3/26 私たちは何に望みを置くのか ヨハネ黙示録11:1-14 西島啓喜執事

1 神殿、祭壇、礼拝者を数えよ

「測り、数えよ」とは「神に覚えられる、神の守りの中に置かれる」、という意味です。しかし「神殿の外の庭」は神の守りの対象ではない。ローマ帝国による迫害の手が教会のすぐ外まで押し寄せてきているという厳しい現実が反映されています。今は自由に礼拝できる、と安心しきっていますが、考えてみると、私達もまた礼拝を妨げるいろいろな力に取り囲まれているのではないか。外から来る妨害、心の中から来る妨害、教会の一致を妨げようとする力。私たちはそのような力を警戒し、より一層一致して礼拝を守っていかなければなりません。

 ここに「42か月、1260日、3日半」という数字が出てきます。これらに共通しているのは3.5という数字です。つまり不完全だ。迫害はいつまでも続かない、未完に終わる。ヨハネは希望を失わないように諸教会を励まします。

 

2 「二本のオリーブの木、また二つの燭台」

ゼカリヤ書では「二本のオリーブの木」とは「二人の油注がれた人たち」つまり神から選ばれ、神の働きのために任命された者とされています。黙示録の二人の証人とはだれか。いろいろな解釈がありますが、「苦難の中で宣教している教会」と、「教会を守る伝道者」と考えても良いのではないか。

「殉教」と「証人」とは同じ語源(Martyria)から来ています。イエス様を証しすること、殉教を覚悟しないとできないことだった。どんな状況にあっても証を続ける。教会の中でも気楽に証できる雰囲気ができればいいなと思います。

 

3 二人の証人の殉教と復活

「二人の証人」は大変力強く証をした。しかしついに敵対者に捕らえらむごたらしい死に方をした。ヨハネのもとにもそうした知らせがいつも知らされていたのではないでしょうか。しかし、殉教者(証人)は死んで終わりではない。復活させられるという希望の幻をヨハネは見せられます。人生が死で終わるなら、これほど虚しいことはありません。死が最終的な勝利者ということになる。しかし、クリスチャンの希望は、死が勝利者ではなく神が最後には勝利するという希望があるということです。

受難節を迎えています。イエス様の十字架への道を思いながらもその先にある復活をしっかり見つめていきたいと思います。聖書の語る福音の中心は、復活にあるとパウロは述べます(1コリント15章)。復活は、死後の復活の希望でもありますが、神の前に死んだような者も神は愛して、もう一度立ち上がらせてくださる、今生きている私たちに語りかける希望でもあります。いつも私達の帰ってくるのを待っている父のように待っている神の元へと立ち返りたいものです。

 

3/19 神の記憶の中に生きる ヨハネ11:17-27 澤田二穂兄

序 イエスの命との出会い

「ラザロの復活物語」は、家族の危機(死と蘇生)の経験によってイエスの愛とイエスの命に出会った兄姉たちの物語であります。

1.命である主イエス

本日は、洞察的な信仰者であるマルタ(カルペッパー)との対話を中心に取り上げたいと思います。マルタの願うようにイエスが「もしここにいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかった」(11:21)のですが、病気は癒されてもラザロ蘇生の出来事は起こらなかった、ことになります。また、マルタは「終わりの日に復活すること」(11:24)は、当時の敬虔なユダヤ人と共に模範的に信じていました。しかし、イエスが更に踏み込んで「わたしは復活であり、命である。・・・このことを信ずるか」(11:25)と言った時、マルタはイエスがキリストであること告白をするのが精いっぱいでイエスの「命の本質」は、まだはっきり見えていなかった、と言えます。

2.「この病は死に至らず」(11:4)

デンマークのセーレン・キルケゴールは、「この病は死にいたらず」(11:4)から「死に至る病」(1849年36歳)を書いた。彼は「「復活であり、命である」(11:25)イエスが墓の傍らに歩み寄ること自体が、すでにこの病の死に至らぬことを意味してはいないであろうか、と問うています。「死は決してあらゆるものの終わりではなく、永遠の生命の内部における一つの小さな出来事であるにすぎない。死さえも、まして地上の一時的な悩み、苦しみ、病気、悲惨、困難、不遜、痛み、嘆き、憂い、恨みといったようなものは、いずれも「死に至る病」ではない、と。

私たちにとって、絶望こそが「死に至る病」であると言えます。

3.現下の命(プシュケー)と永遠の命(ゾーエー)

ヨハネによる福音書12:25には「自分の命(プシュケー)を愛する者は、それを失うが、この世で自分の(プシュケー)を憎む人は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る」とありますが、最初の「命(プシュケー)」は、人間がいま現に衣食住によって生きている命を指しており、永遠の命(ゾーエー)」は、現下の命を自明視して、それだけにこだわることをやめて、神から贈与された超越的な命(ゾーエー)として(遅れてやってくる経験として)受け取り直したもの(大貫隆)という事ができます。

4.記憶される「命」

イエスの復活を「イエスの誕生から死までの生の全てが、神に永遠に記憶されること」と言い換えることができるのであれば、わたしたちの復活とは「人間の自己同一性(アイデンティティ)は誕生から形成され、死の断絶を経験するが、死を超えて、神との関係において、神の記憶において存在し続ける」こと(松見俊)と言えるでしょう。

