちは嘆きの中に置かれながら、なおも神により頼み、「私を救ってください」と声を上げ平安を頂くのです。それはイエス様によって私たちを贖いとってくださったほどの主の愛を知っているからです。

 

受難節は私たちを十字架の死を通してまで贖ってくださった神の愛、イエス様の愛を知る時です。イエス様にならい、隣人を愛し仕える時となりますように。

3/3 「わたしもあなたも」申命記29:9-14 川内裕子牧師

<約束の地を前にして>

モーセは、主がイスラエルの民に与えると約束したカナンの地を前にして、モアブの地で、将来民がどう生きるべきか、主と民との契約を語ります。

 

<主は民をご自分の民とされる>

契約の言葉は、「呪いの誓いを伴う契約」(13)と語られます。口語訳では「契約と誓い」と訳されており、ここで「のろい」と訳されているヘブライ語は「神にかけての誓い」の意味です。古代の契約は、もしそれを守らなかった時に、呪いの災いが降りかかるとされてきました。申命記28章にも、祝福と呪いとが語られています。

 主の契約のエッセンスは、「主が民をご自分の民としてくださる(12)」ということでした。主を離れ、反抗することたびたびの民を、主は愛し、守り、ご自分の民としてくださったのでした。

 主と民の契約の根本は、民が主の愛を知る、ということなのです。呪いの誓いとは、主の祝福の道から離れるならば、困難な呪いの道を歩むことになる、ということでしょう。

 

<わたしもあなたも>

モーセは、イスラエルの会衆に加わる者全てに語りました。男も、女も、子どもも、寄留者も、水汲みや薪集めなど人に召し使われている人も…です(910)

 そして今目の前に立っている者たちのみならず、将来の民ともこの契約は結ばれました(1314)。言うならば、今、現代に生きる私たちにも主は契約を結んでくださったのです。

 私たちはそれぞれの果たす役割によらず、性別や年齢、国籍によらず、主の前に等しく「私」と「あなた」の関係を結ばれています。主がそれほど民を愛してエジプトから導き出してくださったかという歴史を担うことにより、私たちはあなたも私の民だ、という約束の中に入れられます。私たちはただ神の愛にのみつながれているのです。

 そして、9節から14節にかけて、「今日」という言葉が繰り返され、その契約は「今日」結ばれるのだ、ということが強調されます。主と約束を交わすのは、まさに、「今」、「今日」なのです。私の主への応答は何であるかを各自問うて、

明日からではなく、今日与えられた主の愛にこたえてゆきましょう。

現実の生活の中において主を見失わずに歩むことが呪いから遠ざかり、祝福を受けることだと心に刻み、主の前に一人の人として立っていきましょう。

 わたしも、あなたも、主の民として歩むよう招かれています。

 

 

 

 

2/24 「正しい秤」申命記25:13-16 川内活也牧師

1、十戒分類

新共同訳聖書では「正しい秤」という小見出しがついています。これは「不正な商売」を禁じる戒めです。隣人に対する詐欺行為への戒めであり、隣人の富を不正に奪う「貪りの行為」ですから十戒の「盗むな」「隣人の家を欲するな」という戒めに分類される「隣人に対する戒め」です。

2、正義の象徴

「秤」は聖書の中で「正義の象徴・比喩」として度々登場します。ですから物としての「重り」や「升」に対するだけの言及ではなく、これは「公義」を隣人に表すようにという戒めです。主は御自身が義であられるゆえに公義を愛されるのです(詩37:28)。

3、不正の秤の中で

私たちは自分の「升」で隣人を量ります。しかもその升は「大小」の不正の升です。そのような「不正」が横行する社会には何が起こるでしょうか?貧富の格差や争い、妬み、排除、罪の性質が生み出す「死と滅び」に支配される社会となるのです。

4、新しい戒め

イエスさまはそんな「不正の秤」を持つ私たちに「正しい秤」を持つように新しい戒めを与えられました。それは「愛」という升です(マタ13:34,35)。聖書の御言葉さえ隣人を裁くために用いるならそれは「不正な秤」となります。全てにおいて「愛」を唯一の升として用いること、これがイエスさまにより新しく与えられた戒め、律法本来の神の招きなのです。

5、量る者でなく量られる者

そもそも人は誰も隣人を「量る」権威を与えられていません。量る権威・裁きの主権は主なる神様だけのものです(ヤコブ4:12)。私たちは隣人を「量る者」ではなく神により「量られる者」であることを忘れてはならないのです。

6、正しい秤を持ち歩む

正確な重りと正確な升。「神の愛」を唯一の秤として全ての隣人との関係を結びつつ新しい一週へと歩み出しましょう。コロサイ3:12~14

 

 

2/17 「奴隷の解放」申命記15:12-18 川内活也牧師

1、「律法」を「十戒」で確認

「律法」の規定箇所を読む時には先ず「十戒のどの項目に関係する規定なのだろうか?」と考えてみると良いと思います。今日の箇所は「奴隷の解放」に関する規定です。十戒の大分類の「隣人に対する規定(5~10戒)」のさらにあえて分けるなら第十戒の「隣人の家を欲するな」の規定です。「奴隷」という「雇用関係」にある「隣人」であるからこそ、彼(彼女)の人生を奪う事を禁じているものです。

2、奴隷の解放

「自分の所有財産」とされていた「奴隷」を神さまは「解放しなさい」と告げられます。これは当時の富裕層にしてみればとんでもなくお節介で厄介な戒めと思われるものです。しかし大前提が律法(十戒)にはあります。それは十戒前文となる神さまの宣言「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した(申5:6)」という大前提です。自分自身が「奴隷」とされ搾取されていた者・苦しめられていた者であることと「そこから解放された者」であることを常に覚え、だからこそ解放者である「わたし」が命じる「奴隷の解放」をあなたがたは行いなさい、と招かれているのです。

3、今の私たちも解放者とされる

「無償で受けたのだから無償で与えよ(マタ10:8)」とイエスさまは語られています。主なる神さまは私たちを「罪」から解放されるために御自身がその犠牲を払われました。今を生きる私たちにも主は「奴隷を解放せよ」と語られています。

4、解放された者として

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4:7)のです。なぜでしょうか?それは今日、神さまがあなたを祝福したいからです。今日、神さまがあなたを解放されたいからです。握り締めている心の奴隷の鎖を解き放ちましょう。心の奴隷として捕らえ続けている全ての怒り・憎しみ・恐れ・侮辱を捨て去りましょう。その時、いつの間にか「罪の奴隷」となってしまっていた心を神さまは解放して下さるのです。その時、私たちは真の自由人として神さまの祝福の内に、与えられている日々を、敵に囲まれてではなく友に囲まれて歩む者とされるのです。

 

2/10 「立ち位置」申命記12:1-19 川内活也牧師

1、律法と十戒

「律法」とは簡単に言うと「十戒」という<大綱>とその根本規範を細かく説明する<細目>によって構成されています。ですから「律法の中の一つに十戒が在る」というものでなく「十戒こそが律法そのもの」ということになります。たとえば「律法」というタイトルの本が在り、その本は10の章から成っていて、各章に詳しい内容が書かれているようなものです。

2、大綱から細目へ

「十戒」は出エジプト記20章と申命記5章に記されています。申命記1章から11章までは「大綱」である十戒とそれを守り行う理由としての説明がおもに語られています。そして12章からは十戒の各項目を細かく規定する細目のように文書が続きます。

3、礼拝について

今日の箇所では第一戒から第四戒に関する規定が中心となっています。つまり「主なる神さまは人を創造された唯一の神であるからこそ人の手によって作られた神々(偶像)を廃し、感謝と畏れをもって礼拝をすること」が勧められている箇所です。

4、自分の好む場所でなく

「主を畏れることは知恵の初め(詩111:1)」です。人が自分のために作った「神」は人間以下の存在でしかありません。そこに救いは無くいのちも真理もありません。人が作った「モノ(偶像)」であれば人が自分の都合で好む場所に好むように扱う事が出来るでしょう。しかし主なる神さまは「全ての被造物の創り主」なる方ですから「人が自分の好む場所」で支配するかのような高ぶりは退けられるのです。サウル王は自分の権威を守るために13節にあるこの戒めを軽んじた結果、祝福から退けられました(サム上13章)。

5、立ち位置

主の御旨を立ち位置とせず自分の好む思いを立ち位置とする時、神の祝福は取り去られます。「風は己が好む所に吹く(文語ヨハ3:8)」のです。聖霊の風を受けて神の祝福に満たされ歩む信仰の立ち位置は「私の思い」ではなく「主の御心」という揺ぎ無い真理の土台の上なのです。人の誉れ・都合を求めて祝福から退けられたサウルの過ちに倣わずに、霊と真理をもって主を礼拝する日々を歩みましょう。

 

2/3 「シェマー~聞け~」申命記6:4-9 川内活也牧師

1、取扱説明書

様々な製品には取扱説明書があります。その製品を正しく・目的通りに用いるために必要な手引書です。また、様々な社会においてもルールが定められています。それはそれぞれの社会を正しく快適に築き上げるためです。

2、神が定める説明書

聖書は全ての被造物は主なる神により創造されたと語ります。「造られた方」であるからこそその全ての被造物の「正しい目的・正しい歩み方」を知っておられるのです。

3、「罪」からの解放の型とされたイスラエル

アダムとエバが「主なる神との正しい交わり」から断絶して以来、創造主である神は全人類との「正しい交わりの回復」を願われ、その回復の道筋となる者としてアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルを「全人類の救いへの型」として選ばれました。

4、シェマーイスラエル~イスラエルよ聞け

4節の「聞け(シェマー)、イスラエルよ」から始まる一文はモーセの宣言以来今日のユダヤ人社会に至るまでイスラエルの人々が日々繰り返し朗誦する有名な一文です。イスラエルの人々はモーセを通して与えられた神の言葉(律法)を大事にしますが、それはこの「シェマー(聞け)」という呼びかけに応答する事で主なる神との交わりに結ばれるという信仰に立つからです。

5、律法主義としてでなく

旧約聖書の前半5書は「律法の書」と呼ばれます。「してはならない」や「しなければならない」という言葉(条項)が多く出てきます。ユダヤ教のラビ(教師)達はそれは613項の戒め(ミットウォーターズ)と数えます。そして「律法を文字通り守る事がシェマーへの応答」と考える「律法主義」が誕生しました。しかしその考えは違うとイエスさまは戒められました。

6、神に聞く~主との愛の交わり

 

信仰者の「取説」とは「何をしなければならないか?何をしてはならないか?」という律法ではなく「神の愛の交わりに結ばれる」という一点に全てが集約されています。神の被造物として「正しい目的・正しい歩み」を日々確かめるために、私たちは「主の愛に結ばれた者」であるという約束に立ち、御言葉を通して与えられる神の御心に聞きつつ歩み続けましょう!

 

1/27 「声は風に乗って」ローマ10:8-17 川内裕子牧師

 <どうぞおいでください>

 昨年度から始めた教会開放プログラムが先週から始まりました。早速おいでくださった方もおられ、感謝です。昨年行ってみて、今度はこんな工夫をしてみたら、という提案もあったりして、プログラムを重ねていく大切さを知ります。

 教会のプログラムの、どんなものであれ、「どうぞ教会においでください」という思いがその根底にあります。教会においでくださり、福音に触れていただきたいという思いがあるのです。

 

<すべての人の救いを求めたパウロ>

 パウロは今日の聖書の箇所で「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく…主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(1213)と述べています。自分の義によって救われるのではなく、心に「イエスは救い主である」という信仰が与えられて、そのことが表にあらわされて救いに導かれるのだよ、と言っているのです。自分の頑張りとか、努力とかそのようなもので救いは獲得するのではないよということです。心のうちにイエス様を信じる信仰が生じさせられるということです。

 

<声は風に乗って>

 ではどうしたらそんな信仰が生まれてくるのでしょうか。パウロは14節から引き続いて語ります。信じないと呼び求めることは出来ない、聞かないと信じることは出来ない、宣べ伝えないと聞くことが出来ない、遣わされないと宣べ伝えることはできない…。つまるところ、誰かが主に遣わされて福音を語らないと他の人々に救いを生じさせることはできないよ、と語ります。その言葉を聞くことから信仰が始まるのです(17)

 今回の屋内広場においでになった方は昨年の屋内広場にも来てくださいました。その方が昨年おいでになったのはその前のクリスマスの礼拝に教会案内を見ておいでになったからでした。教会を立てあげるお一人おひとりがキリストの香りを放ち続ける「よい知らせを伝える者の足」として用いられますように。そしてその伝令者の声が、聞くお一人おひとりの心に信仰を生まれさせてくださいますように。

 キリストの福音を伝える声は、聖霊の風に乗って遣わされていきます。

1/20 「足はどっちだ」ローマ6:1-11 川内裕子牧師

 <どう生きるか>

新しい年を迎え、私たちがそれぞれいただいている「時間」について意識することが多いのではないでしょうか。この一年、どう生きるか、新しい歩みをどう定めるか、考えるには良い節目の時ですね。でも考えてみると、一年の24分の一を過ぎていて…。ちょっとあせりますね!

 

<新しく生きる>

 パウロがまだ訪ねたことのないローマの教会の人々に書き送ったローマの信徒への手紙、今日はイエス様の十字架の贖いの恵みについて語られています。象徴的にバプテスマについて語られています。

今年度の4月にYさんとMさんがバプテスマを受けたことは記憶に新しいことです。バプテスマは水の中に浸され、そこで今までの生き方に死に、そして引き上げられます。自分で起き上がるのではなく、死から新しい生へと引き出されていくのです。

パウロは古い罪の自分の生き方に死に、新たにキリストと共に生きるのだと語ります。

 

<足はどっちだ>

以前ある方が、クリスチャンになる決心を与えられた時の体験を分かち合ってくださいました。自分はキリストに従う生き方と、そうではない生き方という船に、片足ずつ乗せて生きているようだったと。二つの船に足を置いていたら、今は船は横並びで流れているようでも、川や海の流れの中でいつしか離れてしまいます。どちらの船にも足を置いたまま生きることはできないと気づいたとき、キリストに従う生き方に足を置くことにしたということです。

私たちは軸足をどこにおいて生きているでしょうか。私たちと共に罪に死に、復活の命に生かしてくださる主に軸足を置いて生きることができますように。

1/13 「恵み、拓く(ひらく)」ローマ1:8-17 川内裕子牧師

 <新しい年に>

 先週まで冬期休暇を頂き、家族で九州を旅行してきました。前任地の川内教会にて久しぶりに礼拝をおささげし、再会の喜びを分かち合うひとときでした。

 

<ぜひぜひそちらに>

ローマの信徒への手紙は、パウロが訪れようと切望しながら、未だ訪問する事が出来ずにいるローマの教会の人々に向けて書き送った手紙です。1815節からは、ローマの教会の人々への挨拶の中で、どんなにパウロがローマ訪問を切望しているかが読み取れます。

 ここには、ローマの地にイエス・キリストが伝えられている、ということへの純粋な喜びが表されています。また、神の働きを互いに担っているという一点において、まだ会ったこともない人々への祈りが記されます。そして、互いが神の十全性を知り、自身の無を知っているからこそ、互いに主に求め、励ましを得たいという希望が語られます。

 

<とどめることのできない感動>

 まだ会ったこともないローマの教会の人々に、切々と語るパウロの原動力はなんでしょうか。17節には「パウロ」から「ローマの人たち一同へ」と発信元から宛先を語るだけのつもりが、「福音」…と口にしたら我慢できずに「福音とはね…」と自身の受けた主の福音を語り出すパウロがいます。一度体験した福音への感動をパウロは押しとどめることができないのです。

 

<恵み、拓く>

 パウロはそんな福音を恥とはしません。福音こそが救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が現わされます。「神の義」つまり「神の義しさ(ただしさ)」とは、全ての人々に等しく注がれる神の愛です。神が人となってこの世に来て下さった、そして死を打ち破って私たちを贖いとって下さった、その愛が福音です。

 パウロは神の義が啓示される福音は、初めから終わりまで信仰を通して実現される、と語ります。私たち一人ひとりの信仰を通して、福音は明らかにされてゆくのです。神の恵みは、私たちを通して世に示されていきます。神の御旨を行うことの大切さを知ることができます。

福音を伝えるためには、まず私たち自身の、神の福音への感動を思い起こしましょう。神様は、私たち一人一人を呼び、働きに召して下さっています。私たちの心も、思いも、言葉も行いも、主が用いて下さいます。新しい年、主が私たち自身の存在を通して帯広教会にどのような道を拓いて下さるか期待していきましょう。

12/30 「教会~召された者のエクレシア~」1コリント12:27-31 西島啓喜執事

 

〇今年1年を振り返って

忘れられないのは9月の胆振東部地震とブラックアウトです。また、亡くなる人が多い一年でした。感謝なことは、「オープン・チャーチ」や、「チャリティ・コンサート」です。これらによって、教会と地域のつながりがより強められました。また、中高生の成長も感謝です。

私にとっては苫小牧教会の建築に携わるという貴重な一年でした。苫小牧教会は少ない人数で建築を決断しました。さらに駐車場のアスファルト工事を追加しました。財政的に大丈夫ですか?」と質問したところ、「車いすの人のためにぜひアスファルト工事をしたい、たとえ補助がなくても」との答えでした。その答えに大変感銘を受けました。新会堂で初めての礼拝には車いすの方も写真に写っていました。本当に良い決断をしたと思います。

 「内覧会」の初日には23人が訪れました。子供クリスマス会には子供54人、大人を含め89人の人が集まりました。苫小牧教会は会堂建築によってきっと多くの人が訪れる教会になると信じます。

 

〇教会は「建物」でなく「召された者の集まり」

最近フェイスブックでこんな投稿がありました。「教会は神を賛美するためのものですが、(人に出会うところはどこでも)そうです。建物に信仰を閉じ込めさせてはいけません。教会に行くだけでは世界を変えることはできません。私たちが教会になることが必要なのです。」

「教会」というと、建物を思い浮かべがちです。しかし聖書でいう「教会」はエクレシア、つまり「呼び集められたものの集まり」です。「教会(エクレシア)はキリストの体」(エフェソ1:23)とも「あなたがたはキリストの体」(1コリ12:27)とも言われます。

現実の私たちの集まり(教会)はいろいろな欠けや弱さを持っています。イエス様はそのように不完全な者たちに働きを託されました。エクレシアの特徴は、①神さまは教会を愛しています。(エフェソ5:25)、神の愛が教会を通して表されます。(1コリ12:24-27)、③様々な壁や隔てが取り去られます。(エフェソ3:6)、④整えられ成長し、一つになります(エフェソ4:11-15)、⑤豊かに実を結びます。(ヨハネ155

 

〇エクレシアに命を与える聖霊

建物だけでは教会とはなりません。クリスチャンが集まっても、なお十分ではありません。教会に命を与える聖霊が必要です。弟子たちも、聖霊降臨を受けて初めてエクレシアが誕生しました。聖霊は教会に一致を与え、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といった実を結ぶと約束されています。(ガラテヤ5:22-23

 

 私たちの教会も「キリストの体」としての一致を保ち、「聖霊の実」を結ぶエクレシアでありたいと願います。

12/23 「神が共におられる」 マタイ 1章18~25節 川内活也牧師

婚約者であるヨセフとマリヤ

当時のユダヤ社会において婚約は結婚と同じくらい神聖な意味をもつものでした。ヨセフとマリヤの年齢は正確には分かりませんが、当時の社会状況などからヨセフが20代半~30歳くらい、マリヤは10代後半くらいと考えられています。いつの段階で「婚約」が成立していたかも記録は残っていませんが、当時の社会習慣から考えて「ごく普通のカップル」でした。

「普通」から「異常事態」へ

ごく普通の若いカップルであったヨセフとマリヤ。そんな二人の関係に突然、異常事態が起こります。マリヤが妊娠したというのです。もちろんそれは「全歴史上ただ一度だけ起こされる神の奇跡の御業」としての聖霊による救い主の誕生への備えでしたが、ガブリエルと直接出会ったマリヤや親戚のエリサベツとザカリヤ夫妻以外には到底信じられない「超常現象」です。人間の理解を超える神の御業に対して人々は人間の理解出来る事柄として考えようとしました。つまり「マリヤは婚約中に誰かとの肉体関係によって妊娠した」という考えです。これは危険な異常事態でした。なぜなら「夫以外との肉体関係」は死刑と定められていたからです。ヨセフは身に覚えが無い上、マリヤは「聖霊によって妊娠した」と説明するものですから周りの人々もざわつきはじめていました。

ヨセフの苦悩

ヨセフは「正しい人」として悩みます。律法に従うなら婚約者である自分が身に覚えが無いのにマリヤが妊娠しているということは「死に価する姦淫の罪」をマリヤが犯したと考えるのが普通です。「正しい人」として裁くべきでしょうか?いえ、ヨセフは「婚約解消」という現実的な方法を選ぼうと考えました。そうすれば少なくともマリヤが石打ちの刑で殺される事はないでしょう。でも、本当にそれでいいのだろうか?ヨセフは悶々と独りでこの問題を前に苦悩します。

「インマヌエル」

そんな彼に主の使いが夢に現れ、マリヤの妊娠は聖霊による神の奇跡の御業である事が告げられます。そして生まれる御子イエスは「インマヌエル=神が共におられる」と呼ばれるとの宣言を聞きました。ヨセフはこの言葉を信じ受け入れました。独りで悶々と思いを巡らせていた苦悩の日々。しかし「主が共におられる」という約束を受けたヨセフはもう孤独な悩み人ではなくなりました。「おめでとう恵まれた方。主があなた共におられます」と祝福されたマリヤと同じく信仰によって確信をもって生きる者として歩み出したのです。

独りでは無い

私たちの日々の歩みの中で時として「独り思い巡らし悩む闇」が訪れるかも知れません。しかし御子キリストの誕生によって約束された神の御言葉を灯火として掲げましょう。「見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいます」と語られるイエス様の御言葉に立ち「独りでは無く主と共に」新たな一週を歩み出しましょう!

 

 

12/16 「賢者の贈り物」 マタイ 2章1~12節 川内活也牧師

ヘロデと祭司長たち

イエス様の誕生の当時、ユダヤ社会を治めていたのは「ヘロデ大王」と「祭司長・律法学者たち」でした。彼らにとっての関心は「自分達の利益の安定」です。しかし、その安定を壊す情報が飛び込んで来ました。 

まことの王はどこか?

東方より来た博士達は「ユダヤ人の王として生まれた方を探しにやって来た」とヘロデに伝えます。これは王座に固執するヘロデにとっては寝耳に水の驚きの情報であり、同時に恐れと怒りを引き出す情報でした。「自分達の利益の安定」を脅かす存在としてヘロデはイエス様の暗殺を目論み、祭司長・律法学者たちも自分達の「信仰」より現状の安定の道を選びます。彼らは自らを「王」とするためにまことの「王」を受け入れられなかったのです。 

博士達の信仰

博士達は無事にイエス様のもとへと辿り着きました。そこは決して「王の住まい」とは呼べない建物であり、貧しい大工の親子が暮らす庶民の家です。しかし博士達は「信じる信仰」によって未だ見ぬ「王としてのイエス」を礼拝し、その出会いと交わりを喜びました。 

黄金・乳香・没薬

黄金は「王への贈り物」・乳香は「祭司への贈り物」・没薬は「死者への贈り物」という象徴的な宝です。博士達は単に「高価な贈り物」という意味で持参したのかも知れませんが、これらはまさに救い主キリストの生涯を表わす贈り物でした。 

信じる信仰

東方の博士たちは「自分達の利益の安定」を求める者ではなく、誤ったメシヤ信仰に陥っていたユダヤ人よりも純粋に救い主を待ち望み・信じる者としてイエス様と出会ったのです。自らを賢い者・王として生きていたヘロデや祭司長・律法学者はまことの王と出会うチャンスを得られなかった「愚か者」であり、「愚か」と思われるような信仰による行動を選び取った博士達は「まことの賢者」だったのです。 

まことの賢者として主に献げる 

自らも治めきれない「王」が王座に固執し、この世の知者としての座に着きながら真理に目を向けない愚かな者は、まことの救い主と出会う事は出来ません。そればかりか彼を亡き者にしようとして自らを死と滅びに引き渡していくのです。しかし、まことの王であるキリストを心の王座に迎え入れ、自らの内に持つ黄金・乳香・没薬を献げるなら、永遠の神の支配の内にまことのいのちの交わりに結ばれるのです。

 