結語:終末の「復活」より一歩踏み込んで、「(わたしが)復活であり命」であられるイエスと出会いとその関係に生きることが、希望の全てであり、信仰者の生き方であることを、イエスはマルタと対話において語っておられます。この出来事を契機に、主イエスは、「多くの実を結ぶために、一粒の麦として」(12:23)ご自身の肉体の死への道へ歩み出して行かれたのです。アーメン。

 

3/12 沖へ漕ぎ出せ ルカ5:1-11 奥村敏夫牧師

朝の礼拝と午後の研修会をご一緒できることを感謝します。
 今朝の個所はペトロが初めてイエスさまに出会った場面です。人をとる漁師になると言われたよく知られた箇所です。イエスさまはこのあとペトロの弱さも醜さも受け入れて一緒に歩んでくださったのです。
 イエスさまの話を聞こうと大勢の人が押し寄せます。そこでイエスさまはペトロの舟に乗り、少し離れたところから大勢の人に語りかけます。熱心にイエスさまの言葉を聞こうとする群衆、それを横目で見ながら、徒労に疲れ果て網を洗っているペトロたちの対比を見ることができます。夜通し漁をしたのに何もとれない疲労感。その疲れて落胆したペトロにイエスさまは「沖に出て漁をしなさい」と言われました。「沖」という言葉はもともと「深み」という意味もあります。漁に関しては素人のイエスさまが漁の専門家のペトロに指図するとは…。ペトロは「夜通し漁をしたのに一匹もとれなかったんですよ」とつぶやきます。しかし、ペトロは渋々ながらもイエスさまの言葉に従います。ペトロは断ることもできましたが、イエスさまの言葉を受け入れる、小さな隙間があったということでしょう。イエスさまの目は群衆に注がれながらも、じっとペトロの心に目を注いでいたのでした。
 私たちの信仰にもこのような小さな信仰の隙間、イエスさまの言葉を受け入れる小さな隙間が大事なのではないでしょうか。主にあって希望を見出していくこと、「深みに漕ぎ出す」ということは、教会にとっても個人にとっても大事なことです。私たちの常識、経験をいったんそこに置いて一歩前へ踏み出す。「沖へ」「深みへ」と進みだしたときに神様の大きな業を見出すことができたのです。
 大漁を前にペトロは躍り上がって喜ぶのではなく「罪深い私から離れてください」と言います。神様の大きな業を見たときに、私たちの常識や小さな経験は打ち砕かれ、ひれ伏すしかなくなるのです。勇気をもって神様の言葉に信頼し、一歩「沖へ」と漕ぎ出していきましょう。

 

2/26 イエスの信仰に従ったペトロ 使徒3:11-20 齊藤彰彦 執事

さて、今日もペトロのことに焦点を当てて聖書から学んでみようと思います。ペトロに「イエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩きなさい」と言われて、歩けるようになったこの男はペトロとヨハネのそばを飛んだり跳ねたり、踊りまわって歩きながら、神殿の中に入って行きました。その騒ぎにいったい何事が起ったのかと振り返った人たちは、何十年も物乞いをしていた足の不自由な男が癒されたのをみて我を忘れるほど驚きます。そして、その男が付きまとっている二人の人物が何かをしたらしいと言うので、やじ馬がぞろぞろと集まりだしたというのです。

 ここで、ペトロは言葉を尽くして色々な言葉を用いてイエス・キリストを語っています。13節「先祖の神、その僕イエス」14節「聖なる正しい方」、15節「命への導き手である方」、18節では、「メシア」と語ります。つまり、イエスはキリスト、すなわち救い主であるとペトロは語っているのです。さらに、「なぜこのような方を殺してしまったのか」それは17節「無知のため」である、殺した側のあなた方はそのようなお方だとは知らなかったのだと分かっているというのです。
 無知とは知恵や知識がないということです。人間はだれしもが、無知のうちに生まれてきて、何の知恵も何の知識もありませんし、イエス様のことも知らない。神様はそのように私たち人間をスタートさせます。聖書は、あなた方は無知であったが、悔い改めることができて、神様のもとに立ち返ることができるのだ、そして慰めの時が訪れる。そのような道筋をたどっていくと語るのです。ペトロはその道をたどったのです。そして慰めを得ることができたのです。イエス様の弟子として歩んだペトロでしたが、イエス様をうらぎり、逃げ出し、偽証し、挫折しました。しかし、イエス様は復活してペトロに出会い、赦し、伝道者としての道を備えてくださいました。その証人として、イエス様の信仰に従ったペトロは神殿で大胆に説教を語ることができたのです。

 イエス様の十字架の苦しみは私たちの無知のために引き起こされたけれども、しかしその出来事で悔い改めることができてわたしたちの救いになった。イエス様の苦しみや福音を知らないということでは今もイエス様の生きた時代と同じように無知の時代とも言えるかもしれません。私たちも一緒にイエス様の福音を伝えるために、様々な機会や様々な人たちとの出会いの中でキリストは主である、わたしたちの救い主であると大胆に宣べ伝えていきたいと願っています。