12/9 「受胎告知」 ルカ 1章26~38節 川内活也牧師

美しい場面

「受胎告知」はクリスマスの劇や絵画でも「美しい場面」として有名です。確かに「全被造物が待ち望む救い主の誕生」が間近に迫ったシーンであり、処女マリヤと御使いガブリエルという二人のやりとりは「絵になる」シーンです。

 

恐ろしい預言

しかし、当事者であるマリヤにとってこの「受胎告知」は「死刑宣告」のように重大な預言でした。婚約期間中とは言えまだ「未婚」の状態で妊娠すること自体が世間体として問題です。そればかりか、子どもの父親が婚約者ではないということになれば、当時のユダヤ社会では「姦淫の罪」として石打ちの刑で殺されてしまう大罪です。

 

何がこの身に起こるのか

マリヤは御使いガブリエルからの「宣告」によって平穏無事な日常生活から突然「先の見えない真っ暗な不安の闇」に置かれたのです。自分の身にこれから一体何が起こるのか?クリスマスの劇や絵画のような「美しい場面」ではなく、マリヤにとっては「死」を思わざるを得ない大きな決断が迫られる緊張の場面です。

 

信じる信仰

マリヤはこの突然訪れた困惑と不安・恐れの出来事に対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えます。これはマリヤの信仰告白です。「私の願い通りの人生に成りますように」ではなく「主なる神さまの御心のままに」と委ねる信仰の告白。人の知恵や知識や経験からは「死と滅び」しか生じないように思える出来事であっても、主なる神さまから「神からの恵み」として与えられたならば必ず祝福の基となる事を信じる信仰です。「神にできないことは何一つない」ことを信じる時、不可能と思えるような問題にも、無理だと思えるような絶望の中にも、「永遠の救い主キリスト」は宿って下さるのです。

 

神の約束を受けた者として

信仰生活の中で私たちも時として「決断を迫られる受胎告知」を受けるかも知れません。しかし「お言葉通りこの身になりますように」と主の御約束を信じる信仰による応答をもって受け止めましょう。その時、人知を超える神の栄光と祝福を味わう特別な恵みを体験するのです。

 

 

12/2 「光のもとへ」 イザヤ 9章1~6節 川内活也牧師

1、アドヴェント第一週

待降節(アドヴェント)の第一週を迎えました。イエス様の誕生を記念するクリスマスに向けて、思いを新たに主の約束に心を開く季節です。

2、大いなる光を見る

古代イスラエルは神さまへの背信から荒廃し、ついには近隣諸国から侵略され滅んでしまいます。アッシリア・バビロン・ペルシャで捕囚として過ごすイスラエルの民にとって、先の見えない闇の時代。そのような中で預言者イザヤによって「回復の預言」が語られます。暗闇の中を歩むイスラエルに与えられた約束。『闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた』(9:1)。

3、光として世に降られたキリスト

聖書は「全ての者は罪に捕われ闇の中を滅びに向かって歩む存在」であると語ります。罪の闇の支配の中で、死と滅びの苦しみに捕われて歩む人生の旅路。しかし、その闇を打ち破る「まことの光」として神の救いが与えられると約束されました。その「光」こそが、御子キリストです。イザヤに与えられた預言から約700年後に、この約束は成就しました。

4、大いなる神の光=神の愛の交わりのしるし

御子キリストによって世に与えられた「光」とはなんでしょうか?それは人が本質的に求める「光・いのち」、すなわち「神の愛」です。天地万物の創り主である主なる神さまが、御自身の「愛」をもって私達を愛されているという約束、神の愛の交わりのしるしです。この「愛」の中に抱かれる限り、どんな闇も私達を包み込む事は出来ず打ち破られるのです。

5、主の愛の内に歩む時に闇夜は過ぎ去る

闇の中に「何が在るのか」が問題なのではなく「光」が無い事が問題なのです。世の闇路において問題なのは「何がそこに在るのか」ではなく「まことの光」の内に歩んでいない事が問題なのです。「まことの光」である神の愛の御手に包まれる時、どんな闇夜にあっても「まことの光」の内に闇夜は過ぎ去るのです。

ヨハネ1:5 『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった』

 

世に降られた神の御子キリストを通して約束されている「神の愛」に結ばれ、思いを新たにアドヴェントの日々を歩み出しましょう。

 

11/25 「暗闇に光を求めて」 民数記 24章14~25節 川内裕子牧師

1・なんとしてもその道に

ある朝、用事があって車に乗ると、車のナビに目的地と違う場所をしきりにナビされました。無視して運転していると繰り返しリルートされ、帰宅してから確認すると、夫がその日に出かける初めての場所をあらかじめ前日設定しておいた、とのこと。どうりで。

 民数記22章から24章はひとまとまりの記事です。モアブの王バラクがおびただしい数のイスラエルが迫って来ることに恐れをなし、神の言葉を語るバラムを呼んでイスラエルを呪ってもらおうとした出来事です。彼は何度王からイスラエルを呪うように、と言われても、イスラエルを祝福することしかできませんでした。主なる神以外の者にリードされても、神の言葉を語るようリルートされるバラムです。

 

2・メシアの待望

今日はバラムの託宣の最後の部分です。バラムはイスラエルの繁栄と祝福を語ります。また、同時にモアブがイスラエルから撃たれることも語ります。モアブがイスラエルに撃たれる、という託宣は、ダビデ王によって成就します。けれど、バラムの言葉には、彼自身も思いもよらなかった意味が隠されていました。「ひとつの星がヤコブから進み出る」(2417)は、後にはメシア(救い主)の預言と受け取られていきました。イスラエルの民はこのみことばに励まされ、メシアを待望しました。

 

3・暗闇に光を求めて

 今日から始まる世界バプテスト祈祷週間は、中国で宣教師として献身したロティー・ムーンの働きをきっかけとして始まったものです。今日は帯広教会においても日本バプテスト連盟から派遣されている働き人の紹介があり、祈りと献金をアピールが行われました。直接世界に宣教師として遣わされて行くことはできないけれど、このように協力伝道を行うことは大切なことです。

 先週の金曜日には新会堂を建築した苫小牧教会に、帯広教会から10名で引っ越しボランティアに伺いました。地域に証しする、という苫小牧教会の信仰を味わうことができて、感謝な出来事でした。これも協力伝道です。世界に目を向けながら、自分の住む地に軸足を置き、ここも世界として地域に仕えてゆきましょう。

 

 アドベントの時を前に、私たちは毎年ひときわ主を待ち望むときを繰り返し迎えます。どんな道を歩いていても神さまのもとにリルートされましょう。暗闇に光を求め、輝かす先ぶれとして、主に用いて頂けますように。

11/18 「恵みの約束」 民数記 14章1~10節 川内裕子牧師

1・カナンの偵察

 今日の箇所は、13章から続きの出来事です。荒れ野を旅するイスラエルの民は、主に命じられてカナンの土地に偵察隊を送ります。12部族の各部族から一人ずつ代表者が選ばれ、40日に亘って、カナンの地を偵察します。丁度葡萄が熟す時期で、ひと房刈り取った葡萄は棒に下げて二人でかつがないといけないほど大きく、豊かなものでした。

 

2・二つの報告

 偵察隊は帰って来てイスラエルの民に報告をします。12人のうち、ヨシュアとカレブの2人の報告と他の10人の見解は異なるものでした。10人の偵察隊はそこに住んでいるのは体の大きな強そうな人々で、自分たちに勝ち目はないと言います。一方ヨシュアとカレブは断然上がっていくべきだと主張しました。イスラエルの民は10人の悲観的な判断を受け入れ、嘆きます。

 両者の報告に共通するのは、「この土地は乳と蜜の流れる豊かですばらしい土地」であり、「そこには先住の住民がいること」です。一方両者の違いは、10人は「強い民族たちだから勝てない」、二人は「必ず勝てる」と。どこからこの違いが出てくるのでしょう。ヨシュアとカレブの言葉を読むと「もし、我々が主のみこころにかなうなら」「主があの土地に我々を導き入れ、土地を与えてくださる」「主に背かない」「主が我々と共におられる」と、二人の視点は主に向けられていました。他の10人とイスラエルの民は、目の前の民に恐れをなし、立ちふさがる障害に恐れをなしてしまいました。

 

3・主は初めから

先住の民がいることは、主がモーセに現れた最初に約束した時に明らかになっていたことです(38)。ただ豊かな土地であるだけではない、イスラエルの民は先住の人々がいるカナンの地に入っていくということ、それに伴う困難も初めから示唆されていたのです。苦難や困難の中にあっても、主に目を注ぎ、離れず、主の計画が成就することを信じることが大切だと知ります。

 

4・恵みの約束

 

 先週行われた日本バプテスト連盟の定期総会では、多文化共生の宣教に取り組む東京北教会の取り組みを「全国支援・地域協働プロジェクト」として承認し、支援を行うことが決まりました。帯広教会は「地域に根差した教会形成」をビジョンに掲げています。私たちの教会に与えられた宣教の課題に向き合い、主の恵みの約束を信じて、宣教に遣わされていきましょう。

11/11 「立つも座るも」 民数記 9章15~23節 川内裕子牧師

1)しるべなしでは

 先日本州から訪ねてきた友人が、帯広は自転車で町をサイクリングするのに、迷子になりそうだなあと言っていました。普通は目立つ建物などを道しるべにしながらサイクリングするそうです。帯広は碁盤の目で同じような街並みが続いており、覚えにくいとのことでした。

さて、出エジプトして荒れ野を旅しているイスラエルの民。道しるべの建物もない荒れ野の旅です。彼らの旅の道しるべとなったのは幕屋を覆った雲でした。

 

2)道しるべとも、時しるべとも

 その雲は、主が示したものです。出エジプト記(1322)を見ると、主は昼は雲の柱、夜は火の柱で民を導いたとあります。幕屋の上に立った雲は昼も夜もはっきりと行くべき道を示しました。そしてさらにいつ出発し、いつとどまるかという旅の時のしるべともなりました。民はその主の示しに、忠実に従いました。

 

3)「今」を生きる

 乳と蜜の流れるカナンの地に導かれるというゴールを示されながらも、民はどこを通って、いつそこに着くのか、わからない旅を続けたのです。「今」のことしかわからないまま。

 雲のしるべは、いつ動くかわかりません。出発は今日なのか、明日なのか。それとも何カ月も先なのか。そして、どの方向へと向いて出発するのか。絶えず続く日常を続けながら、民の心にはいつも雲のしるべへの注目があったことでしょう。主の導きは、今どうなっているのか。

 それは私たちも同じです。どこへゆくのか、いつゆくのか、あるいはいつまでなのか。私たちが人生を歩む中で必ず持つ問いでしょう。私たちはさまざまな計画を持ちつつ日々を歩みますが、本当のところは「今」を積み重ねつつ歩んでいるのです。

 

4)立つも座るも

 

 雲はイスラエルに先立ち、離れずに民を導きました。私たちが立つも座るも、主の慮りの中に入れられています。今主に従って歩んでいる、という時の積みかさねが私たちの道のりとなります。繰り返し主に祈り、問いを投げかけながら、今を導いてくださる主に信頼して歩みましょう。

11/4 「黄葉散り敷く下に」 Ⅱコリント 9章6~15節 川内裕子牧師

1)黄葉の秋を迎えて

5日間ほど仕事のため、北海道を留守にして関東に行っていました。帰って来ると見事な黄葉に迎えられました。北海道でずっと過ごしておられる方々はこの黄葉は普通のものと思われるでしょうが、この黄葉は当たり前ではない美しさです。赤、オレンジ、黄色の鮮やかなコントラストは、寒暖の厳しい土地ならではの色彩の恵みです。

 黄葉の林の中を散歩する機会がありました。柏の木があったのでどんぐりを探すと、ふかふかと柏の枯れ葉が積もった下にどんぐりをたくさん見つけました。また紅いもみじの木の周りには、小さなひこばえが一人前にもみじの葉を広げていました。たくさんの種がこの木の周りに落ちたのでしょう。赤や黄色の黄葉は、種の上にふかふかと散っては種が芽を出す肥しとなったに違いありません。

 

2)私たちに蒔かれた種

 今日の聖書の箇所は、パウロがコリントの教会を訪ねる前にあらかじめ書き送った手紙です。具体的には、エルサレムの教会へのコリントの教会からの献金を、準備しておいてくださいね、ということです。ここでパウロが強調していることは、しぶしぶでもなく(5)、不承不承でもなく(7)、喜んで(7)ささげることが大事だということです。

 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなた方に種を与えて、それを増や」す(10)と書かれています。ささげることに思いを注ぐ時、わたしたちはその前に、どれだけの恵みを神さまから頂いているかに思い至るでしょう。私たちの心の中に、神さまはびっしりと種を蒔いてくださっています。散り敷く紅い落ち葉のように、イエス様は私たちに伴ってくださり、神から頂いた種が芽ぶくようにと育ててくださいました。

 

3)芽ぶき育つ種は

 蒔かれた種は「あなたがたの慈しみが結ぶ実」(10)を結ぶとパウロは言います。私たちの頂いた種は周りの人々を潤す実りとなるのです。

 私たちの神さまから頂いた種が、呼び起こされ、豊かに芽ぶきますように。それぞれの種類に応じて様々な木々が成長するように、わたしたちもそれぞれ頂いた賜物に応じてそれぞれ異なった、豊かな実りを結びますように。

 

 黄葉散り敷く下に蒔かれた私たちの種が揺り動かされますように。

10/28 「豊かさは広がる」 Ⅱコリント 8章1~15節 川内活也牧師

1、コリント教会

新訳聖書時代、コリントという町はとても栄えた商業都市でした。その大都市にもパウロの熱心な伝道により教会が誕生しました。しかし「繁栄する大都市」の宿命とも言える社会道徳の乱れの影響はコリント教会の中にも及んでいました。パウロはコリント教会の中に生じている様々な問題や不道徳に心を痛め、度々手紙を書き送りコリント教会の悔い改めを促しました。その一部がコリントの信徒への手紙です。

2、今日の箇所の背景

この手紙が書かれた時期は西暦50年から60年の間と見られます。イエス様の十字架と復活・初代教会の誕生から20年ほどが経っています。パウロは伝道者としての召命を受けて当時の世界中に福音を宣べ伝える働きに立っていました。その働きの支えとなったのは初代教会である「エルサレム教会」です。その「母教会」がユダヤ人からの迫害にさらされて弱っているという情報が各地の教会にも伝わって来ました。各教会はエルサレム教会とその兄弟姉妹を援助する働きを行っていました。

3、コリント教会への勧め

コリント教会もテトスの下にこの支援に取り組もうとしていました。でも教会内での様々な問題が発生し、分裂や争いが生じ、自分達の事だけで手一杯になってしまい、すっかり「エルサレム教会支援」の働きを忘れてしまっていたのです。パウロはコリント教会との手紙のやり取りによって彼らが再び「信仰による一致」に向かったことを感じ、ここで「エルサレム教会支援」を再開するようにと勧めます。それは「真に豊かになるため」の勧めです。

4、豊かさは広がる

人は常に何らかの欠乏を抱えています。それが罪の性質です。だから「満たされたら分け与える」と言う限り「未だ満たされないから分けられない」となるのです。しかしイエス様は御自身を通してその「罪の欠乏」から「愛の満たし」への道を示されました。「受けるより与えるほうが幸い(使徒20:35)」と。その時に真に満たされた豊かさが広げられていくのです。

 

『各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります』第二コリント978

 

10/21 「愛は永遠に」 Ⅰコリント 13章4~34節 川内活也牧師

1、愛の賛歌

今日の箇所はその内容から「愛の賛歌」とも呼ばれることがある有名な箇所です。特に結婚式での勧め等でもよく用いられる箇所です。

2、「愛」って何?

「愛」について私たちは言葉をもってそれを完全に説明する術を持ちません。「愛してる」と語る時にそれを別の言葉に置き換えるとすればどのような言葉で表現出来るでしょうか?説明も表現も出来ないけれど「愛してる」という言葉以上に自分の思いを相手に伝える言葉は無く、相手の思いを感じられる言葉が無い事に改めて驚かされます。

3、「愛」のチェックシート

さて第一コリント13章は「愛のチェックシート」とも言われます。「愛は」の部分に「私は」を置き換えて読んでみた時に、果たして自分には「愛」があるだろうかと問われるからです。そして全ての人は気付かされます。「私には愛が無い」と。

4、裁くためでなく

私たちが「自分には愛が無い」と落ち込むために、また、誰かを「愛が無い」と断罪するためにこの言葉が聖書に記されているのではありません。聖書の御言葉は全て「神の愛」に人を導くための招きの言葉なのです。

5、神は愛なり

Ⅰヨハネ4章7,8節において「神こそが愛である」ことを知らされています。私たち自身は『愛そのもの』ではありません。しかし『真実の愛である神』から生まれた(創造された)存在です。月が太陽の光を受けて闇夜を照らす光とされるように、神の愛を受ける時に罪の闇の世に在って愛を照らしだす「世の光」とされるのです。

6、神が現わされた愛

Ⅰコリント13章の「愛」は、神御自身が私たちに現わされた「愛」の姿です。私たちの「愛」は時に満ち欠けする事もあるかも知れません。しかし、真実なる神の愛は永遠に変わることなく私たちを照らし、包み、共に歩んで下さることを覚え、神の愛を世に現わす光とされて歩み出しましょう。

 

10/14 「心を高く上げよう!」 使徒の働き 16章25~34節 麦野達一師

自己紹介

鹿児島の伊集院教会の牧師。伊集院教会を開拓したのは祖父の麦野七右衛門牧師。それを父の麦野賦牧師が引き継ぎ、現在は三代目。町の人たちからは「世襲ですか?」と言われることが多いが、決してそうではない。

パウロとシラス

パウロは言わずと知れたキリスト者の迫害者だった。しかしキリストとの出会いによって劇的に回心し、キリストを伝える者となる。シラスはパウロの伝道旅行に同行した人物で、信仰と信頼の篤い人。

フィリピの女奴隷

二人は占いの霊にとりつかれている女奴隷に出会う。奴隷は主人にとっては「モノ」価値があれば手元に置かれ、なくなれば売り払われる。この女性には占いという価値があった。しかしパウロの宣言によって女性に取り付いていた霊が出て行ったため怒った主人たちはパウロとシラスをローマの役人に訴え、二人は投獄される。

牢獄の中の賛美

暗闇の中で二人は失望しなかった。神を賛美していた。周りの囚人たちはそれを「うっとり」と聞いていた。二人が歌った賛美はどんなものだったのか?想像力を駆り立てられる。

大ピンチ、でも・・

大地震が襲う。しかし囚人は逃げない。なぜならパウロとシラスの姿に「何か」を感じたから。逃げるよりも素晴らしいことがあるはず。囚人が逃げたと思いこんだ看守は自害しようとするがパウロがそれを止める。そして主イエスを信じる事を勧める。それぞれにピンチにあったものがキリストへの信仰によって救いを受ける。

心を高く上げる

パウロ・シラスと看守は囚人と看守という関係から、キリストを信じる信仰者同士という関係に変わった。教会は光のありかがどこかを知っている人々の集まり。それは主イエスの中にある。だから教会の心はいつも高いところへ向かう。教会の歩みはいつも主イエスに向かっている。

 

 

10/7 「原点」 第一コリント 1章18~31節 川内活也師

1、教会の働き~伝道~

キリスト教会の使命とは何でしょう?キリスト教会は様々な社会貢献の活動に参与してきていますがそれらは「福音に生きる者の大切な務めの<一つの形>」です。「教会に委ねられている主からの使命」それは「永遠のいのちである神との交わりから絶たれて死と滅びに定められていた人類に与えられた神との和解・救いの道」を宣べ伝えるという<伝道>の働きです。

2、信仰は「愚か」な真理

クリスチャンとは世の価値観で言うなら「信じられない」ものを信じるという愚かさの中に真理の信仰を得た者です。賢い者であったから、優れた者であったから神の救いの御業・福音を受けたのではない、それこそが「神の知恵」であると聖書は語っています。

3、信じる信仰により義とされ

パウロは聖書をしっかりと学んでいた人物です。しかしその学びによって「神の福音」を得たのではないという事実が、彼の宣教の原点となっています。パウロは「学んで理解したから・優れた能力があったから救われた」のではなく、ただ「信じる信仰によって義とされた」という原点に立ち続けた福音の証し人です。その原点・神の知恵は今も変わる事がなく「地のちりに等しき、世に在っては無価値とされるような存在」である者を「高価で尊く愛する存在=我が子」とされる神の愛へと結んで下さる福音の真理によって私たちは「信じる信仰」へと招かれたのです。

4、自分自身が証しとなる

 

パウロは「私のようになって欲しい(使徒26:29)」と語り、サマリアの女は自分の身に起こった不思議な出会いを語りました(ヨハネ4:39)。難しい言葉や理論や証明や神学ではなく、ただ「私は主に触れられて新しく変えられた」という事実こそが宣教の証しです。その証しは牧師や教役者、役員や信仰歴の長短に関わらず全ての信仰者に与えられている神の知恵です。この「主との出会い」という<原点>に堅く立ってオープンチャーチを始め教会の諸集会が「伝道の働き」として用いられることを信じ、共に福音の証し人としてこの一週を歩み出しましょう。

 

9/30 「その手から漏れる者なく」 レビ記 19章9~18節 川内裕子師

1・わたしと隣り人

 隣人関係について、さまざま記されている箇所です。貧しい人々や寄留者に収穫物を残しておくこと、隣人に嘘をついたり、盗みを働いてはならないこと、不正な裁判を行ってはならないことなどなど…です。人々の生活に密着した、細かな事柄が列挙され、人が生きていく上で、互いを尊重し率直な人間関係を結ぶよう語られます。隣人と私の関係を考える時、その関係をどこからとらえるか、ということは大切なことでしょう。

 

2・神さまとわたし

 この記述の最初にさかのぼると、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。(19:2)」と書かれています。人と人の関係は、神と人との関係が基本であるのです。人と人の関係を、人と神との関係にあてはめるのではなく、神と人との関係を人と人との関係にあてはめて考えるのです。

 

3・神さまはわたしに

 では神さまはわたしにどのように対してくださっているでしょうか。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(19:18)」とあります。この戒めは人々に最も大切な教えと考えられてきました。新約聖書の中でも、イエス様ご自身もこの教えを口にします。この教えは、「自分のように隣人を愛しなさい」という意味です。まさにこの通りに私たちを自分のこととして愛してくださったのがイエス様です。神さまは私たちに自分のように隣人を愛する、ということを、身をもって示して下さったのです。

 

4・その手から漏れる者はなく

 

 隣人との関係の教えを見る時に、ないがしろにされやすい関係について配慮するよう言われていることを知ります。たとえば910節には自分の畑の収穫物を取りつくすことのないようにと言われています。落ち穂や、落ちたぶどうの実は貧しい人々や寄留者のものであると言われます。神さまは土地を持たない人々に対しても、その人の生を忘れることはありません。神さまの救いのみ手から漏れてゆく人はいないのです。私たちもまたこの世にあって寄留者であることを思い起こします。私たちも神さまの御手からとりこぼされることはありません。そして神さまとわたしとの関係を心に置く時に、わたしとあなた、という隣人の関係に新しい光が投げかけられるでしょう。

 

9/16 「どうぞ、いっしょに」 レビ記 7章11~27節 川内裕子師

1・主に近づく時

 今日もまた、私たちはおのおのさまざまな思いを持ってこの場所に集められていることでしょう。イスラエルの民も、主に近づき、向かい合っていく状況はさまざまです。レビ記1章~5章では、5種類の献げ物について語られています。3章では和解の献げ物について記されています。

 

2・和解の捧げもの

今日ご一緒に読む聖書の箇所では、和解の捧げものについて、もう少し詳細に記されています。和解の捧げものを表す言葉には、シャローム(平和)と同じ語源の語がつかわれています。「平和の捧げもの」と言うこともできます。この捧げものがささげられる時は、喜ばしく、楽しい状況です(申命記27:7など)。和解の捧げものは、他の捧げものとは違うことがあります。和解の捧げものは、民が犠牲にささげたものを食べることができる唯一のものです。

 

3・一緒に食べる

以前鹿児島の教会にいた時に、小さな子どもと育児者の会を行っていました。そこで大切にしていたことの一つは、一緒に食事をする、ということでした。共に食卓を囲み、食べ物を分かち合うことは、同じものを身のうちに取り込み、糧とすることでもあります。食卓でやり取りされることは、単なる食べ物だけではなく、共に過ごす時間や思いも、なのです。

 

4・どうぞ、いっしょに

 和解の捧げものは、主に脂肪と血とがささげられ、主もまた共に食卓を分かち合って主と共に食卓を囲む時です。同時に、捧げものを捧げた人々が、その友人たちや家族たちと食卓を囲むことでもあります。人々は主から頂いた恵みのうちから捧げものを携え持ってきます。

 

 私たちもまた、主から頂いた多くの恵みを数えます。礼拝に私たちが携え持ってくる心と体、時、すべてのものは、私たちが頂いたものの内からの主への捧げものです。礼拝でささげられる賛美、祈り、み言葉への応答も主への捧げものです。私たちは互いにささげたものを分かち合い、感謝しまたそれぞれの場へと新しい一週間を遣わされていきます。ささげるに倍する恵みを頂き、どんな時も共に歩んでくださる主に感謝しつつ。

 

 

9/9 「割増しも割引きもなし」 レビ記 2章1~16節 川内裕子師

1)一緒に座ることの喜び

 先週6日未明に起こった地震では、十勝地方では主として停電による被害が大きく、その生活にはさまざまな困難がありました。今日の召詞(詩編133)に歌われる通り、兄弟、姉妹が共に座って礼拝を捧げることのできる喜びをしみじみと感じます。

 停電の夜、灯りのない真っ暗な外で空を見上げると、満天の星空でした。世界を創られた神さまの御手の業の大きさを知り、小さな私たち一人一人の存在も神さまの創ってくださった世界の上に乗っているのだなあと実感しました。

 

2)私たちの土台

 地面は揺れますが、私たちは変わらぬ神さまに土台をおきます。レビ記にはイスラエルの民が神さまにどのように向かい合い、ひいては自分がどのように生きてゆくのか、ということについて語ります。

 

3)酵母を入れず、塩を加える

 レビ記2章では、穀物の捧げものについて、「酵母を入れない」と何度も語られます。腐敗を避ける目的があったと言われています。酵母が入らず、膨らまないささげ物は、本来ささげる物の姿通り、割増しされないものです。

 また、穀物の捧げものには必ず塩をかけるようにと言われています。塩は酵母とは逆に物の腐敗を防ぐ働きをします。ささげるものがそのままの状態でささげられることを意味します。

 

4)割増しも割引きもなし

 地震後の停電生活を送る中、比較的早く教会は通電しました。近所の方々に教会を開放し、充電や休憩に使って頂きました。状況が分かって来るにつれて、もっと何かできるのではないか、と自問しつつ、頑張れない自分の限界も感じました。以前他の教会の掲げるテーマに、「無理しない、楽しない」というものがありました。私たちの存在を、割増しも、割引きもしないで神さまの前に出て自分を捧げて用いていただくことの大切さを思います。自分の手に負えない事柄の前で様々な思いはあふれますが、それらに揺るがされず、どんな時にも神さまの手の守りの中にあることを信じて、今を歩みましょう。

 

 

9/2 「渇きの中で主を味わう」 詩編 34編1~23節 川内裕子師

1)「貧しい人」とは

 「どのような時も、私は主をたたえ、私の口は絶えることなく賛美を歌う」と、この詩は始まります。主への心からの賛美を、いつも、いつもと歌います。そしてこの賛美は「貧しい人」に対して、共に主をたたえよう、と呼びかけられます。

この「貧しい」の言葉のもともとの意味は、体が折れ曲がって身を低くしている姿を表します。有形、無形の重荷を背負い、その重さに打ちひしがれている人々が「貧しい人」です。私たちが自分自身の体験を振り返った時に、そのような重荷を負わされている時に主をほめたたえるのは難しいような気がします。

この詩の本意はどこにあるのでしょうか。

 

2)「貧しい人」が声を上げると、主は聞かれる

  この詩の初めには「ダビデの詩…」と記されています。これはおそらくサムエル記上20~21章の出来事を踏まえたものでしょう。「アビメレクの前で」、とありますけれど、サムエル記を読むとちょっと違って、アヒメレクのところの後に訪れたアキシュの前での振る舞いです。サウル王から命を狙われ、着のみ着のまま逃げ出したダビデが、命をつなぐためにガトの王アキシュのもとで正気ではないふりをして捕えらたところを切り抜け、アドラムの洞窟に逃れてゆくのです。命をつなぐために偽ってパンを譲り受け、自分の身を偽らなければならなかったダビデは、重荷を背負わされた「貧しい人」の一人であったといえるでしょう。

 58節には、貧しい人の叫びを主はそのままに捨て置かず、その求めに答え、救い、聞き、守ってくださったことが歌われます。その確信があるからこそ、私たちもまた主に声を上げることができます。

 

3)主の恵み深さを味わう

 主を賛美するのみならず、主の恵み深さを「味わい」、そして「見よ」と勧められています(9)。「味わう」という言葉に、主の恵みを口に入れ、自分の身のうちに取り込むイメージを抱きます。私たちは飢え渇きを持っているからこそ、口にする食べ物の美味しさを知ることができます。「貧しい人」だからこそ、主を賛美する恵みを知るのです。

 

4)共に味わう

 一緒に主をたたえよう、と、この詩は呼びかけます。この恵みを共に味わおうと歌います。私たちの礼拝はこのようなものです。主の確かな助けを知る者同士、一緒に礼拝をし、恵みを分かち合おうと詩編は歌います。

 

8/26 「恐れることなく」 詩編 27編1~14節 川内活也師

1、「余裕のない状況」での詩

ダビデが歌った他の詩編と比べても「余裕のない切羽詰まった厳しい苦しみ・恐れの最中に在る」ことをうかがい知ることが出来る27編です。しかし、それでもなおダビデは「主への賛美」としてこの詩を記しています。ダビデの主への信頼の人生こそが「神賛美」なのです。

2、交わりの確信

パウロの信仰告白はローマ書8章30~39節にみる事が出来ます。「私()を神の愛から引き離すものは何も存在しない」。神との愛の交わりに在るという強い確信は時代は違えどダビデと同じ主と共に在るという確信です。

3、しかし襲い来る恐れ

それでもなお「恐れ」は迫って来るものです。人は世に在る限りこの「恐れ」と向き合いながら人生を歩み続けるしかないのです。しかしその「恐れ」を絶対的な永遠の力として恐れに支配され続けるか、それとも「一過性の滅びゆく力」として向き合う事が出来るか、そこが「主への信頼」によって与えられる平安への分かれ道なのです。

4、命の砦との隔て

ダビデは主との交わりに在る事を「命の砦」と表現しています(1節)。神の愛に結ばれた交わりこそが「命の砦」「主の宮」に住まう平安である、あらゆる恐れからの逃れ場なのです。しかし、その「砦・宮」に入る事を妨げる「隔ての壁」があります。それが「罪」です(イザヤ59:1~2)。

5、悔い改めにより

「恐れ」に勝利する道は「主への信頼」によって与えられる平安です(Ⅰヨハネ4:18)。しかし「罪」は隔ての壁として立ちはだかります。十字架において赦しと御自身の愛を示された主を信じ「恐れる事無く」罪を告白し、悔い改める時、この隔ての壁は取り除かれるのです。

まことの悔い改めによって主の愛に結ばれた者は「命の砦」への道が常に開かれています。世にあってはあらゆる「恐れ」が襲い来るでしょう。しかし、立ち返るべきいのちの砦が常に在る事を覚え、恐れること無く歩み出しましょう。

 

 

8/19 「主の教えは完全で」 詩編 19編1~15節 川内活也師

1、造り主への賛美

詩編19編は前半で創造主である神さまを賛美しています。これは「天地万物の造り主はあなたであることを信じます」という信仰告白に立つ賛美です。

2、「被造物」から聞く神存在

パウロは神の創造の御業によって創られた世界、被造物を通して神は御自身の存在を世に示されているからこそ、神を知っている者も未だ知らない者も、その被造物を通して神の存在を「聞く」ことが出来ると語っています。

3、騒音により掻き消される声

しかし世の「騒音」は天地創造の神の大いなる御業、無限の力、約束の将来と希望の御声を妨げてしまうのです。

4、主の御言葉に聞く

 「人の手によって作られた造形物」の騒音を基準とする価値観から離れて主の御言葉に聞く時、神の御手によって創造された世界を見る目が開かれ、天地万物の造り主である主なる神さまを基準とする価値観へと生きる者とされるのです。

5、主の教えは完全で~無から有を創られる神~

後半8節以下は「無から有を創造された主なる神さまであるからこそ<完全な贖い>を成し遂げられる方である」という信仰宣言です。世の様々な騒音から離れ主の造られた世界へと耳を開き、心を開く時、果てしなく広がる「創り主である神の世界」を見出す信仰の目が開かれます。それは金よりも銀よりも価値のある「まことの知恵」という宝物です。

6、信仰により創られる日々

聖書は「無から有」を創造された主こそが唯一のまことの神であると証言しています。私たちは「天地の造り主であるまことの神」を知る信仰に生きる者です。だからこそ目の前に解明出来ないもの・理解できないもの・何一つ可能性という材料が無い「無」の状況に在っても「無から有を創造された主なる神」が共におられるという信仰によって今日を・明日を、主の御手に導かれつつ新しく創り上げていく日々を歩むことが出来るのです。

主が創造される新しいこの一週を期待して共に歩み出しましょう!

 

 

8/12 「主、共にいませば」 詩編 10編1~18節 川内活也師

1、世界遺産

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が今年6月に世界文化遺産に登録されました。商業ベース・観光ベースの価値観からの登録決定ですが、信仰弾圧の歴史を知るキリスト者の1人としては喜んでいます。

2、キリシタン弾圧

豊臣秀吉以降、国家による「キリシタン迫害・弾圧・排除」という恐怖支配が明治初期まで続きました。この「キリシタン弾圧」を題材として作家の遠藤周作は「沈黙」という作品を発表しました。その内容は教会内でも賛否両論が語られるものですが「神の沈黙」は信仰者にとって常に心に留めるべき真理です。

3、人の叫びと神の沈黙

詩編10編の1節はまさに「神の沈黙」に対して叫び求める祈りの言葉です。この苦しみ・嘆きの最中にあって「主よ、なぜ遠く離れて立ち…隠れておられるのか」という訴え。「神の沈黙」に対する嘆き・叫びの祈りは歴史の中で繰り返されて来たのです。

4、不信仰ではない信仰の祈り

神への叫び・訴え・祈りを時に「不信仰だ」とする考えもありますが「神が共におられるが故に神に叫び・訴え・祈る」のですからこれはまさに信仰者の姿そのものです。

5、祈りは効かれるものでなく聞かれるもの

自分が思い描いている要求がかなわない時、人は「神が聞いて下さらない。沈黙されている」と感じるのです。しかし神は願いをかなえる御用聞きとしてでなく、共に「在って在る」ものとしてその嘆きを叫びを呻きを聞き、そして、語り続けて下さっているのです。

6、主、共にいませば

答えが聞こえないのは自分の叫び声が大きいからかも知れませんが、それでも世の不条理と感じる出来事、恐れ、悩み、悲しみ、苦しみ、欠乏を、主が共におられるという約束を信じて叫び祈る時、主が「語り続けて下さっている」声を聞く信仰の耳が開かれるのです。

 

 

8/5 「平安(シャローム)」 詩編 3編1~9節 川内活也師

1、ダビデの賛歌

「ダビデ」という一人の人物が主との交わりに結ばれて生きる人生においてどのような信仰生活を歩んだのか、詩編の中でその証しが賛美として綴られ、その証しが今日を生きる私たちへの神さまからのメッセージとして与えられています。

2、激動の王ダビデ

ダビデは古代イスラエルの第二代目の王さまですが、彼の人生は王に即位するまでも、即位してからも激動の戦いの日々でした。今日の箇所もそのような状況の中にある日々を歌ったものです。

3、ダビデの詩の「型」

ダビデの詩の多くは先ず「現状の苦しみの訴え」から始まり「主への信頼」を告白し「神賛美」で結ばれるというひとつの「型」があります。ダビデの詩は信仰者の信仰生活の中に生じる日常的な祈りと賛美の姿を示す証しでもあるのです。

4、平安(シャローム)の内に

6節で「身を横たえて眠り」とダビデは歌います。これは完全な「平安(シャローム)」の証しです。イエスさまがヨハネ14章27節で語られた「平安」は、まさにダビデが信仰告白する「敵の追撃の最中にあっても身を横たえて眠る」という主への全ったき信頼に生きる平安です。

5、全ったき愛は恐れを締め出す

平安は主なる神への完全なる信頼の内に湧き上がるいのちの泉です。この「神の愛」の交わりの内に結ばれる時、目の前に在る恐れや苦しみ・悩み・悲しみの中に恐れおののく日が在ったとしても、しかし私たちは「身を横たえて眠る」平安(シャローム)の中を歩み続ける者として主の御手の内に支えられるのです。

6、主の愛の内に平安在り

 

神の愛の内に在る者であるという約束を信じる信仰の内に歩む時、世の全ての力に打ち勝った主イエス・キリストの約束の平安(シャローム)の日々を私たちは歩み続けるのです。

 

7/29 「愛は、神の無力さの中に」 ルカによる福音書 15章11~32節  澤田二穂兄

序 最近、多くの国では、強権(パワー)を行使する指導者が多く輩出し、また社会組織の各所で、パワハラなどの人権問題が表面化している。他方、本日の「譬え」は、どうであろうか?

1. 父を離れた弟息子(15:12-

弟息子は、父親から財産の生前贈与を要求しそれを得て換金し、遠く異邦の土地に行くが、不品行を繰り返し、一切を失うことになるが、我に返り、悔い改めて父のもとへ帰還する。経過において、父親は強権(パワー)を一切行使しない。彼を愛すると決心したからである。

2.兄息子の無理解な批判(15:25-

 兄息子は、父親のやり方が理解できず、怒りをあらわに訴える。兄息子は、表面上はまじめに働いていた。しかし父親は、内面では愛とはかけ離れた「自分の測り」で人を審き、メリットのあるなしなどを基準に従っており、親子関係も失っていたことを知っていた。兄息子は自己絶対化、つまりは、「自分の腹を神とする」(フィリッピ3:19)傲慢に陥っていたのである。父親は、ここでも一切パワーを行使せず、愛と優しさを込めて「子よ」(15:30)と兄息子に呼びかける。譬えはここで終わっている。

3.イエスの十字架に見る無力な全能者.

イエスは、この譬えにより「父なる神の愛の本質」を語り、その愛を生き、その愛を示しつつ十字架で死んでいかれた。イエスは十字架において一切の自己保身的なパワーを使うことはせず、無力になられた。それは、イエスが、「弟息子ような人々」も「兄息子のような人々」も共に「愛する」と決心したからである。

結語:愛は、神の無力さの中に

「全能の神が無力になる(逆説的な表現)」、そこに神の愛と救いの特徴が隠されている。神はイエスにおいて人を愛される時、パワーを駆使せず、むしろ無力となって、人を無条件・無制約に(惜しみなく)愛するのである。

 

わたしたちは、神のその愛に出会った時、招かれる喜びの宴に赴くのみである。その「心意気に触れ」て歩み出すのである。それが神への応答、信仰だからである。

7/22 「ねたむほどに」 出エジプト記 34章1~16節  川内裕子牧師

1)主の自己宣言

 出エジプト後、早くも主の元を離れ、金の子牛を拝む民。それに対して十戒を再び与え、思い返して民を憐れんでくださる主なる神の姿が記されます。今日の聖書の箇所では、主ご自身が、自分は何者であるか、と自己宣言をなさる所が二か所あります。

 

2)恵みと裁き

 一つ目です。主は、恵みと憐れみに富み、幾千代にも及んで罪と背きを赦す、という赦しの宣言と共に、父祖の罪を三代、四代まで問うと語られます(67)。親子4代にわたって家族として住んでいた民たちにとって、父祖の罪は自分も行ったことでもあります。各自の罪は罪として問われながら、しかし幾千代…限りなく赦す、と言われているのです。

 

3)「私は熱情の神」

 なぜそのように神は民を赦して下さるのでしょうか。二つ目、神はご自身のその愛を、「熱情の神」と言い表します。人の心が他に向いていたらねたむほどの激しい愛を私たちに向けているということです。神からの戒め、契約は神の愛に基づいているのです。

 

4)取り戻された私たち

 エジプトの奴隷の地から、イスラエルの民が導き出されたことは、神が民を自由へと取り戻してくださったことでもありました。

 神はご自身と人間との関係を「わたし」と「あなた」の関係へと導き出してくださり、私たちを神と人格的な関係の中で生きるようにしてくださいました。

 

 何度もなんども呼びもどし、赦してくださり、ついには御子イエス・キリストを遣わして下さった主の愛のうちに生かされていきましょう。

7/15 「共に生きる」 出エジプト記 23章1~13節  川内裕子牧師

1)民と主との契約

 十戒を民に与えた後、主との契約が続きます。およそ3章に亘る契約のほとんどは、他者との関わりについて書かれています。これまでの生活から一転してエジプトから出て荒野を旅することとなった民にとって、一緒に旅をする隣人との関わり方、共同体をどのように構成するか、ということは急務の事であったでしょう。

 

2)多様な隣人関係

 裁きの場にあって正しくあること。敵対するものの困難の時に手を貸すこと。貧しく、弱い立場にある人々を裁きの場で不当に扱わないこと。6年耕作した後の7年目は安息年として乏しい者のために耕作地を解放すること。安息日には仕事をやめ、家畜や奴隷、寄留者が休息を得る時とすること、など。

 

3)寄留者であったから

 乏しいものや奴隷、寄留者の扱いについてここでは紙幅を割きます。いずれも主人や、庇護するもののもとでのみ、自分たちの処遇が決められる人々です。それらの人々の正義を曲げず、適切な保護をすることがここで求められています。

 その根拠は、「あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったから、寄留者の気持ちを知っているから」ということでした。エジプトにいた時、ファラオの心ひとつで自分たちが生死の境に立ったことを、イスラエルの民は骨身にしみて知っていたはずです。

 

4)寄留者として。同時に神の家族として。

 私たちもこの世にあっては寄留者です。なぜなら「わたしたちの本国は天にある(フィリピ320)」からです。しかし、同時に神の家族なのです(エフェソ219)

 昨日インドネシアに派遣されている野口日宇満宣教師、野口佳奈宣教師の報告会が帯広教会で行われました。イスラム教徒が87%、プロテスタントのキリスト教徒7%という宗教比率の中で、寄留者としてインドネシアに遣わされ、キリスト者である確信のもとに宣教の業に励んでおられる実際を伺いました。

 

 私たちも、今遣わされている場で、寄留者として、神の家族として、隣人と共に歩む道が開かれています。

 

7/8 「行き止まるとき」 出エジプト記 14章1~14節  川内裕子牧師

1)絶体絶命

 やっとのことでエジプトを脱出したイスラエルの民です。旅は始まったばかりですが、イスラエルの民を手放したことを後悔したファラオが、総力を挙げて追いかけてくるというピンチが迫ります。前は葦の海、背後にはエジプト軍という絶体絶命の状態に、民は行き詰まり、主に叫び、モーセに抗議しました。

 実はこのことは神さまの指示でした。戦うことを余儀なくされるペリシテ街道を避け(1317)、道を引き返して海の前に宿営するようにと主は命じましたのです(141)

 

2)落ち着いて、主の救いを見なさい

 逃れようもないと思われる危機に際して平静を失う民に、モーセは「恐れるな、落ち着いて主の救いを見よ。主が戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と語ります。

 その後、葦の海を分けてその間を民が渡ってゆく、という出来事が起こるのです(1419)

 

3)行き止まりから始まる

 十分な準備の時間もなく、取るものとりあえずエジプトを脱した民に、試練や苦難はつきものだったでしょう。神さまが開いてくださった行き止まりの道を、民自身が踏みしめて歩いてゆくことは、神への応答の初めでした。

 もう駄目だ、と私たちが嘆く目の前に神さまは道を開いてくださいます。

 

4)いのちを生きる

 しかし、危機の中にあって、「恐れず、落ち着いている」ことは何と難しいことでしょうか。先週から降り続く雨によって多くの命が失われ、人々が危機にさらされていることをはじめとして自分の身をこそがれるようなことが続いています。ファラオの命令によってイスラエルの民を追わされ、海の水に飲まれたエジプト兵の記述を平静に読むことができません。

 現代のユダヤ人の「過ぎ越しの祭り」には、命を落としたエジプト兵たちへの祈りなどを取り入れていることがあるとも聞きました。

 損なわれるいのちへの嘆きを失わず、私たちの絶望の前に道を開いてくださる主に信頼して歩みましょう。

 

 

7/1 「主の贖い」 出エジプト記 12章21~28節  川内裕子牧師

1)主の過ぎ越し

 エジプトで強制労働に苦しんでいるイスラエルの民を救い出すため、主は9つの災いの後、初子を撃とうとされます。イスラエルの民は、小羊の血を鴨居と二本の柱に塗りました。真夜中に人から家畜に至るまで初子をうたれた時、その血の印を目印として主はその家を通り過ごしました。エジプトの人々は、イスラエルの民に出て行くように頼み、とうとう民は根こそぎ出て行きました。

 

2)全ての家で命は流された

血は命そのものを表します。エジプト中の初子がうたれ、イスラエルの民の間は通り過ぎられました。けれどもイスラエルには何の犠牲もなかったわけではありません。初子の代わりに、小羊が犠牲となったのです。どの家にも、命の犠牲があったのでした。しかし、イスラエルの人々はそのことによって、奴隷としてつながれていたエジプトの地から救い出されたのです。

 

3)主イエスの贖いによって

イスラエルの民は400年前、飢饉を避け、命をつなぐためにやってきたエジプトで、いつしか命と体をつながれ奴隷とされていました。その嘆きは主に届くほどでしたが、目の前の苦しみのあまり主の救いの約束に耳を傾けることもできませんでした(出6:9)。心までつながれていたのです。

私たちも、はじめは自分を生かし楽しむものとして様々なものに引かれていきます。ところが、自分が対象をコントロールしているつもりでいたのに、いつの間にか逆に捕らわれ、コントロールされている場合が起こり得ます。目にみえるもの、見えないもの、些細なこと、人生の生き方に関わることまで、さまざま私たちは多くのものに捕らわれて生きています。主は、あなたがあなたとして生きるようにと呼ばれています。そのためには捕らわれを断ち切られ、主に向き直り、主の解放の導き出しに従うことが必要でしょう。小羊をとり、その血を印とすることが必要なのです。

主は独り子イエス様を私たちのための犠牲の初子としてくださいました。イエス様の十字架の血によって、私たちは主の過ぎ越しを得たのです。私たちは自分自身の捕らわれから、イエス様によって自由にされ、主に贖い取られたのです。主に向き直ることは、主に従い歩む道であり、解放の道を主と歩むことです。

 

4)私たち自身の決断

 ところで、イスラエルの民と共に、他の民族も出エジプトしたと思われます(出12:38)。イスラエルの民ではない人々も、主の業を見て、これこそが自分を解放して下さる神である、と信じ従ったのです。それらの人々は鴨居と柱に血を塗る意味をきいたのかもしれません。そして自らも同じように行い、主の過ぎ越しを受けたかもしれません。主への畏れと信仰が、エジプトにいた様々な民族の中で起こったのです。主はそれらの人々をもイスラエルの民と共に解放し、導きのぼりました。

 

私たち自身も自分自身が主に向き直る、という決断によって主と共に歩むことができます。主は誰をも招いておられます。私たちは内に、外に、イエス様の贖いによって生きている者であることを証しし、歩む人生へと招かれています。

6/24 「信仰の杖」 出エジプト記 4章10~17節  川内活也牧師

1、モーセ

出エジプト記はそのタイトル通りエジプトで苦役を強いられていたイスラエルの民が神さまの導きの中で解放され脱出した記録の書です。神さまは「約束の地」へとイスラエルの民を導くためにモーセを選び立てられました。1~2章ではモーセの生い立ちと「犯罪歴」「逃亡の記録」が記されています。

2、神の働き人としての召し

モーセはおよそ40歳の頃に「殺人罪」から逃れるためにミデヤンの地へ逃亡しそこで40年を過ごしました。モーセは80歳となり人生の終焉期を感じていた頃に神さまからイスラエルの民をエジプトから脱出させる働き人としての召しを受けたのです。

3、モーセのトラウマ

モーセは若い時にエジプト兵による同族への虐待を見て義憤にかられエジプト兵を殺害したという過去があります。イスラエルの解放を願う義をもっての行動でしたが彼の行動はその同族に受け入れられることはありませんでした。この事はモーセの「トラウマ」になってしまいました。

4、召命の喜びと苦しみ

日常の中の「寄り道」の先でモーセは神さまからの召命を受けました。しかし「イスラエルの解放という義」の業を喜ぶよりも、彼は過去のトラウマから「自分がそれを成さなければならない」という責任に恐れおののきます。

翻訳された聖書を読むだけでも神さまがどれだけ辛抱強くモーセに語りかけているかが読み取れます。そしてモーセがいかに「責任を負いたくない」「恐ろしい」とおびえているのかも読み取れます。モーセは「自分の経験」からイスラエルの民とエジプトの王を恐れたのです。

5、共なる神~~インマヌエル

3章12節で「最初の招き」に臆するモーセに神さまは「わたしがあなたと共にいる」という約束を語られました。モーセはこのあと4章までの間に繰り返し弱音を吐き、恐れ戸惑い、召命を拒もうとしますが、最終的には神さまの召しに「押し切られて」しまいます。「共におられる主」であるからこそ、神さまはモーセの弱さと恐れの現状を知っておられて尚、ご自身が与えられている召命と賜物を用いてイスラエルを導く指導者として招かれ続けたのです。

6、信仰の杖をもって

過去のマイナスな経験やトラウマ、不備・不足の現状から「ムリだ・ダメだ」と下す自己判断。しかし「共におられる主」はそんな私たちを誰よりもよく知られた上で「わたしがあなたを遣わす」と、想像もしていなかったような主の働きに召されます。

今月は帯広教会の創立記念月間として歩んできました。初代牧師の斎藤正人先生をはじめ多くの兄弟姉妹が主に遣わされたこの地で主の宮を建て上げ、福音の証しを成し、世の光・地の塩として歩んできました。その教会形成・信仰生活の中にはモーセのように「ムリだ・ダメだ・自分には出来ない」とつぶやく日もあったかも知れません。しかし「共におられる主」を信じる信仰の杖を持ち歩み続けて来たのです。

これからもまた私たちは共におられる主を信じる信仰を杖として歩み続けましょう。

 

 

6/17 「主の晩餐」 マタイによる福音書 26章26~31節  川内活也牧師

1、礼典

プロテスタントのキリスト教会では「主の晩餐(聖餐)式」と「洗礼(バプテスマ)」という2つの礼典を大切な「しるし(証し)」として守っています。教派・教団・教会によってそのやり方に多少の相違はありますが、今日は「主の晩餐式」についてみてみましょう。

2、過ぎ越しの食事

預言者や教師は真理を伝える際により印象深く伝える方法として象徴的行為を示しました。主の晩餐はユダヤ三大祭りのひとつである「過ぎ越しの祭り」の中でイエスさまが弟子達に示された特別なメッセージです。

3、象徴されるもの

過ぎ越しの食事はユダヤ社会において「出エジプト」の出来事を想起する祭りで重要な行事です。苦役からの解放をどのように与えられたのかを子々孫々に語り継ぐという「神の解放の御業を永続的に伝承する信仰告白」です。イエスさまは御自身が「永遠の解放者」であることを示され、「贖いの小羊」であることを示され、救いの道・いのちの道へと導かれる約束を示されました。

4、相応しく無い者が…

いわゆる「最後の晩餐」に与った弟子達の内にこの贖いのしるしに「相応しい者=当然の権利として受けられる者」はいませんでした。神の救いの御業は一方的な神の側からの「愛」による招きなのです。その愛の招きにより「相応しく無い者(権利無き者)が相応しい者(愛されし者)」とされたという神の愛の事実を信じる信仰によってのみ、主の晩餐は意味ある真理のメッセージとして受けとることが出来るものなのです。

5、代々に渡って

今月は帯広教会創立記念月間です。教会の誕生以来継承し続けて来たこの「主の晩餐」に顕わされている救いのメッセージを、これから後も変わらずに信仰をもって告白し続ける群れであることを覚えて歩みましょう。

 『だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです』Ⅰコリント11:26

 

 

6/10 「主の愛に結ばれて」 マタイによる福音書 18章21~35節  川内活也牧師

1、18章の中心テーマ

マタイ18章は新共同訳聖書では5つの小見出しに分かれていますが大きくは「主に在る者たちの交わりの姿」という一つのテーマについて語られている章です。

2、子どものように

「心を入れ替えて子どものようになれ」とイエスさまは言われます。子どもらを見下げ・排除する社会をイエスさまは「否」と戒められます(18:10)。傲慢な姿勢は主に在る者たちの交わりの姿ではないのです。

3、主に赦された者として

 21節からの例え話は「主に在る者たちの交わりの姿」を逆説的に考えるもっとも分かりやすいたとえです。牢につなぐことは負債の返済のためではなく断罪のための裁きです。主に赦された者としての喜びを忘れ「仲間」である隣人を赦しなき断罪の牢につなぐ姿勢は主に在る者たちの交わりの姿ではないのです。

コロサイ3:13『互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい』

4、主の愛に結ばれて

今月は帯広教会創立記念月間です。主に受け入れられている者として互いに受け入れ合い、主に愛された者として互いに愛し合い、主に赦された者として互いに赦し合う者として、キリストの愛のうちに成長し建てられ続けて行くことを祈り求めつつ歩んでまいりましょう!

エフェソ4:16『キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです』

 

 

6/3 「収穫の働き人」 マタイによる福音書 9章35~38節                  川内活也牧師

1、教会創立記念月間

6月は帯広教会の創立記念月間です。1963年に斎藤正人牧師が開拓伝道を始められ半世紀を過ぎました。キリストの再臨・終末の日まであと何年残されているのかは知り得ませんが、主が委ねられている日数の限り、帯広教会が豊かに主に用いられる教会として歩めるように祈りましょう。

2、教会の誕生

先々週はペンテコステ記念日でした。「約束の助け主」である聖霊が使徒たちの上に降られた日であり、その日から使徒たちやイエスさまを信じる人々が「全世界に出て行って福音を宣べ伝え」る働きを開始した日なので『教会の誕生日』と言われる記念日です。

3、収穫は多い

さてイエスさまはマタイ9章37~38節で「収穫は多い」と語られました。<収穫>とは何でしょうか?それは36節にあるように飼う者のいない羊のように弱り果てている群衆、「罪」の中に死と滅びへと歩む人々が神との交わりに回復されていのちを得ることです。神さまを知らずにさまよい歩き弱り果てている羊のような人々が多くいるという意味です。

4、教会の働き

収穫のための働き。この働きは誰の喜びとなる働きでしょうか?それは「主なる神さまの喜び」です。1人の罪人が悔い改める時に天に大いなる喜びがわき上がります。自分の喜びのための「収獲」ではなく、主なる神さまの喜びである収穫、その喜びに共に与る者として福音を宣べ伝える業が、先に救いに与かっている教会・クリスチャンの働きなのです。

5、収穫の働き人として

 教会創立月間を迎え、私たちは特にこの「教会の働き」に思いを向けましょう。この帯広の町・十勝の地、私たちが歩む家庭・学校・職場・地域には未だ飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている魂が多くいるのです。収穫は多いが働き手が少ない。まず自分自身が主の喜びとされている事を喜び、それで終わる事無く主の喜びを共に喜ぶ主の同労者、収穫の働き手として用いられることを願いつつ、新しい一週へと遣わされていきましょう!

 

 

5/27 「荒れ野へ」 マタイによる福音書 4章1~11節                 川内裕子牧師

①霊に導かれて

今日は、イエスが宣教を始められる前、荒れ野で悪魔の誘惑を受けた出来事を読みます。直前のマタイ3章で、イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた後、神の霊が鳩のように降ってきます。その霊が、荒れ野にイエスを連れていきました。何のためかというと、悪魔の誘惑を受けるため。試練に遭うとき、誘惑に遭う時、自分が神から離れているからだ、何か自分が罪を犯したからだ、と考えてしまいがちなことがあります。誘惑や試練、試みにあうこと…は神とは対極にあるように感じますが、そうでもないのです。これらもまた、神が知っておられる中で起こっていることなのです。

 

②荒れ野にて

さて、荒れ野とは、人気なく、水や食物も少ない砂漠。盗賊などの危険もあるところです。聖書では、荒れ野は危機に見舞われる場所でもあり、神と向き合う場所でもあります。神と出会うことは、自分とも向き合うことでもあります。

イエスの三回の誘惑に対する答えは、いずれも申命記から引かれたものです。そしてそのいずれもが出エジプトしたイスラエルの民を想起するものでもあります。イスラエルの民は奴隷の地から神によって導き出されたにも関わらず、荒れ野で食べ物がないと声をあげ、水がないと神を試し、神を見失って金の子牛を作り出しました。

 

③神の子が、人として

 マタイ3章で「これはわたしの愛する子」と神から呼ばれたことを逆手に取るかのように「神の子なら…」とそそのかした悪魔に対して、イエスはみことばから「人は…」と答えます。イスラエルの民を見る時に、確かに人は自分を神とする誘惑に陥りやすい存在です。けれどもイエスは、「確かにそうだよね。でも人は神の口から出るみ言葉によって本当に生きる存在にされるのだよね」と私たちに語ります。

 

私たちは、今日もまた荒れ野へと連れて行かれます。そこで神に出会い、自分と向かい合いながら、自らを神とする誘惑に乗ることなく、み言葉によって生かされてゆく人生を歩みましょう。

 

5/20 「和解の神」 創世記 50章15~26節                 川内裕子牧師

①兄たちの恐れと謝罪

 父ヤコブの死後、葬儀を終えた後に、兄たちの恐れは表面化します。兄たちは、過去に自分たちがヨセフに行ってきたことを、ヨセフは許してはおらず、自分たちに仕返しをするのではないかと恐れます。エジプトにやってきて17年もの間、兄たちは心からの安心なく過ごしていたことがわかります。

 兄たちは自分たちがまずヨセフに出向くのではなく、人を介して謝罪の言葉を伝えます。また亡き父をも利用してヨセフの許しを引き出そうとします。その後、自らヨセフのもとに行き、ヨセフへの服従を語ります。

 

②ヨセフの語りかけ

 これまでヨセフに謝罪することなく歩んできた兄たちの初めての謝罪を受け、ヨセフは涙を流します。神が兄たちの悪を善に変えたこと、自分を恐れる必要はないことを語ります。兄たちを慰め、優しく語りかけたとあります。

 エジプトでヨセフと兄弟たちが再会して17年、このために神が自分を先にエジプトに遣わしたのだという言葉を、再会の時から再び繰り返してヨセフは語り直すこととなりました。

 兄たちと、ヨセフとの間に本当の和解はなかったのでしょう。同じ言葉を用いても、思いがすれ違い、互いに理解し合っていなかったヨセフと兄たちが、互いの理解のために踏み出すには、結び直してくださる神が必要でした。聖書には、異言を語ろうとも愛がなければその言葉はやかましいシンバルの音と同じ(Ⅱコリント13:1)で相手の心に響くことはないと書かれています。彼らの中につなぐ愛があったでしょうか。ぎこちなく和解の道へと踏み出すヨセフと兄弟たちの姿に、私たちもまた向き合う相手に届く愛の言葉を持っているかを問われます。

 

③和解の神

 今日はペンテコステです。使徒言行録のペンテコステの出来事を読むと、聖霊を受けた人々が、あらゆる国々からやってきた人々の言葉で神の業を語ったことが記されています。ペンテコステの出来事は、相手のわかる言葉で聖霊が語らせるときであり、人々が理解し合う交わりへと開かれていくときであったといえます。

 

 助け手であり、弁護者である聖霊の働きにより私たちは一歩踏み出し相手に歩み寄る愛を与えられます。教会の誕生日といわれるペンテコステの日、それぞれが聖霊を受けて相手に届く言葉をいただくことができますように。

 

5/13 「練りに練られて」 創世記 41章1~16節                 川内裕子牧師

①家族から離されてエジプトへ

 今日はヨセフの登場です。先週登場したヤコブの11番目の息子です。年寄り子のヨセフをヤコブはことのほか可愛がり、兄たちの嫉妬を受けました(創世記3734)。また、ヨセフは創世記37:6~11に二つの夢を語り、自分に対して兄弟や父母がひれ伏すと解釈されるような夢を見て語ったため、ますます兄弟たちから憎まれます(創世記37:611)。その事をきっかけにヨセフは兄たちに捕えられ、結果としてエジプトに奴隷として売られ、侍従長の家で仕えることを通して、紆余曲折の後、今日の箇所では侍従長ポティファルの家にある牢につながれています。

 

②忘れられていた人

 エジプトの王が胸騒ぎを覚える夢を見ました。誰もそれを解くことができない中、以前夢を解き明かしてもらった給仕役の長がヨセフのことを思い出して王に進言します。ヨセフはすぐに王の前に引き出されてきました。給仕役は自分の夢を解いてもらって2年間も、ヨセフのとりなしを忘れていたのです。

 

③ヨセフの道のり

 ヨセフは、父から愛されたかと思うとそれにより兄たちに憎まれ、エジプトに奴隷に売られたかと思うと侍従長ポティファルに重用されます。今度はそれゆえポティファルの妻に無実の罪により投獄され、獄の中で給仕長と料理長の夢を解くことになります。17歳でエジプトに売られ、すでに11年の時が経っています。給仕長からは2年もの間忘れられていました。一体自分はこれからどうなるのか、と思うような人生を歩みつつ、王の前に引き出されたヨセフは「夢を解き明かすのは私ではなく、神である」と告げます。自分の意のままにならない人生を歩んできたヨセフは、道を導くのは確かに神であることを知ったのでしょう。この間、「神が共におられたので」と聖書は二回語ります。うまくいくときに主が共にいてくださるなら、苦境の中にいるときだって、主はその手をヨセフの背に添えて導いておられたでしょう。

 

④いまどこを歩んでいるのか

 

 ヨセフの道のりはまだ続きます。ヨセフは自分の人生の主人であるようでいて、本当の主人は神なのです。ヨセフは神に練りに練られて次なる道へと歩みます。イスラエルの一族がエジプトの地で命を助けられることへとつながり、それはアブラハム、イサク、ヤコブと父祖たちに約束された神の祝福の計画の実現へとなっていきます。私たちが今何のためにここを通らされているのかと考える時、私たちのスケールでははかることのできない神のスケールで私たちははかられ、歩んでいることを思います。私たちの一日いちにちの日々の働きが、神の計画のうちに置かれ、実現へと進んでいくことはなんという喜びでしょうか。

 

5/6 「祝福してくださるまでは」 創世記 32章23~33節                 川内裕子牧師

1)ぬぐいきれない恐れ

 神の言葉に従い、多くの家族と財産と共に生まれ故郷に帰ってこようとしているヤコブです。ところが彼は、祝福をだまし取って別れたままの双子の兄エサウがまだ自分のことを殺したいほど怒っているのではないかという恐れを抱えていました。策を凝らして身の安全をはかりますが、平安を得ることができません。

 

2)あなたの本質は?

 ヤボク川の渡しで一人残ったヤコブは、その夜何者かと格闘します。夜明け前に去ることを望んだ相手に、ヤコブは祝福を受けるまでは離さないと答えます。

 相手は神であることが明らかになりますが、神はヤコブの名を尋ねます。これはヤコブが自身の本質を告白することとなりました。兄のかかと(アーケーブ)をつかんで生まれてきて、兄の祝福をだまし取って足を引っ張った(アーカブ)ヤコブです。「私の名はヤコブ」と答えることは、「私は人を欺き、出し抜き、自分の力で自らの有利を得ようとしてきた」と、自分のこれまでの生き方を、神に告白することになります。

 

3)神の祝福

ヤコブの告白に対して、神はヤコブの名をこれから「イスラエル」とするように命名します。これは「神が戦われる」「神が支配される」という意味です。自分の力で、なんとかエサウをなだめようと、策の限りを尽くしていたヤコブに、本質的な問題は、神に目を向けることだよ、と神は教えます。

格闘の最中に腿を打たれ関節を外されたヤコブは、明朝足を引きずりながら歩きます。自分がこれから歩んでいく上での要を打たれたのです。これからの生涯、自分のやり方ではなく、神さまのやり方に委ねるようにと腿を打たれたのです。ヤコブは新しい生き方を示され、平安を頂いて朝を迎えたことと思います。

 

4)教会の役割

 

 教会は常に神からの祝福を求めつつ、神と格闘する群れです。あなたは何者であるか、教会はこの世にあってどのように立っているのか、という問いを突き付けられつつ、要を打たれて問題を指摘されながら、神が戦われることなのだよ、という祝福を頂く群れなのです。私たちの教会がしていること、語っていることは何だろうか、という本質を問われながら、神と共にこれからも歩んでいきましょう。

 

4/29 「主の召命に生きる」 創世記 12章1~9節                  齊藤聖彦執事

主からの祝福と励まし

「アブラムの召命」の箇所は、帯広教会の昨年度の「応答・捧げる」と今年度の「礼拝を大切にする」という両方のテーマが含まれている。特に人生の大きな転機を迎える時に、多くの方々はこの箇所から励まされ、祈りの中で決断していく、そのような経験をされるのではなかろうか。その根拠は、まさに「主が共にいてくださる」という確信にほかならない。

 

主の招きに応える

以前平岸教会の牧師をされていた林田金弥先生は、79歳の時に家族の反対を押し切って単身で同教会へ赴任された。そこで先生は、信仰と祈りと賛美をもって、抱えていた大きな問題を解決に導き、その使命を果たされたと聞く。自分も数度お会いしたが、器が大きく年齢を感じさせないオーラがあり、いつも輝いていた先生であった。アブラムも、75歳で旅に出る時、親戚や友人の反対もあったかもしれない。しかし、神の招きに応えることが最優先であった。

 

主への召命とは

召命とは「命に召される」と書く。それは、献身をして牧師や伝道者になり、一生を神に捧げることが一般的に理解しやすい。しかし解説によれば、バプテスマを受けたその時から、神が示した道を、信仰をもって歩む―それが召命であるという。

 先日、兄 齊藤彰彦の召天一周年の記念会があった。兄は牧師にはならなかったが、ある時、「自分は一信徒として、牧師を支え、教会に仕え、そして神様に仕えていく使命が与えられている」と語っていた。亡くなる前に書かれたメモには「近づいてくる死の後、私はいったいどうなってしまうのか」という問いがあり「私は死んでも、私をこの世に送り出した存在が用意した世界で、永遠に生きることができる」という応答に涙をもって兄の信仰告白をみた。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。聖書のみ言葉はまさに真実である。

 

永遠の住まい

最後に、召命は「命が召される」ともいえるのではないか。聖書に「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」とある。

 

主の復活によって、私たちにもやがて御国の住みかが与えられ、多くの方々との再会と希望が約束されていることを感謝したい。

 

 

4/22 「教えられた祈り」 マタイ 6章9~13節                  川内活也牧師

1、主の祈り

「主の祈り」は定型文であるために「暗記して暗唱出来る」ことから<祈りの本質>を失った朗読・朗唱になってしまうこともあるようです。「主が教えられた祈り」を自分自身の心からの<祈り>として考えてみましょう。

2、天にまします我らの父よ

献身して間もない頃、この一節を祈った時、激しい感動に包まれて号泣したことがあります。「父」と呼べるのは「子」の特権です。主なる神から「我が子よ」と愛されているという自覚、その交わりのために表された十字架の愛。この冒頭の一節に「主なる神との交わりの回復に結ばれている」という信仰告白があり、そのように「呼びかけて良いんだよ」と招かれている喜びが満ち溢れています。

3、神の「義」を求め

世には多くの「不義」があります。私たちは神の義を求める信仰の目を開きつつ歩むことを求めましょう。そのためには「肉の糧」だけでなく霊的な糧・主の御言葉によって生かされることが大切です。

4、赦された者として赦す

1415節にもつながる「赦しの招き」。私たちは自分自身が<さばきの主>になってしまう弱さをカイン以来持っています。人が自分の義に従って人を裁く時、大体は神の御旨に反するものです。戸口で待ち伏せる罪の誘惑から逃れる道は「主が何を喜ばれ、何を悲しまれるか」をいつも尋ね求める祈りの内に導かれます。

5、頌栄の告白

口語訳聖書・新改訳聖書には13節末に「主の祈り」と同じく頌栄の一文があります。写本者により加筆されたであろう一文ですが、この一節こそが信仰者の主への応答の信仰告白です。国と力と栄光の主は「私」ではなく「汝()」であると告白する時、改めて「主の導き」を歩む日々へと思いが向けられるのです。

6、主の計らいをおぼえつつ

「主が教えられた祈り」は私たちに信仰による確信と、将来と希望を得させる慰めに満ちています。主の計らいを忘れることなく、その導きを覚えつつ、共に新たなる一週を歩み出しましょう!

 

 

4/8 「新しい礼拝」 ヨハネ 4章21~24節                  川内活也牧師

1、2018年度の主題聖句

帯広教会では24節を今年度の教会主題聖句とし「家庭の礼拝と教会の礼拝を大切にする」というテーマを掲げて2018年度を歩み始めました。

2、サマリヤの女

この箇所は有名な「サマリヤの女とイエスさまの出会い」の場面の一部です。「罪=神との<断絶>」を象徴する「サマリヤの女」は、罪のただ中にありながらも主なる神さまとの交わりを渇望していました。そんな彼女にイエスさまは出会って下さり「霊と真実の礼拝=神との交わり」へと招いて下さったのです。

3、偽りの礼拝

サマリヤは北イスラエル王国時代から<偽りの礼拝>に陥っていました。それは①偶像礼拝であり②自分に都合のよい部分だけを頼りとし③探究を怠り上辺だけで自己満足し④迷信的な短絡理解で恐怖する、そのような<偽りの礼拝>の中でサマリヤの女は霊的に渇き続けて来たのです。

4、全地に満ちる神

主なる神さまは<霊>であると語られます。人が考える「物質世界」という制約にとらわれない方であるという大前提が示されます。人が制限する「場所」に捕われる神ではなく全地に満ちておられる主であるからこそ「インマヌエル(主共に在り)」との約束が確かなものとされているのです。

5、霊とまことをもって

「人は上辺を見るが神は心をご覧になられる(Ⅰサム16:7)」のですから上辺(場所)ではなく「心(霊と真実)」をもって神を礼拝することが大事です。「礼拝」とはなんでしょうか?それは神さまとの交わりに生きるという信仰の告白なのです。

6、生の全領域で「礼拝」を

神さまとの交わりに生きる証しは「主の御言葉に聞き従う(戒めを守る)」ことです。聖書には様々な「律法規定」や「禁止事項」が出て来ますが、イエスさまは「新しい戒め=真実なる交わりの証し」を与えられました。それは「互いに愛し合うこと(ヨハネ13:34)」です。礼拝とは<互いに愛し合うこと>です。赦された者として赦し・受け入れられた者として受け入れ・愛された者として愛する。家庭でも教会でも学校でも職場でも、世界中どこででも「霊とまこと」をもって主の愛に応答する<まことの礼拝者>として、日々、新たな礼拝をささげて歩みましょう。

 

 

4/1 「そして歩み出す」 Ⅰコリント 15章1~5,12,20~21節                  川内活也牧師

1、イースター

 今日はイースター(キリストの復活記念日)です。聖書が語る<福音>の中心命題はキリストによって与えられた新しいいのちへの復活です。

2、死からいのちへ

 聖書は神が御自身の愛をもって人を創造し、そのいのちのために天地万物を創造されたと語ります。その愛の内に生まれながら神との交わりを断ち切った結果、人は死と滅びへと飲み込まれる存在となってしまいました。しかし神は、人が罪の中で死と滅びに飲み込まれていくことを善しとせず、その死と滅びの道から再び御自身との交わりに結ばれるいのちへの道へと歩むことを願い、人が支払うべき「死と滅びの代価」となるために御自身のいのちを死と滅びへ差し出すことを選びました。

3、復活のいのち

 罪人の死の象徴とも言うべき十字架にて、罪無き方が罪有る者として死に明け渡され死に飲み込まれました。しかし、永遠のいのちである方を死は飲み尽くす事は出来ずに吐き出すしかなかったのです。「死」は「キリストのいのち」に対して完全な敗北宣言をしたのです。そして、神との交わりに結ばれる信仰によって新たに歩む者はこのキリストの復活のいのちを持つ者とされ、それゆえに死と滅びはもはやその人を飲み込むことが出来なくなったのです。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです』ガラテヤ2:20

4、墓石は除かれた

 

 暗い墓の中で死に飲み込まれていた罪の状態。しかし神はキリストのいのちによって復活のいのち、神との交わりの道を与えられました。そして、光の世界を遮っていた隔ての墓石を取り除かれたのです。神との和解・交わりの回復による復活のいのちが与えられたという事実を信じる信仰によって、取り除かれた墓石の脇を通り抜け、新しいいのちの約束を信じる信仰をもって歩み出しましょう!